YAMADA
書きあぐねている人のための
小説入門。

保坂和志さんに聞いた、書くという訓練。

第1回 なぜ、風景を書くか?

ほぼ日 小説を書くときに、
ストーリーよりも感情吐露よりも、
風景を書くことを重視している保坂さんに、
ふだんよく散歩をしているという
世田谷の羽根木公園でお話を伺えるなんて、
ワクワクしています。
保坂 いまはこうして二人でいるんだけど、
一人で来るのもいいんですよ。
一人で公園を歩くっていうのは、
頭の中で、誰かと喋っている気がするんです。
この風景がいいと感じているときに、
口ではうまく言えない感覚なんだけど、
「おもしろいよね」
「うん」
「ほら、あそこに・・・」
って、誰かと話しているような気がする。

誰か、好きな女の子がいると、
特に激しく好きな時期って、どこに行ったとしても、
その子が横にいればなぁ、とか思うでしょ?
そういう経験が重なると、一人で歩いていて、
誰もいなくても、
心の中で語りかける相手がいるというか。

今、本当に抜けるような空を背景にして、
色づきだした葉っぱがそこにあって、
日があたっていて、からだもあたたかくて……。
この風景の全体は、
絶対に再現できないものだと思うんです。

酒飲んでいるときに、
昔の女の子とつきあった話とか、
スケベな話とかを喋ると、
まわりにいる編集者やともだちは、
おもしろがって聞いてて、
「なんでそういうのを小説に書かないんだ?」
と言うんだけどね。
でも、ぼくにとっては、
今、こうして目の前にある風景のほうが、
断然強い。っていうか、心が動く。

女の子とつきあった話だとか、
スケベな話っていうのは、
酒飲んでいるときにもわかるレベルの話でしょう。
酒飲んでるときにもわかる話っていうのは、
もう、事前に『おもしろい話』という
ジャンルのひきだしがあって、
「それぞれの人が、それまで五〇パターンぐらい
 聞いてきた話に、また新しいのが加わる」
という程度のものなんですよね。

だから、酒飲んでるときに
伝わるような話なんていうのは、
わざわざ書きたいとは思わないんです。

それに、自分自身の恋愛の話とかっていうのは、
すでに知っているわけでしょう。自分では。
知ってるものなんか、
ぼくは、いちいち、書きたくないんですよね。

小説は、願望とか欲望が言葉になって
ストーリーが生まれてくるものだと思われていて、
そうすると、恋愛の話とか、
誰かを殺したくなった話というのが、
多くなってしまうんだけど、
こうして公園のベンチに座って、
こういう風景を見ていると、願望とか欲望よりも、
こういう風景の方が、
──それが大きいか深いか強いか、
どう言えばいいかわからないけど──
もっと、断然「上のもの」だと感じるのね。

今の時期に、葉っぱがキラキラするのって、
小説で書くとしたら、どう書いたらいいか、
ぜんぜんわからないんですよ。
あの木、すごくいいけど、どこまで行っても、
漫然としか見られないですよね。
全体を見ていたと思うと、細部の葉っぱになってて、
次には背景の空の青さになってて、って。
こうして見ている最中に、すでに、
再現するのは不可能にちかいって思うでしょ。
それを文字にするとかって……
あの……苦痛でしょう? 途方にくれるでしょう?

今のこの公園から受けている感じって、
ここにいるときにしか言えないんだけど、
そういうほとんど不可能とわかっていることを、
それでもできるかぎり文字で再現したい
っていうのが、ぼくの小説なんです。

風景を完全に再現できたと思った人は、
今までにいないだろうし、
無理なんだろうなという気持ちはありますけど。
ほぼ日 これまでの表現者も書き尽くせなかった風景を
再現したい気持ちって、どんなものなのですか?
保坂 風景を再現したいというのは、
何か、願望とか欲望というよりも、
「悲しみ」とかのような気がする。

ぼくは、今のこの風景を前にしたときの
至福感っていうのを小説に書きたいんだけど、
その裏には、
「これは、絶対に今ここにしかない」
ということを知っている
悲しみのようなものがあるんだと思うの。

だから、飲み屋で通じるようなことなんて、
わかりやすすぎて、そういう再現不可能な悲しみから
逃げてるんじゃないかと思うんです。

こういう公園の風景を一人で見ていると、
例えば、去年死んだ小説家の日野啓三さんが
やっぱりこの十月のこの風景をすごい好きで……と
日野さんを思い出すし、書いているときには
どこまで考えていたか、もう忘れちゃったんだけど、
『カンバセイション・ピース』
にも、つながっているとも思う。

『カンバセイション・ピース』の最終章は、
お母さんが子どもに「ほら、きれいな空ね」って
言うところからはじまって、それはこの風景、
この空のことなんだけど、あの話の中でも
「きれいな空ね」というのは、
死んだ人に向かっても、
言っているんじゃないかと、
語り手の「私」が思うことで、
ぐんぐん最後の情景まで
引っ張られていくきっかけになるんです。

自分自身の存在も有限だし、
人間も有限だし、もうぼくの年になると、
昔に知っていた人も
たくさん死んでいるとかいう気持ちだってある。

「風景を見るときには、
 一人でいても好きな女の子に語りかけている」
というと話が通じやすいんだけど、
それすらも、一部分でしかないんだよね。
ほぼ日 「一人で歩いていても、誰かと喋っている感じ」
は、何も、好きな女性とかには限定されない、と。
保坂 人間が有限であるということや、
死んだ人との関わりがあって
人間の心が生まれている。

人間の心って、自然と誰かに語りかけるように
プログラムされているらしくて、
恋愛っていうのは、語りかけるものの、
ほんの一部分なんじゃないかって思う。
恋人がいるから語りかけたくなるんじゃなくて、
もともと心の中では、いつも誰かに語りかけているから、
そこに恋人がはまるんじゃないかって思う。

恋人に語りかけるというと、
すぐに小説にはなるんだけど、
わかりやすいところで書いたらつまんない、
というのが、ぼくの小説観なんですよね。
 
(つづきます)

2003-11-15-SAT

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