COOK
書くことで食うこと。
山本一力さんが作家になった話。

第7回 真剣にやるというよろこび

糸井 鋳型に押されたものが残る、
ということについては、
人が死ぬっていうことに対しても思うんです。

みんなの中にいるある人のぜんぶ合わさったものが
その人だったというふうに考えると、
死んでも生きているし、
生きてても死んでいる人もいるし、
その人という鋳型で押された側が残らないものは
死んでいるというんじゃないのかなぁ。

ぼくの父親が亡くなった時、
ぼくは「父が死んだ」という実感がなかったんです。
葬式をやってもまだ実感がなくて、
葬式のときには笑っていましたからね。
もちろん悲しかったんですけど、
日常の強さってものすごいものがあるから、
誰かがちょっと冗談を言っているのが聞こえると
ちゃんと笑えるんですよ。

で、一二月に亡くなって、
正月に里帰りしてテレビ見ていたら、
自分の座っている位置が「変」なんですよ。
おかしいなあと思っていたら、
親父がいないぶんの景色が変わっていたんです。
「いねぇ」っていうだけのことなんだけど、
こんなふうにおやじがいたんだ、とはじめて見えて、
「死ぬってやだなあ。死なねえ方がいいなあ。
 みんなが死にたくないという理由はこれなんだなぁ」
と思ったんです。
いま俺が死んだとしたら、
未練みたいなものが型で残るから、
俺はやっぱり、すぐには死にたくないなぁ……。
そういうことを、はじめて思ったんです。

そういうことと、いい商品だとかいろんなことって
そうとう似ていると思っているんです。
いまの世の中全般としては、みんなが
「本物ってなに?」という説明をしたがるけれども、
わかりゃしないんですよね。
オーラとかいろいろな言葉を使って
説明をしたがっているけれども、
ぜんぶ言い換えにしか過ぎない。

ある人が通ったあとの轍がついたとか、
この型の沈みこみがそうとう深いとか、
もう、そういうことでしかわからないというか。

山本さんのように
時代小説を書いている方は、
幻中の幻を、毎日書いているわけですよね。
証拠を出せないところを、毎日作りあげている。
だから、型のほうを作るというよろこびが、
ものすごくあるんじゃないかなぁと思いました。
今日実際にお会いして、つくづくそう感じました。

イデオロギーだとかで語れるところじゃない場所に
生きたり死んだりということはある……。
山本さんのお話を聞いていて嬉しいのは、
そういうことが、ぜんぶ符合するからですね。
山本 そうですか。うれしいなあ。
糸井 ミステリーの中には、汚れがないんですよ。
あとで記号に直せるように作らないと
ミステリーとしては、成立しにくい。
山本 あぁ、そうだなぁ。
糸井 山本さんの小説には、
その汚れがちゃんとついてる気がして、
「ああ、こういうことをしばらく忘れていたなあ」
と思ったんです。
誰かが歩いたから足跡がある。
足跡にもなってないけど、新品の建て込みじゃない、
という感じがありますよね。
そういう意味では、遅くデビューするって
すっごい恵まれたことともいえるなあと思った。
山本 まったくそうですね。
望んでしたことでもなかったわけですよ。
糸井 そうですよねえ。
山本 人それぞれに、やっぱり
いちばんいい時期ってあるんでしょうね。

ぼくは、チャンスというのは
絶対的に平等だと思っているんですよ。
でも、今の時代の中で勘違いされているのは、
何も実行せずに、
チャンスの平等ということには
自分で目をつぶっておいて、
結果の平等を求めてくるでしょう?
そんなバカな話があるかと思うんですよね。

やっぱり汗を流している人は、
流しただけのことはなければいけないし、
働くっていうことの大事さは、やはりある。

いまの三〇代ぐらいの人たちと話していて思うのは、
今日やったことを、明日には認めてよという
この短絡的な部分……そこにはほんとにこう、
腰が引けちゃいますね。
糸井 それは山本さん、五〇歳過ぎでもおんなじですよ。
五〇歳六〇歳過ぎてもおなじ考えの人がいますもの。
それが伝染しているというか。
山本さんが幸運だったのは、報酬にみあわないぐらいの
大きな真剣さがあったから、だと思うんです。
山本 それは、あなたもそうでしょう?
糸井 ぼくは若い頃には、
真剣さを過剰に見せつけるやつに
うそつきが多いような気がしていたから、
そうじゃなく見せていたんです。
でも今、年を取ってからは、
何も恥ずかしくなくなっちゃったので、
努力も見せられるようになった。
やはり、真剣にやることは楽しいですよ。
山本 だからね、思うに糸井さん、
あなたと僕とは偶然おない年だということで、
すごい感じたんだけども、
ぼくらの年で、こうして汗流してることって、
きっとね、楽しいんですよ。
糸井 楽しい(笑)。
山本 三〇代のころにわからなかった楽しみを、
今、味わえますよね。
糸井 今ですね。
山本 今の世代が元気ないっていう話を聞くと
いいかげんにしろよ、と言いたいですよね。
口あけたらリストラだなんて言ってないで
言葉遊びをしているなら働いたほうがいい。
糸井 そうだね。相撲じたいがおもしろければ、
水入りになろうが何しようが、
ずっと相撲を取っていたいという楽しさがある。
山本 うん。だからプレゼンあんなに楽しかった。
糸井 あれ、試合なんですよね?
山本 まったく、そうでしょう。結果がわかる試合だもの。
うまくいけば名誉も富も手に入るみたいな話だから、
あんなに楽しいことはない。
自分で考えたことを相手に買ってもらって、
しかもそれを世の中の人たちが受けとめてくれる。
これはね、広告づくりも小説も、おなじなんですね。
糸井 ええ。同じです。
最後には世の中の人が受けとめてくれる。
あるいは世の中に波紋が広がるかもしれない。
波紋をもとにして絵を描く人がいるかもしれない。
写真を撮る人がいるかもしれない。
アベックの恋が結ばれるかもしれない。
「何かが変わっていくんじゃないか」
という期待を、信じられるんですよ。
“蟷螂の斧”だとしても、その蟷螂の斧を
写真に撮ったら、これ、いい絵ですよねえ。
山本 絶対にすごい蟷螂だね。
糸井 その蟷螂の斧を見た人が
ぼくらの想像していないところで
何かを起こしてくれるとしたら、
その喜びというのには、
極端に言うと、もう何も要らないですよ。
山本 ほんと。
ひとつのことを投げかけて
そこから副産物的なムーブメントが出てきて、
最後には大きなものになる。
自分が火元だったかもしれないなと思う
あの快感っていうのは、たまらない。
糸井 ええ。
楽しくてしようがないです。苦しいですけども。
山本 それを日々やってられるというよろこびはすごい。
何かを生む根っこになるかもしれない原稿を
書いているということは、もうよろこびですよ。

ぼくは原稿を書いている時に、
いちばん気持ちが安らぐんですよ。
そりゃ、確かにしんどいですよ?
糸井 それはそうです。
山本 一行書いてはヤニ吹かし、ってねぇ。
でも、またやらなきゃという気になるし、
やっている喜びがあります。
糸井 武士が彫った運慶快慶の仁王像というのが
今も残っているということのすごさって、
ありますよね。あれはよろこびだと思う。
彫っている時にももう、
それだけの何かがあったんだと思うんですよ。
残るのは鋳型ですし、彫った人も死んでいるけれど、
仏像という鋳型の外側も、すでに運慶だった、
というようなことですよねぇ。
山本 そうですね。
糸井 そのことのよろこびって、渡すもんかと思う。
山本 それで仕事としてできていけるなら、
そんなにうれしいことはないですよ。

(つづきます)

2002-06-05-WED

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