HABU
ハブの棒使い。
やればできるか、晴耕雨読。

その43 田中一村という画家

幼少時から天性の画才を発揮し、
7歳で文部大臣賞を獲得した神童。
米邨の画号で南画家として多くの顧客を持ち、
独学19歳で美術名鑑に最年少の名を残す。
田中一村という画家がいたのです。

東京美術学校の日本画科に
東山魁夷、加藤栄三、橋本明治らと同期入学。
持病の結核の悪化でわずか3ヶ月で同校を退学、
千葉にこもってひとり花鳥画や風景画を描き続けた。
田中一村という画家がいたのです。

39歳で一村と改名、自信作「秋晴れ」を青龍展に応募。
背景に静かにたたずむ藁葺き屋根の民家を配し
前景に黒くそびえる枯老木と枝に干された真新しい大根、
脇に小さく描かれた闘鶏が鬼気迫る画中の唯一の動。
田中一村という画家がいたのです。

「秋晴れ」の落選に川端龍子と袂を分かち、
以来死ぬまで一切中央画壇との接触を絶った。
自分が納得できる自分だけの絵を完成させるべく
放浪の果てに50歳で奄美大島に移り住んだ。
田中一村という画家がいたのです。

ランニングシャツにステテコ姿、
数年間を大島紬の染織工として働いて、
貯めた金で次の数年間は絵筆を握る。
そうして己ひとりの美をとことんまで追求し続けた。
田中一村という画家がいたのです。

周囲の奇異の目など気にすることもなく、
イセエビやブダイ、アカショウビンなどを精確に写生。
世間の無理解などどこ吹く風と、
ビロウやダチュラ、パパイアなどの植物を完璧に再現。
田中一村という画家がいたのです。

自ら閻魔大王への土産と称した「アダンの木」、
その予兆に満ちた空気のテンションは晩期のW.ターナーか?
自分の人生最後の絵と呼んだ「クワズイモとソテツ」、
その暗くむせ返るオーラはあるいは日本のA.ルソーなのか?
そんな田中一村という画家がいたのです。

生涯一度の個展を開くこともなく
妻も子もなく、親しい友人もほとんどいないまま、
自家製の野菜でひとり夕食の準備中に心不全で倒れた
享年69歳の孤高の画家。
田中孝という老人がいたのです。

田中一村の死後、作品は散逸してしまい、
奄美大島ではなかなか実物を見ることができませんでした。
ようやく没後24年経つ今秋、笠利町に一村記念館ができ、
主要作品を間近に鑑賞できることができるようになります。
いざ来たれ、そして見よ。


一村の愛した造形、海岸にはえるアダン

2001-03-19-MON
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