糸井 逆に言うと、伊丹さんも
宮本さんと同じぐらいの数の何かを抱えて
監督をやってたわけでしょう。
「妻は大丈夫かな」
という思いは、当然あったと思いますよ。
宮本 うーん、あったと思う。
糸井 やっぱり。
宮本 伊丹さん、私の芝居見ていて
ちょっと自信持ってないな、というのが
わかったんだと思います。
だから、私に自信を持たせるために、
「東京だョおっ母さん」で踊るシーンの撮影を
前倒しにしました。
糸井 宮本さんが得意で、
無意識になれるシーンの撮影を
先に持ってきたんですね。
宮本 そう。そのラッシュを観て、
「あ、そうなんだ、これでいいんだわ」
と自分で思えました。
最初はやっぱり、
主演なんてしたことないですから
プレッシャーで、自信はないんですよ。
糸井 伊丹さんが宮本さんのそのシーンを撮った、
その日一日だけで、
一本の映画のようですね。
宮本 その撮影は、ものすごく憶えてます。
糸井 伊丹さんが『お葬式』で
メガホンを持つ日が来るまでの
準備の助走は、
もうえらく長かったわけですよね。
宮本 ええ。まぁ、そのために
生まれてきたんでしょうね、きっと。
それまで伊丹さんは、
いろんなことをしてきましたが、
映画をつくって
「やっと好きなものを見つけたんだ」と
思えたんじゃないでしょうか。
糸井 だけど、伊丹さんは、
「以前から監督がやりたくて」
という人じゃないですよね。
宮本 どちらかというと
「とんでもない」というふうに、
フタをしてたんじゃないでしょうか。
糸井 うん。前々からやりたかった、という場合は
自分の方法じゃなくてもできる、
ということがあると思います。
みんなが言う方法に準じて
やってみようというのも、
やりたかった人ならできちゃいます。
だけど、イヤだった人ならではの、
新しい方法って、ありますよね。
宮本 テレビではモニターつけるのに、
どうして映画はつけないんだ、とかね?
糸井 そうですよねぇ。
自分がイニシアチブを持ってたら
試すこともできるしやめることもできます。
伊丹さんは、ご自分の考えていることを
説明するのがとても上手でしょう。
宮本 ええ。
糸井 自分はいまこう思ってるんだよということを、
未知の領域があったら未知の領域まで
相手にプレゼンテーションして
わかってもらって、
仲間に引き入れることができる人です。
場合によっては
政治家にもなれるような人だなぁ、と
ぼくは見てたんですが。
宮本 そうですねぇ‥‥だけどやっぱり、
ひとつひとつ石橋叩くようなところ、
あるんじゃないでしょうか。
糸井 あ、そうなんだ。
宮本 「これでいいじゃない」
と私が言うと、
「きみは楽天的だね」
なんて、よく言い返されました。
伊丹さんは何でも
詰めて詰めて、やります。
糸井 ぼくも石橋を叩くタイプですが、
自分ですぐに「いいじゃない」って
言っちゃうから、
ちょっと違うかなぁ。
伊丹さんのような精神的な体力は
ぼくにはないです。
無理はできない。
宮本 あ、でも、
伊丹さんだって無理はしませんよ。
糸井 うーん、そういえば、そうですね。
息止めて走る、みたいな感じは、
伊丹さんにはないよなぁ。
宮本 せっかちですけどね(笑)。
用心深く、壊れにくく、
自信を持って、
ひとつひとつつくっていって、
無理はしません。
そういうところと、
なんだかすごく厳格なところと、
ふたつ混じっていると思います。
糸井 おそらく、ひとりで仕事をなさってるときには、
完全主義的なことをしていて、
チームの仕事をしているときには、
生きものとしての直感を
ポーンと出す宮本さんとか、
反対側の意見を言う細越さんとか、
自分を壊すようなものを
混ぜ込んだんだと思います。
宮本 そうだと思います。
糸井 自分の完全主義のようなものでは、
他人を動かせない、ということを、
わかってやってるんです。
それはとても同感します。
邪魔するやつがいるのはかなわないですけど、
一緒の向きで歩いてるんだったら
動きが読めない人が
いてくれないと困りますよ。
宮本 きっとそうだったんでしょうねぇ。
糸井 受け身の仕事をとにかく
伊丹さんがなさってきたという歴史を
ぼくは感じています。
頼まれたことを、頼まれた以上に返すことで、
伊丹さんの仕事は成り立ってきた。
だから「味噌、醤油」になる、
という時代がものすごく長くて。
宮本 ええ。
糸井 監督になってはじめて「頼む側」になった。
宮本 それまでは、いろんな頼まれ仕事をしてきて
ついに爆発した、
というところがあるんでしょうね。
亡くなった私の父と、
伊丹の父・伊丹万作、
天のふたりの父親から映画を
与えられた感じがしてくる、
と言ってました。
糸井 天の人がね。
宮本 きっとつらいですよ、
伊丹万作の息子って。
糸井 おそらくずーっと天井に
乗っかってるものがあったんでしょうね。

(続きます!)
column伊丹十三さんのモノ、コト、ヒト。

36.『女たちよ!男たちよ!子供たちよ!』。

1972年に長男・万作さん、
1975年に次男・万平さんが生まれ、
伊丹さんは42歳で2児の父となります。
本業の俳優と同時に、テレビのドキュメンタリーの仕事や
エッセイの執筆、翻訳にも携わりながら、
子供を自然の中で育てたいと、湯河原へ移り住みます。

そして1977年、心理学者の岸田秀さんによる
話題作『ものぐさ精神分析』に出会い、
人の心理というものに強い興味を持つようになります。

そのころ書かれたエッセイや対談、座談をまとめた本が、
『女たちよ!男たちよ!子供たちよ!』(1979年)。
この本の大きなテーマは、育児と自分です。

四部から構成され、第一部「女たちよ!」は
1977年、雑誌『わたしは女』に掲載された、
CMディレクターで評論家の村上節子さんとの
男女の性感がテーマの対談。
男性と女性の感覚の違いを率直に語りつつ、
そこから見える意識の違いについて語られています。

第二部「男たちよ!」は1977年、『週刊文春』に
「原色自由圖鑑」というタイトルで連載していた、
仕事と育児のエッセイ。
前作のエッセイ集となる『日本世間噺大系』に
見られるような、聞き手に徹する姿勢からうってかわって、
個人の感じたこと、他者を通して見る自らの姿などを
一人称で語り、人の心の摩訶不思議さを
仕事の現場における人の恐怖心、男の家事、
子供をしつけるときの千々に乱れる心理など
さまざまなエピソードから浮かび上がらせています。
もちろん、伊丹さんらしい諧謔や
物悲しさの中のおかしみは失われず、
ひとつひとつが何度読んでもおもしろい
エッセイになっています。

第三部「子供たちよ!」は
1977年から79年にかけて育児雑誌『セサミ』にて
連載された、「父親招待席」がメインタイトルの
識者たちとの鼎談集。
それぞれのタイトルを
「自殺論的育児論」(岸田秀さん、藤原審彌さん)、
「疎外論的育児論」(城塚登さん、森敦さん)
「出会い論的育児論」(福島章さん、寺山修司さん)、
「自由論的育児論」(岡本清一さん、河合隼雄さん)、
「受容論的育児論」(富田達彦さん、水島恵一さん)とし、
識者の方々と侃々諤々の育児理論が語り合われます。
ちなみ伊丹さんは、「自殺論的育児論」の
端緒ともなる本、藤原審彌さん原作の『死にたがる子』が
テレビ化された際、出演されています。

そして第四部は、この本の総括として、
伊丹さんの育児論を整理するという意味合いでなされた、
岸田秀さんとの対談、
「自我論的育児論―『ずれ』と不安定」です。

伊丹さんは本書の前書きに

「本書を生み出す過程において私が学んだ最大のことはおそらく次のことでしょう。すなわち、自分に出会えない人生は他者とも出会えない、ということです。(中略)子供を育てるということと、妻とどのような回路で出会っているのかということ、仕事仲間とどのような人間関係を築こうとするかということ、自分がどのように自分であるかということ、はすべてお互いに影響しあっており、一つだけ切り離すことが不可能なのはいうまでもありません。」

と書かれています。
全編を通読した後、あらためてこの前書きを読むと、
伊丹さんのとことんものを見つめようとする姿勢に
痛々しいまでの強さとやさしさを感じます。
(ほぼ日・りか)

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参考:伊丹十三記念館ホームページ
   『伊丹十三記念館 ガイドブック』
   『伊丹十三の本』ほか。


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2010-02-07-SUN