第12回 旧細川家下屋敷庭園を歩きながら。

糸井 この門から、公園へと続いてるんですね。
細川 そうなんですよ。
閉館日は門も閉まっているんですが。
糸井 きれいな公園ですね。
そうか、旧細川家ということは、
有栖川宮公園みたいなものですね。
細川 そうです。はい。
その辺まで
池がありましてね。
あ、この下の神田川のところ、
とても桜がきれいなんですよ。
私は江戸川橋からここまでよく歩いてくるんですけど、
桜の時期はとてもいいんですね。
糸井 いや、いいですねぇ。
庭園だったときというのは、
ここの家の主だけが見る庭園なわけですよね。
細川 そうですね。
糸井 昔の人はそういうのって、
寂しいなと思わなかったんですかね。
細川 御家中の方と言うんでしょうかね、
執事の方が6、7人とか
コックさんも3、4人いましたし。
糸井 村みたいな。
細川 ええ。お手伝いさんが何人いたかな。
恐らく7、8人いたんじゃないかと、
私が子供の頃は。
糸井 暮らしがあったんですね。つまり、この中に。
細川 そうですね。この辺の周りも
全部細川家に関係のある学者さんとか、
それから漆をやってる方とか、
運転手さんとか、そんな方々の住まいが
ずっとありましたので。
糸井 今想像する、いわゆるお屋敷とは
全然違うスケールということですね。
細川 そうですね。
これも古い家でしてね。
上に洋館があって、下に和風の館があって。
今洋館のほうは
前川製作所さんが迎賓館のようにしておられて、
半分は「和敬塾」という学生の寮なんです。
糸井 来る途中に見えました。
和敬塾。
細川邸だったわけですね。
ああ、きれいだなぁ。
こんな公園、知らなかった。
ちょっとあきれてます。
細川 静かな公園ですが、
有栖川公園ほどには人が知らないので。
糸井 手入れもすごいですね。
細川 大変ですね。
この建物が去年まで開いてたんですけども、
老朽化したので今クローズしてるんですね。
今度、区のほうでも
ちょっと考えて
何かにしたいと言ってますが。
糸井 今は、じゃ、区の管理に?
細川 文京区の管理になっています。
子供の頃に、実はここに居ましたんです。
糸井 ここに、ですか? へぇ‥‥。
細川 はい。上のほうの洋館のほうとこちらと両方、
代わる代わるに行ったり来たりしてまして。
糸井 庭の広い家の子って感じで。
細川 ここは孔雀が2、3羽放されてましてね。
糸井 孔雀って、どう猛なんですよね、意外とね。
細川 そうですね。こちらから
一周して参っていきましょうか。
糸井 どうぞ、どちらでも。
こんなに人の来ない──。
細川 本当に。
区のほうで、そのうち
レストランだかなんかも考えたい
とかいう話もあるようですが。
糸井 そういう考えもありますね。
細川 能舞台なんかの話も
アイデアとしてあるとか聞きましたね。
糸井 区の管理で、こんなにいい管理ができていて。
庭師の人もけっこう気の利いた人ですよね。
タンポポの残し方とか
じつはけっこうやってますね。
上手い。
好きでやってるんだろうなぁ。
細川 糸井さんは私よりだいぶお若いですから、
タンポポを食べられた
なんていうことはないでしょう?
糸井 ないです。話は聞いてます。
細川 私は疎開してるとき
タンポポばかり採りにやらされてたもんですから。
その頃に教えられてたのは、
洋タンポポと和タンポポとありましてね。
食べるには洋タンポポのほうが
柔らかくていいと言うんですね。
私はてっきり和タンポポだと思ってたら、
そうではなくて。
糸井 ああ、逆だったんですね。
細川 ええ、ガクのところが
洋タンポポのほうが
サラダにするにはいいらしいんですね。
糸井 タンポポ茶とかというのは
たしか今も売ってますね。
細川 ありますね。タンポポ茶、はい。
糸井 この庭園をつくったのは、
もう江戸時代ということですか。
細川 そうですね。恐らく護立の頃に
だいぶ直してるとは思いますけども。
このちょっと横のところに、
有斐学舎という
熊本から出てきた学生さん達の奨学のために、
寮をつくっていたんですね。
100人ぐらいそこにいましたでしょうか。
今はもうそれはここから場所を移して、
志木のほうにあるんですが。
糸井 それは細川さんのとこの?
細川 はい。祖父が奨学金を出してつくった学生寮で、
いろんな学校の学生さん達が。
糸井 きれいな公園だぁ‥‥。これもなんか、
細川 これも中国のなんか由緒あるものなんだそうです。
糸井 でしょうね。
細川 頭、どうぞお気を付けて。
かえってお散歩に引っ張り回しまして。
糸井 いやいや、いいものを見ました。
ありがとうございました。
(細川護熙さんとのお話は、これにて終りです。
 御愛読いただき、ありがとうございました!)

 

2010-05-30-SUN