カンバセイション・ピース。

「7月末にわたしの新刊
 『カンバセイション・ピース』が発売されます。
 これは数年ぶりに本当に気合の入った小説で、
 自分でも、出来に、大変満足しています」

作家・保坂和志さんからいただいたメールに、
ただごとではない雰囲気を感じたものですから、
まだゲラ刷りしかあがっていない時点で、お会いして、
この自信作のことを、本人から語ってもらいました。

小説を書くことって、ひとつの冒険の話なんだよなぁ。
ゆっくりつきあってくださったら、
きっと、ぐぐっと入り込む連載になることでしょう。
ほんとにぼくは興奮しました。

好評の対談の後に、「小説家でいること」を、
追加で、保坂さんにじっくりうかがってみたんです。
そちらのほうも、短期集中連載で、おとどけしますね。
インタビュアーは「ほぼ日」スタッフの木村俊介です。


第1回 「そのつど、おもしろい」

糸井 ぼくは保坂さんファンとして
ずっと追っかけているわけじゃないですけど、
保坂さんが『世界を肯定する哲学』を出した時、
ちょっと、びっくりしたんですよ。
保坂 あ、そうですか。
糸井 保坂さんって、
それまで、どちらかと言うと、
「書いたら、ほっとけばいいや」
という人だと思っていたんです。

……そうだった、ですよね?
保坂 いや、ちがうんですよ。

最初にぼくが、
『プレーンソング(※)』を書いた時、
「何この人、ふだんあることを書いて、
 バカじゃない?」
と、バカにされたので……。
  (※講談社刊・90年に群像新人賞受賞のデビュー作)

読み方を自分で宣伝しないと、
評論家とかに任せると、
「バカじゃん」っていうタイプの人か、
そうじゃなければ、その説明が
えらく理屈っぽくなっちゃったりして、
小説がおもしろくなさそうに見えちゃうか、で。

だから、まず、
おもしろいようには書いているんだっていう。
その人たちの現場に、読んでいる人も居あわせて、
たのしいような気持ちに、なってもらいたいのが、
ぼくの小説にある、まず最初の気持ちである、と。

学校の国語の授業で、
「この小説のテーマは、なんですか」
「あなたは、どこに感動しましたか」
みたいなことを、説明させるでしょう?

それをやられちゃうと、ぼくの小説を
読んだことには、ならなくなっちゃうんで。

最初のころ、とにかく、
「小説っていうのは、
 読む時間の中にあるもんなんだ」

ということを、自分の宣伝をしながら
自分で考えていったことが、あるんです。

はじめは自分でも、
「自分で書いていて、
 これはおもしろいとは思うんだけど、
 このおもしろさは、
 いったいどこにあるんだろう?」
と思いながら、書いていたんですよね。

糸井 もともと保坂さんは、ほんとは
いっぱい読んでいる人ですよね。
保坂 そんなに、読んでないですよ。
本を読むようになったのは中3か高1ぐらいで、
それまで、本って読まなかった……。
その後も、自分自身は、実はあんまり
たのしみとして趣味として本を読むっていうことは、
あんまり、ないんですよ。

ぼくにとって、たのしみっていうのは、
競馬やったり、将棋やったり、
外で草野球やったり、それがたのしみなんです。
うちで音楽をかけていたり。

だから、本とか映画とかから
たのしみをもらう必要はないんですよね。
糸井 ……この話、どんなに
迂回しようが、行きましょう(笑)。
「書いてるくせに」っていうオチが、
ちゃんと、用意されているからさぁ。
保坂 読むけど、たとえば、
「このところ何を読んだ?」
って言われると、思い当たらないですね。
自分ではほんとに小説を読まないから。

でも、たまに読むと、
たのしみもあって、読むんですけど。
途中で読みやめちゃうものが、かなりある。

300ページの本を
250ページぐらいまで読んでいても、
「せっかくだから最後まで読もう」
とは、ぼくは思わないんです。

つまんないな、だらけてきたなと思うと、
その場で、やめちゃうんです。

ぼく自身の小説が、
そうされないように考えているというか、
「ちょっとでも
 おかしくなると、人は読みやめるもんだ」
と思っているんですよ。

作る方は、ストーリーがきちんとできてると、
そのストーリーに頼っちゃうところがあるから、
一部分でヘンなことを書いたり、だらけたりしても、
「ストーリーが引っぱってくれる」
と思いがちなんですけど、ぼくは、
「ストーリー」じゃなくて、小島信夫さん曰く、
「そのつどそのつどおもしろい」
というか、ずーっと何だかおもしろいっていう
書き方が、いちばん、いいんじゃないかと。
糸井 人といる時と同じですよね、つまり。
保坂 そうです。
糸井 この先に、何が待っていようが、
この時間がおもしろくなければダメだと。
保坂 ええ。
糸井 だいたい、保坂さんが
「小説を書こう」
っていう気になるのが不思議なんだけど。

ぼくは、保坂さんが作家になる前の、
メシをくうための仕事をしている時に、
仕事人として、会っているんだけど、
あれは、ややこしい商売でしたよね……。

保坂さんは、
カルチャーセンターの仕事をやっていた。
つまり、おもしろいと思う人を
キャスティングして、おもしろいことをさせて、
お客さんを飽きさせないで、
次はどんな企画で行こうかなと編んでいて。

それこそ、「生きものの編集者」でしょう。

あれ、企画そのものも、
保坂さんの作ったのが、ほとんどでしたよね?
保坂 ええ。
糸井 あの仕事をやっていた保坂さんだと思うと、
今の話って、ちょっと、わかるんだよね。

ドラマは要らないし、
ストーリーは必要ないけど、来た人が帰る時、
「おもしろかった」と言ってもらいたいという。

さっきの、
「そのつどそのつど、おもしろかった」
という話と、つながるじゃないですか。
保坂 ええ。
(つづきます)  


第2回 「文字を書くという病」

糸井 最初に、小説を書こうという時、
保坂さんは、どういう気持ちだったんですか?
保坂 書こうと思ったのは、高校2年の夏休みで……。
糸井 そんな時に、さかのぼるんですか?
保坂 だって、
本読んでみたら、おもしろかったから(笑)。
でも、その後、ずっと、
どう書いていいのか、わからなかった。

理論的なこととかを、
すごく考えるタチなんです。
アルトナン・アルトーっていう、
頭がおかしくなった人、いますよね。

あの人の映画や演劇についての
エッセイを読んでいると、
すごくよく、わかるんです。

ということは
ぼくもやっぱり、ちょっと頭がおかしいらしくて、
根底的なところから考えないと気が済まない。

だから学生時代には、
「小説って、なんで風景描写をしたり、
 人物描写をしなきゃいけないんだろう?」

もっと簡潔に、数式みたいに書いて、
最後に「以上、証明終り」ってやれば
いいんじゃないか、と。

そのころは、小説って
テーマを書くものだと思っていたから、
証明をやるみたいにシンプルにすればいいのに、
なんで小説は、こんなに
まどろっこしいスタイルをとるのか?
と、わりあい、ずっと考えていたんですね。

なんか、小説ってものは
「そうしなきゃいけないらしい」から、
風景を書いてみたり、
人がタバコを吸っているところを
書いたりしたこともあるんですけど、
自分では、書く必然性がわからないわけです。

必然性がわかんないことを、
形だけなぞるようには、絶対にできないんですね。
糸井 ほんとはみんな、
そういう人のはずでしょ?

だけど、なんかあきらめるというか、
「考えてもしょうがないから書いた」
っていうところに行くんでしょうね。
保坂 ぼくが小説を読んでいて、
最初にいちばんわかんなかったのは、
その「描写」の部分なんです。

そういうわけで、ぼくの小説には
「描写って、なんであるの?」
と考えたことが反映されているから、
人よりも、描写が多いわけですよね。
糸井 ふーん。
逆に、多くなるんだ。
保坂 今回の
『カンバセイション・ピース』
っていう小説には建物がありまして、
「まえの小説で、風景のことを書いたから、
 今度は、建物と人間の関係というのを、
 ひとつ、書こうかな」
っていうことなんですけど。
糸井 建物には、作った人の意志が残っているよね?
保坂 いちばん大事なのは、
「住んでる人と建物の間に生まれたやりとり」
っていうか、その人と建物の
「関係」だろうということなんです。

そして、もうひとつ、この小説を書いた動機は、
「人は、過去の記憶によって守られている」
ということでして。

たとえば、ミステリーだと、
「確かだと思っていた記憶が、
 ガラガラガラガラと、崩れていって、
 現在の自分があやうくなる」
というのが、小説の主流というか、
パターンですよね。

でもそうじゃなくて、
本来、ふつうの人間っていうのは、
断片的に持っている過去の記憶によって、
守られて生きている
んですよね。
で、それを、いちいちつっついたりしない。
糸井 うん。小説の中の人間は、つっつくけどね。
保坂 そう。現実には、つっつかないわけ。
「つっつかないこと」が、大事なんですよ。
糸井 おもしろいなぁ。
保坂 つっついちゃったら、
つまんない小説にしかなんないわけですよ。
みんなが予想してる小説にしかならないわけ。
そうじゃなくて、もっとぼんやり、
「あのころ、たのしかったな」って。
それで、いろいろ記憶が出てくるわけでしょ。

ぼくだったら鎌倉だから、
海で遊んでたこととか、
ともだちと草野球してたこととか。

たとえば、
「メンバーは5人だった」とか思っていても、
ほんとは、違っていたりするわけですよ。
そんなの、かまわないでしょう?
「かまわない」とふだん思っていることが、
いちばん、大事なんです。
糸井 ただ、実際には、そうは言うものの、
「あいつ、いたわ」とか、気づきますよね。
保坂 「いたわ」の瞬間は、アッと思うけど、
自分の記憶力に対する自信が
ちょっと揺らぐくらいで、揺らいでも、
子どものころのしあわせな気持ちは、
揺らがないでしょう?
糸井 記憶全体は、揺らがないね。
保坂 そこが、いちばん、大事なの。
全体の景色が変わらないことが大事なの。

しかも、そもそも、
記憶をカッチリさせたものにしていくのは、
「文字に書く」という行為が、
もともとの元凶なわけ。
糸井 文字に書かなければ、
それで済んでいるわけだからね。

うん、ものすごく共感する。
保坂 「言葉」を持っていることが、
記憶をカッチリさせる
元凶の一種ではあるんだけど、
文字っていうのは、
話したり、ただ思ったりするだけの
「言葉」以上に、
人間のなかにあるものじゃなくて、
ある種、テクノロジーの世界なんです。

だから
「文字に書く」ということは、
人間本来の姿ではないものに、
委ねちゃうことなんですよ。
糸井 うん。
(つづきます!)  


第3回
「取り調べる小説はつまんない」

糸井 昔、「人間には小説は向いてない」って
話してたんだけど、正解だと思うんです。
保坂 人間には、かなり負担ですね、
小説を書くという行為は。
糸井 うん。
さらに言うと、
小説という文字に書いておさめるために、
ほんとは、
書いてる本人もどうでもいいことを、
整えなきゃいけないじゃないですか。

「4人いた人を、
 ひとり消しちゃうわけにはいかない」
とか、そういう整合性のために、
ものすごい、大きな労力を費やしますよね。

お客さんも、
ほんとうはどうでもいいと思っているのに、
整合性のところが気になるってことで、
小説を、読み続ける。

つまり、どっちでもいいところで、
お客さんと書き手の両方が、
すごい時間を費やしているというか……。
保坂 うん。
糸井 それについての疑問が、
もともと、あったんですよね。
だから、資料を調べなきゃいけないようなことは、
書きたくないっていうのが、ぼくの根っこの気分で。

ぼくが、「ほぼ日」をはじめてから
どんなにラクかっていうのは、そこなんです。
保坂 記憶を細かくつっついていくことは、
取り調べ室にいる刑事でもできるでしょう?


で、あんなやつ、
利口なわけがないじゃない。
細かく事実関係をつっつくなんていうのは、
知的な作業じゃないんですよ。

取り調べるのではなくて、
ぼんやり思っていることを、
いかに確立するか、っていうか……。
糸井 「豊かに立ちあげる」ということですよね。
保坂 それが、大事なんです。
糸井 共感するなぁ。
オレ、もしかしたら、
この小説の、いい読者になるかな?
保坂 なりますよ。
なるに決まってますよ(笑)。
もうひとつ、
いちばん、最初のきっかけっていうのが、
ぼくの、小学校低学年の時の記憶でして。

うちの庭に、
背の高い洋芝が生えていて、
というと、洋館を想像するかもしれないけど、
ただ、ふつうのボロい家ですけどね。狭い庭で。

そこで、最近見ないんだけど、イトトンボが、
その洋芝に、たくさん集まっていたのね。

ぼくは真夏に
イトトンボを捕るのが好きで、
引きこもりタイプじゃないんですけど、
ヒマだと、けっこうそういうことをやっていた。

その時の記憶を思い出すと、
イトトンボを捕ってるアングルの記憶もあるけど、
空の上から、庭で自分が、イトトンボを
捕っているのを俯瞰している記憶がある……。
それはもう、ウソですよね?
糸井 うん。
保坂 庭に面したうちの中には、
おふくろがいるんですけど、
おふくろはいつも洋裁をしていたんですけど、
ぼくがその庭にいて、
うちの中におふくろが洋裁をやっている姿も、
記憶の中に、あるわけですよね。

それは、庭から見える場所じゃないんですよ。
糸井 そういうのって、あるよね。
保坂 記憶の中では、
襖一枚を隔てたり、壁を隔てた向こうに、
人がいることがわかっていたら、
「見える」ってことに、なるんですよ。

そういう記憶を小説の中で立ちあげて、
その記憶にリアリティを与えるっていうのが、
ぼくがこれを書く、最初の動機だったんです。

糸井 それって、
おもしろいオモチャを見つけた感じだよね。
保坂 今のぼくたちの持っている
合理的思考法というか科学的思考法というか、
実証主義的思考法とは、相反するものなので、

思考法と反するっていうことは、
言葉の使い方とか、
細かく言うと、ぜんぶ反するんです。

科学と記憶のあり方とが。

書きだす1年以上前から
そういうふうに思っていたんですけど、
どう書いていいのか、
しばらくわかんなかったんです。
糸井 記憶については、
この本だけじゃなくて、
保坂さんの本、全体に通じるものですよね。
保坂 一応、そうですね。
最初から、そういう世界を
書きたかった気配は、あるんです。
糸井 今回が、いちばん方法論としては意識したんですか?
保坂 方法論というか、
「どういうものを浮かびあがらせたいか」
「何を立ちあがらせたいか」
というのが、はじめて、
小説を書く前にあった、という感じかな?
糸井 今までは、ないんですか?
保坂 なんにも考えない。
最初の1行からだけ考えるというか。
糸井 ふーん。
(つづきます!)  


第4回「小説の書きはじめ」

糸井 ぼくが18歳や19歳の時に、
野坂(昭如)さんが流行っていたんですよね。
野坂さんの
『エロトピア』とか『エロ事師たち』とか、
そういう本がものすごくおもしろくて、
エロというものを商いとして扱っている人たちが、
いっぱい、出てきていたから。

若い時って、エロにだけは、
自分に自信はあるじゃないですか。
「絶対にオレがいちばんエロだ」
と、若い男は、思っているわけですよ。
保坂 「エロ度において」ね。なるほど。
糸井 つまり、
世間知らずであるがゆえに自信があって、
実は、当時、ともだちと、
「今、エロ本を作ったら売れるんじゃないか」
って話しあったことがあるんですよ。
「とにかく、エロ本を作って稼ごう」
って、誰かが言いだした。
実は、書けないんですけど、
書けるような気がしたんです、その時は。

それは、さっきの、
お母さんがミシンを踏んでいるのが
本当は見えないのに見えている、
みたいな話の逆というか。

何にも知らないくせに、
オモチャを作りあげられることができる、
みたいな、わけのわからない自信のある時代。
あれって、もし、あきらめずに書いていたら、
きっと、おもしろかったのになぁ、って、
今になって、思うんですよ。

つまり、その時の自分に
その能力があるかどうかの整合性より、
あるひとつのイメージの中に、
「あ、書けるんだ」と甘美なものを読み取る。

はじめて画材を手にした人が、
絵を描くこと自体をおもしろがるというか、
そういう感覚を、今の保坂さんの話を聞いてて、
思い出したんです。

つまり、だって、
「書きだす」わけですよ?
「何も決めないで書きだす」って、
そもそも、ヘンじゃないですか。
保坂 そうかな?
編集者としては、どうなんですか。
編集者 (一緒に来ていた編集者の発言)
とりあえず書きはじめる、
すると、書けるっていう方は、
いらっしゃいますね。
糸井 ふーん。
ともかく、頭の中で
何がおこなわれているのかは、
今の話からは、ぜんぜん想像がつかないわけです。
目的地なしに汽車に乗っている、みたいですから。
汽車にはレールがあるけれど、書く場合は、
自分が自由に動いていくわけでしょう?
保坂 たとえば、
長い交響曲を、作ろうとしますよね。
その時には、いくつかのパターンは
あるだろうけど、導入のメロディーが鳴れば
できるって思う作曲家は、
たくさんいるんじゃないかと思うんですよね。
糸井 いいですけどね、そこが、
言語と音楽と、おんなじじゃないような気が……。
保坂 (笑)まぁ、そうですね。
おんなじだと思うんだけどなぁ。
糸井 本人がやってることだから、
本人が言うしかないんですけどね。
保坂 ぼくは、最初の1行と、
一応、登場人物を4〜5人までは考えておく。
家庭環境というか、人物の関係については。
糸井 つまり、父と、母と、居候、みたいな?
保坂 そうです。
そういうことだけを考えておけば、
あとは……。
糸井 動きだす?
保坂 なかなか、動かないんですけどね。
自分で動かすしかないんだけど。
糸井 その気持ちは、わかるんだけどさ。
保坂さんだったら、
もっと、何とか話してくれないかな。
「動くんですよ」でもいいんですけど。
小説が、すべりだしていく時の、様子というか。
保坂 ぼくの登場人物たちの特徴は、
日常生活でつきあうには、
かなり極端な人たちだっていうことなんです。
極端に話がわからない人が多いんだけど、
それは、みんなが、ひとりひとりが
同じではない何かに向かっているんですよね。

現実の人も、少年時代青年時代は、
すくなくとも、とりえがない人でいいとか、
人並みの人間のままでいいとかじゃなくて、
それぞれが、すごく偉大というか崇高というか、
社会的な地位の問題ではなくて、
何か「高いところ」に行きたいと思って、
過ごしてきていると思うんですよ。

そういう志とか気配を持っている人が、
ぼくの小説の登場人物なんですね。



登場人物たちは、
ひとりひとりのやりかたが
ちょっとおかしいから、そういうようには、
なかなか感じられないとは思いますし、
ただのヘンな人たちにしか見えないかもしれない。

だけど、なんか、
確固としたものとまでは言わないけど、
ある世界観に辿りつくような何かは、
登場人物のみんなが、持っているんですよね。
糸井 登場人物たちは、
それを整理してみんなで語ることは苦手?
保坂 苦手っていうか、
それをしてしまうと、
アナクロな偉大な話になっちゃうというか、
悪い意味での偉大な人になっちゃうという。

ぼくの小説の登場人物たちは、
やっぱり、現実にはそうとうヘンな人たちです。

実際、ぼくがふだんからつきあっている人たちも、
ヘンなともだち、ヘンな人間が多いので、
その彼らに対するシンパシーというか
リスペクトというか、そういうものもあります。

小説では、そういう人たちの
本来持っている志とかが、
注意深く好意的に読んでくれる人には、
感じられるかなとか、そういう感じですけどね。
糸井 登場人物の中に、
すでにストーリーの萌芽が、
タネとしてあって、
タネが発芽する前っていうのを描いていると、
だんだん、芽が出て、動きだして、
関係を持って、それぞれの関係の中で
反射していくかたちで、小説を描いていく?
保坂 うん。
彼らの持っている何かが、
推進力になって、小説のなかで
展開していったほうが、いいなと、
そういう、感じなんですけど。
ぼくの小説の場合は、
ストーリーを語るものではないので。
(つづきます!)  


第5回「不合理ゆえにわれ信ず」

保坂 ぼく自身のことで言うと、
96年の12月に、
チャーちゃんっていうネコが、
白血病で、死んじゃったんです。
糸井 それって、大事件ですよね。
保坂 もう大変でしたね。

今回の小説でも、
死んだネコのことを思って、
「死ぬことと、いなくなることとは、別なんだ」
と、語り手が考えているんだけど。

この小説は、
「いなくなることは、
 消えることとは別の次元のことなんだ」
ということを、
いかに構築していくかの話でもあるんですよ。

そのことを書いていく途中で、
発見した言葉があるんですよ。

「神の子が死んだということは、
 ありえないことであるがゆえに事実であり、
 葬られた後に復活したというのは、
 信じられないことであるがゆえに確実である」

ありえないがゆえに事実であり、
信じられないがゆえに確実であるという……。
「めちゃくちゃな論理をいうやつがいるなぁ」
と思いますよね?

この言葉を、ぼくは、
ポーの小説のなかで発見したんですけど、
哲学辞典を見たら、西暦2世紀前後にいた
テルトゥリアヌスという人の、実際の言葉で。

この矛盾した言葉の矛盾というのが、
大きな段差になっているというか、
すごい力を持っているんですよね。
矛盾自体が、推進力になるというか。

この言葉を小説の中でも書いて、
で、そこから、小説の道が、
またひとつ、グッとこう、
山道が険しくなっていくんですけど。
糸井 ふーん。
保坂 ぼくは、リアリティっていう問題を
ずっと考えてきてるんですが、
リアリティっていうのは、
「ただ、科学的に客観的にある」
っていう問題じゃないんです。

「ある」っていってる自分までが
まきこまれるダイナミックなサイクルを
持っている状態が、リアリティなんです。

このリアリティの中に入っていくと、
自分自身の土台があやうくなっていくというか、
土台が、別にものへ変わっていくという。

ステレオタイプな意味でのリアリティの他に、
言葉を持つ人間として、言葉に引きずられるのが、
もうひとつのリアリティの生成なんじゃないか、
ということを考えたんですよ。
糸井 それ、いいねぇ……。
保坂 小説って、書いている本人の中にも、
登場人物をかたちづくる
タネしかないのと同じように、
言葉を書いていくことで、
言葉によって、引きずられるわけですよ。

自分が書いたものなんだけど、
それを自分の目で読むことで、
それがまた新しい力になって、
その力に、引っぱられていくわけですよね。

だから、小説を書くことで、
「ネコや人が、物理的にいなくなることは、
 もういちど戻ってくるということなんだ」
というリアリティを、作りだせるんじゃないか?
そういう風に、思ったんです。

「最も実感とは遠い、
 論理で突き通したテルトゥリアヌスの言葉の力」
と、もう一方で、
「言葉を知らない、幼児期の自分自身の言葉」
という、言葉には、両極があるんだけど、
日常で使っている言葉は、
その両極がない、穏当な言葉なんですよね。

子どもにとって、まだ、
人間の「言葉」と「音」は、
ちゃんと区別できていない。
ぼくは、子どもの時、よく空耳がありまして、
母親が「気のせいだよ」って言っていたのを、
「木のせい」だと思っていたんです。
「せい」は、妖精の精じゃなくて、
「おまえのせいだ」の「せい」ですけど(笑)。

そういう、まだ完成していない、
いちばん、言葉と距離のある状態の言葉と、
それと、さっきのテルトゥリアヌスのような、
言葉として無茶に完成された言葉。

その両端を結びつけるのが、
この小説の最終的な課題だなと思って、
それに気がついて、最後の最後の章を書いていった。
もうホントに山道が
ぐんぐんぐんぐん険しくなっていく感じだった。
糸井 今の話、すごくおもしろい。
保坂 でしょう!

最終章は、
「そのふたつの言葉をくっつけることなんだ」
と、自分で気がついて、
それで、たぶんくっついたと思うんだけど、
自分でも、やっていて、
「なんてすげえことを考えてるんだ!」と思った。
糸井 今、聞いてて、迫力があったもん。
保坂 すごいですよ、最後の章。
糸井 保坂さん、うれしそうだね。
保坂 うん。

(つづきます!)  


第6回「小説の筆が止まるとき」

糸井 今回の小説を、保坂さんが
どういう風に書いていったのかを、
ちょっと、教えてもらえますか?
保坂 何かが出てくるっていう予感が、
去年の12月10日ごろからはじまっていて、
それはもう、タイヘンだったんです。
苦痛っていうんじゃないけど、とにかく、
進まないというか、進めようとしている足が、
もう、重すぎて出てこないというか。
糸井 筆が止まる時っていうのは、
それは、保坂さん、書く人だから、
人が書いてる時の気持ちも、
わかるだろうなぁと思います。
「あ、この人、ここで筆が止まったな」とか。

筆が止まる時って、基本的には、
「もっとすごくなる前触れ」か
「止まる前のほうから削ったほうがいい」かの、
どっちか、ですよね。
保坂 うん。
糸井 保坂さんは、その時、どっちでしたか?
保坂 止まっていないんです。
ずーっと、もう、ほんとうに……。
重い字を、ずっと休まず書いていた。

12月の末ぐらいっていうのは、
両極端とか、本来一緒じゃないものを
くっつけていくということだけを
ずっと考えていた時期だったんです。

小説を書いている時間って、
4時間ぐらいしかないんだけど、
それ以外でも、その雰囲気を忘れてると
ワヤになっちゃいそうなので、
大晦日、三が日と、
今年だけは、仕事を続けてたもん。
糸井 要するに、「離れたくなくて」ね?
保坂 離れちゃうと、おしまいになっちゃうから。

2日離れたら、きっと、建て直しに、
1週間か10日ぐらいかかりそうという気がしたから。
ほんとに、小説って、小説の中にしかないから、
書いている間は、ひとつの音楽が鳴りつづけている。
それが、休んだら、消えていっちゃうというか。

だから、最後の章を
12月のはじめくらいから書きはじめて、
2月の頭ぐらいに峠を抜けていったんだけど。
ホッとしたもんね。
糸井 保坂さんって、小説は
手書きですか? パソコン?
保坂 ぼくは、ぜんぶ手書き。

糸井 ふーん。
いま聞いていると、
手の先から聞こえてくるものが、
冒険物語のように聞こえるよね。
めちゃくちゃ、おもしろいです。
保坂 最後を書いている時は、たとえば、
「わたしは木を見ている」
という字を書いていながらも、
もっと抽象的な何かをずっと思っているわけ。
だから、作業が二重三重になっている感じで、
字が重くて、その重い字を
ずっと、書いていたんですよ。
糸井 長い時間、継続してできるんだ?
保坂 一日、3〜4時間。
糸井 3〜4時間はできるんだ。
ものすごいね、それは。
保坂 ま、最初の30分か1時間は、そうでもないけどね。
糸井 でも、それって、
一生に何分もないことですよね。
保坂 そう。
糸井 それが、正月を挟む寒い時期に、
3〜4時間ずつ、毎日あったっていうと、
「人類の金字塔」みたいに、聞こえますよね。
保坂 (笑)で、その年末に
タイヘンなところを書いている時、
あろうことか、大晦日の夜9時から、
うちのネコが、ゲロゲロゲロゲロ吐きだして。
夜中じゅう、1時間に1回、吐くわけ。
だから、元日の朝に病院に電話をして、
ぼくは免許ないから自転車で連れてってさ。

家から自転車で
5分ぐらいのところの動物病院なんだけど、
獣医さんがいい人で、
いつも急患対応で、大晦日も元日も、
ずっとやってくれるところなんです。

そこに連れていって、
年が開けて2日までは、ほんとに
1時間に1回ずつ吐いていたから、
そのたびに、吐いてるものを
片付けたりしているんですよね。

そうやって、書いていた。
(つづきます!)  


第7回「1日の中で使える時間」

糸井 ネコのことだけは、
小説と関係なくても、大丈夫?

ネコの存在が刺激を与える、
ということも、当然、あるんでしょうね。
保坂 わからない。
糸井 そこは、自分でもわかんないんですか。
書いてる時は、人間は勘弁してくれ、なんでしょ?
保坂 それは、そうですね。

だんだん、書いてると、
睡眠時間が増えてきちゃってね。
ふだんも6時間以上寝てるんですけど、
しまいには9時間寝てましたから。
糸井 脳を、そうとう使ってるっていうことだよね。
……瑣末なことだけど、
その時期、食事とかはどうしてた?
保坂 そういうのは、ぜんぶふつうですよ。
晩メシ、作っていたし。
お酒は飲まなかったけど。

忘年会シーズンだったけど、
さいわいなことに、
最近、あまり、友達もいなくて。
親しい友達も、忘年会を
セッティングするのがめんどくさいとか。
だから、年末年始は、酒、飲まなかった。

ただ、その、気もそぞろな時期に、
『言葉の外へ』っていうエッセイ集の
ゲラが、出てきちゃったの。
糸井 イヤだねぇ。
あのややこしい本を直すのとか、
その小説のその期間には、イヤだなぁ。
保坂 うっかりその時期って言っちゃったかで、
ぼくも、あれは……。
糸井 人ごとながら、すっごくヤだったもん、今。

保坂 あの時期じゃなかったら、
『言葉の外へ』は、もっと
ちゃんとした本になったと思うんです。
糸井 いちおう、見たんだ?
保坂 しょうがないので、見ましたけどね。
細かいところは、直さなかったんですけど、
前に書いたエッセイのどれを載せようかという
取捨選択だから、これがめんどくさかった。
まぁ、2〜3日、しょうがないかなっていって、
やってましたけど。
糸井 その期間は、予定を空けて?
保坂 空けはしなかったですね。
糸井 小説は書いていながら?
保坂 ええ。

いちばん幸いだったのは、
冬だったから、野球がなかったことです。
糸井 使える時間って、
実は、そんなにたくさんないからねぇ。
保坂 ないですね。
糸井 一生って、そう考えると短いね。
ほんとに「使ってる!」っていう
実感のある時間って、あまりないよね。

すごいなぁ、今回の小説を書く時の話は。
保坂 歯茎から血がでるしなぁ。
糸井 (笑)そんなこたぁ、どうでもいい。
歯の悪くない人は、出ないですから……。
たまに、そうとう
身勝手なたとえをする人だからなぁ。

保坂さん、ときどきそういう、
自分しか認めないことを言うね。
保坂 (笑)
糸井 小説を書くことって、なんか、
おもしろそうなことには、見えてなかったんです。
保坂さんって、小説書きの中でも別だから、
小説を書くということについて、
何を話すのかを、知りたいなぁとは
思っていまして……。

いろんな小説家を見ていると、
「ほんとうに書きたいのかな?」
っていう気持ちが生まれたり、
「もしも、いっぱい売りたいのが
 目的だったら、売る方法は他にある気がする」
とか、ぼくはいろいろ距離を持っていたんです。

だけど、今の話は、
まるで、ルールは知らないけど
サッカー選手がキレイな試合をしたのを見たような、
ものすごく、よかったなぁ。シビれました。
職人話なんかにも、近いね。
  (つづきます!)


第8回
「小説の作者は「神様」か?」

糸井 保坂さんが小説を書く時の話を聞いてると、
人物を組み立てる時の立場って、
かなり「神様」というかたちに見えるよね。
保坂 でも、「神様」って、
最初から結果を知ってるわけでしょう?
ぼくはやっぱり、書きながら、
タネとか萌芽としてのキャラクターを
作っていくわけだから、神とはだいぶ違う。


糸井 ぼくは、1年に1回ぐらい、
アリをじーっと見ている時間があって。
これは、わかりやすいし、
早く終われたりするものなので、
愛情がなくても見られたりするんですけど、
小説を読んでるよりも、たのしいんですよ。
「あ、こうしてこうなった」
「うわぁ、よくやるなぁ……」
「おまえら、そう来たか!」
保坂さんの書く目線って、
それに、とってもよく似ている。
保坂 『カンバセイション・ピース』の中に、
虫の話をするキャラクターが出てくるんです。

アリって、ほんとに不思議なのは、
虫の死骸とか甘いものがあると、
ゾロゾロゾロゾロ、出てくるでしょう?
ものすごく集団でひとつのことをやる。

この小説の中の隠れたモチーフって、
それだと思うんですよ。

この小説の語り手っていうのは、
横浜ベイスターズファンで、
しょっちゅう、横浜球場に行ってるわけ。

で、横浜球場のライトスタンドで、
野球を見ているんです。外野で騒ぐタイプの人間。
そこで、みんなで一緒にメガホン叩いて、
というのをずっとやっている人なんです。

ひとりひとりの意志を超えて、
球場全体が動いていくっていうか。

野球場の中でも、
ピッチャーもバッターも、
スタンドもボールもバットも、
ひとつひとつが、別々なんだけど
全体として何かになるという……。

その感じが、ずーっと、
好きで好きでしょうがない人が、
この小説の語り手なんですね。
糸井 それは、保坂さん自身だね。
保坂 まあ、そうですね。
糸井 その感じ、
割とわかるというか、好きですね。
いまの野球場の説明は、ものすごくよくわかる。
保坂 野球場いったことのない人には、
ほんとにわからないと思うけど。
糸井 うん。
テレビでは、誰かの意志で
トリミングした野球場を見させられるから、
全体で構成されていることが、
伝わってこないんですよね。
保坂 うん、うん。
糸井 野球を無視してるヤツも含めて、
野球場なんですよねぇ……。

その比喩は、ぼく、人によく伝えるんだけど、
もののたとえが、みんな野球場になっちゃうのも、
それが原因なんです。

野球場にいると、
野球を、いっさい見ないで、
ただ、隣の女を口説いてるヤツもいる。
あれだけの何万の数の中に、
必ずそういうヤツらが混じっているというのが、
「場」なんですよ、と。

投げたヤツの思いだとか、
直線のドラマだけじゃないところが大きい。


起点はあるし、そこから作用して
ストーリーに近いものはできるんだけど、
それよりも、野球って「場」なんだよね。
保坂 うん。
野球の応援って、けっこう、
ファシズムじゃないかと思う人がいるでしょ。
でも、それは違うんだっていうことも
この小説に書こうとして、実際書いたけど、
邪魔くさいから、ぜんぶ削っちゃったんですね。
それ書くと、説明しすぎちゃうから。

野球場にいる人はファシストにならないけど、
野球場に行かずに、「あいつらファシズムだ」って
言っている人の方こそ、
ファシストになる可能性があるんです。
糸井 うん。
保坂 「評論してるやつがなるんだ」っていう。
サッカーでも、そうだと思うけど、
サッカー場とかでワイワイやってるヤツらはならない。
そんな、つまんないことはしないから……。

ファシズムとスポーツっていうのは、
同じ根っこから出た別のもので。

同じ根っこから別に進化したものだから、
もう、同じものには、ならないんですよ。

進化をたどると、馬になったものと
犬になったものとの共通の祖先は、
きっと、なんか、ある。
だけど、馬は絶対に犬にならない。
おたがいは、進化しあわないんです。
だから、ファシストと野球場は、一緒にならない。
糸井 (笑)その説明は、しないほうがいいかもしれない。
でも、野球場にいる気分っていうのは、
伝わったらうれしい気分だね。
保坂 読売新聞の記者の方が
この『カンバセイション・ピース』を読んで、
「野球場に行きたくなって見てきた」って。
 
(つづきます!)


第9回
「小説の中でしか味わえないこと」

糸井 保坂さんの小説って、何なんだろう?

ストーリーには行かないんだけど、
ストーリーがあった時よりも
見えるものがあるっていうか、
見るよりも、「味わう」ってことに近いかな?
保坂 そうですね。
糸井 「見る」って、何か、
再現性があるような気がして、
言語が介入できすぎますよね。

食べると味わうの間に、
「音楽」が、あるのかなぁ。
音楽も、ある程度、再現性があるから。
スコアもできちゃうし。
保坂 こないだも、高橋源一郎さんと話をして、
「小説の中に出てくる言葉」と
「小説を説明する言葉」っていうのは、
まったく、違うものなんだっていうことで、
意見が一致したんです。

音楽は、音で鳴っているものを
言葉で説明しようとしても伝わらないって
みんな、わかっていますよね。

「小説」と「小説を説明する言葉」って、
一見、同じ言葉に見えてしまうから、
説明したら小説が伝わると思われがちだけど、
まったく、別の言葉なんですよね。

小説の中にある言葉って、
小説の中でしか、味わうことができないし、
感じることができないんです。
糸井 小説語ってのが、あるわけね。
保坂 そうそう。
だから、こうやってしゃべるのも、
どだい、無理なことなんですけど……。
糸井 ぼくは、その小説語に
いちばん近くいけることは、
クチから出た言葉じゃないかなぁ、
と思っているんですよ。

特に、生でしゃべっている時って、
声質から強さから、ぜんぶ入っているから。
保坂 そうそう。身振り手振りも入っているから。
糸井 しゃべり言葉には、
「伝わらないかもしれない」
っていう、謙遜があるんです。

実際の会話では、
「こっちから行ったらどうかな?」とか、
「あっちから話したらどうなるだろう?」とか、
ありとあらゆることを、無原則に試しますよね。
それが、ふつうの書き言葉とは違う。
小説語にも、原則はありますか?
保坂 小説を続けながら
作りあげていくのが、
小説の言葉の原則だから、
無原則のようなものなんですよね。

その原則は、
小説を説明する人の原則とは
まったく、意味が違いますから。
糸井 そんなようなことを、ぼくは今、
保坂さんからしゃべり言葉で聞いて、
おもしろそうだと思っているわけだけど、
書いた小説と他者との出会いっていうのは、
保坂さんは、想像しているんですか?

会ったこともない、読んでくれる人が、
この場と、どう遭遇するかということは、
小説を書く時に、折りこまれているんですか?
保坂 『プレーンソング』を
書いた後にわかったんですけど、
あの小説を、みんながどうやって
おもしろがっていいか、わかんないころ、
実家の隣のおばちゃんが、
おもしろかったって言うんですよ。
おふくろの実家のおばちゃんも、やっぱり、
おもしろい小説を書いたねって言う。
それを聞いた時に、
「この人たち、ほかに本読んだことあるのかな?」
(笑)って思ったんです。けど、
こざかしい先入観なしに読めば
おもしろいってことなんですよね。

そのくらいだから、最初から
わからないボキャブラリーは使っていません。
今回は、一見、
かなりむずかしいことも書いたんだけど、
言葉としては、心を平らかにして読めば、
わからないことは、ないですよ。

野球場の言葉、
あれだけは、わからないでいいと思う。
ある程度、ノリとかテンポ感とかが必要だから、
2-2(ツーツー)とか、いちいち説明できない。

そこはもう、
却ってテクニカルタームを増やして、
とにかくすべてが、そのノリの中で
しゃべられている言葉なんだっていうふうに
わかってくれればいい、と。
野球場のシーンは、そういう感じなんですけど。
糸井 小説語を使って書いてはいるんだけど、
読者と保坂さんの関係というのは、
同じ場を形成する、生の人間どうしみたいな?
保坂 うん。
やっぱり、小説って、
読まれないと小説にならないっていうか。
「なんで小説は読まれるか?」
って言う疑問は、
けっこうあるんですよ、現代には。

その原因は、カフカなんですよね。

カフカが、
自分の原稿を焼いてくれって言ったから、
ほんとうの作家っていうのは、
書いたらもうそれで完結するんじゃないか?

と思われているところがある。

読まれるっていうのは、
副次的な行為に思われていて。

だけど、そうじゃなくて、
書いている人も、
書きつづけている行を
読みながら書いているんだから、
書くっていうのは読むことなんです。

 
(つづきます!)


第10回
「時間が、小説の売りもの」

保坂 何ていうか、
本って、開かないと何にもないわけでしょ?
本を開いて、一字ずつ追っていく中にしか、
小説というものは、ないわけでして……。

誰かがどこかで読んでいる時だけ、
その小説は、存在しているのであって。


レコードが、置いてあるだけでは
意味がないのと一緒で、
ドストエフスキーの『罪と罰』にしても、
今、この時間に世界中で誰かが読んでいるから、
まあ、三千冊ぐらい存在しているわけですよね。

小説って、そういうものだと思うんです。
だから、どう読まれるかは、かなり気をつけてる。

ただ、「こう読んでね」って、
すり寄る小説があるじゃない?
それは、しない。
それとは、ぜんぜん、別なんですけどね。
糸井 「こう読んでね」
って言うことは、言葉で話している相手に、
「こう聞いてね」
って言うようなもんですから。

……今、保坂さんに聞いた話って、
小説を実際に読む前に知ってたほうが、
圧倒的におもしろいね。

連れていかれる場所がわからないままに、
保坂さんの小説って、
読まれていたような気がするんですよ。

欠点なのか、特長なのかわからないけど、
「この人は、どこに連れていくんだろう?」
っていう不安が、保坂和志の小説を、
どうしたらいいかわからないと、みんなに
思わせているような気がするんですね。

保坂 そう思われている部分、多いと思います。

まず、いけないのが、
本の解説でも、評論家の評論でも、
読み終わった前提で書くでしょう?

全体の筋は言わないにしても、
ある程度、読み終わったという前提で、
解説に、小説の「構成」を書くんですよ。
だから、書評を読んだ後に
本を手にとる人も、どうしても、
小説の構成を、察知したくなるわけ。

ところが、書いてる本人は
構成が何もないわけだからさ。

あるイメージを立ちあげるための何か、
それはきっと、どこかの山に向かって、
ぼくは、ひたすら、のぼっているんです。
わかんないんだけど、とにかく。

気がついたら、自分でも
山をのぼりだしているし、
どこまで行ったら頂上に辿り着くのか、
その山がどういうものなのか、
ぜんぜんわからずに、ひたすらのぼっている。
ぼくが小説を書くって、そういう感じなんです。

だから、小説っていうのは、
構成でもストーリーでもなくて、
「読んでいる時間のなかにしかない」って、
わかってもらわないと、
ぼくの小説を読む読み方が、
みんなにとって、不安になっちゃうわけで。
糸井 そうだ、たしかに。
保坂 小説っていうのは、
「読みおわった人がまだ読んでない人に、
 持ち運んで再現できるようなもの」
だと思っていると、
ぼくの小説を読んでいる最中に
不安になるんだけど、小説なんて、
読みおわったら、残っていないんです。
かすかなものしか、残っていないわけで。
糸井 「小説の記憶」だけが、あるわけね……。
保坂 そうそう。
「読んだ!」っていう満足感とか。
でもほんとうは、読み終わっちゃったら、
何もないわけですよね。
「その中にいるときしかない」ものだから。
糸井 そのことは、言ってもらえば、
わからないことじゃないよね。
保坂 わからなくはないでしょう?

だから小説書いてる時の保坂和志と、
書いていない時の保坂和志は違うから、
書いている期間は、小説を書いてる人ですけど、
完成したら、小説を書いている保坂とは別人……。

最近ではもう、ほんとに割り切って、
自分でもはっきりわかったので、書きおわると、
小説家保坂のマネージャーになるんですよ。
糸井 なるほどね。
「わかってやってくださいよ」って。
保坂 そういう感じなんです。
 
(つづきます!)


第11回「小説を書く人間」

糸井 保坂さんがいま話してくれたことって、
高橋源ちゃん(高橋源一郎さん)なんか、
とてもよくわかっている人だと思うんです。
保坂 こないだも話をして、
今度も、高橋さんとは、ぼくの小説のための
対談をしてもらうことになっているんですけど、
高橋さんは、すごくよく、わかりますよね。
糸井 うん。
保坂さんと源ちゃんの小説の話は、
根から音楽好きの人の音楽の話に近いね。

人は、小説の中に、
違うオマケの部分を、もっと求めている。
それで、不自由になることなんですよね。

源ちゃんと保坂さんに共通する何かは、
ぼくは、感じるんですよね。
雑に言うと、権力的じゃないというか……。
保坂 小島信夫先生も、
その中のひとりなんだと思います。
すばらしいのに、文壇的には、
ぜんぜん、えらくないもの。
糸井 うん。
そう聞くとそうだね。

前にぼく、ふざけたタイトルで、
「ペンは剣よりも強し、だから武器よさらば」
って言ったんだけど。
保坂 (笑)
糸井 でも、ほんとはそうですよね。
武器をチャカチャカやるのは、よくないよ。

言葉って、たしかに、
「ペンは剣よりも強し」
というのもほんとで、
どうしても、暴力というか、
パワーを持ってしまいますよね。

今、名前が挙がった人たちは、
パワーを持ってしまうことに
とても敏感で、でも、ノーパワーじゃ、
小説の世界にいる時に、遊べないですよね。

場所を立ちあげる力が、出ないから。
保坂 やっぱり、
小説を書く人っていうのは、独特な人間で。

こないだ、遠い先輩にあたる人が、
出版にまつわる、収入の話を聞きつけてきて、
ぼくに手紙を、書いてくれたんです。

「保坂くんも、収入が少ない、
 経営的に、とてもたいへんなことを
 やっているんだな。これからも応援します」

収入がほしくてやってるんじゃないんです。
やりつづけるための収入は欲しいんだけどね。

次の小説を、ゆっくり書ける程度のお金は、
前の小説によって稼ぎだしたいと思っているわけ。

でも、手紙をくれた方は、
すべての人が、お金を儲けるために
動いていると、思っているんです、きっと。

糸井 保坂さんの小説家としての収入を
心配する実業家の人には、
金銭以外の目的は、わかってもらえないかもね。

要するに、資本主義の社会だから、
みんな、無尽蔵に登れる山を想像しながら
欲望については、語っているわけでして……。

無限の高さの山って、
ほんとは、ないんだよね。
無限に近いように見えたビル・ゲイツが、
三度三度のメシを四度にしているかというと、
そうではないので。
保坂 うん。
糸井 保坂さんが小説家になって、
小説語の言語体系の住人になるように、
「実業語」があって「実業体系」がある。

その中の遊びが、ものすごくおもしろくて、
で、抜けられなくなって日常に影響を与えると、
実業以外の評価が、できなくなるんですよ。

ただ、以外と、
ガリガリの金の亡者に見える人も、
小説書きの趣味と、ほんとうは
共通するものがあるんじゃないかというか。
そう思える人には、ときどき、会いますね。

そういう経営者に、
「さぞかし、おもしろいでしょうねぇ」
って訊くと、
「……おもしろい!」って言うもんね。
その愉快さを伝える言語を持っていない、
っていうかなしさは、ありますけれど。
保坂 実業をやると、ついつい、
お金ではかれるような気持ちになるから、
そこで話が流通しちゃうんだけどさ。
糸井 たとえば、政治家が文句言われたりする時の、
「ぜんぶ、お金の為にやってるんだ」
っていう悪口が、あるじゃないですか。
いわゆる、ジャーナリスティックな批評とか。

「こういう利権が動いていた」
とか、アレって、つまんなすぎますよね。
悪役として登場させるにしても、
もっと複雑でおもしろいはずだから。

その文句で言い足りなくなると、
今度は、陰謀史観とかを出してきたりしてさ。

でも、それじゃ、
想像力の範囲が、オモチャっぽすぎるよ。
たとえば、実際に生きていた時の
田中角栄の考え方なんて、
もしも、その頭に乗りうつれたら、
うっとりするぐらいおもしろいと思うんです。
文学には、なってなかっただろうけど。
 
(つづきます!)


第12回 「小説を書くのは、
 なぜイヤか?」

糸井 ……こうして保坂さんの話を聞くと、
「エライ仕事だ」って感じは、確かだよね。
たいへんな仕事だという言い方よりも、
「よくもまぁ、そういう所に、
 ふきだまっちゃったなぁ」というか。
保坂 小説を書くことですか。
糸井 うん。
誇りのない商売だとは思わないけど、
少なくとも、来させられちゃったもの、というか。
保坂 ぼくが西武に勤めていた時、
糸井さんも小説書いていましたよね。
糸井 うん。
おれは、その話をしたいね。
書くの、どんなにイヤだったか……。(笑)

保坂 80年代から、
いろいろな人が
小説を書いていましたよね。

ぼくは書くつもりなのにぜんぜん書けなくて、
どういう風に書くか、
自分の小説とのスタンスを、
わからないまま、考えていたんだけど……。
「わかった」というか、
その時から感じていたのは、
他のことをできる人は、小説書けないんです。
糸井 追いつめられないとね、その場所に。
でも、他のこととして
小説を描いている人も、いっぱいいますよね。
保坂 うん。(笑)
糸井 それはそれでまたビューティフルな、
梶原一騎みたいな人はいいよ。
梶原一騎は、
他のこととして書いていたと思うんですよ。
あと、ハリウッドの映画作りも、
他のことをやっていますよね。

でも、愉快なことなら
それでオッケーじゃないですか。
実業と同じですから。

保坂さん、他のことをできる人は
書けないっていうのは、最初からわかってた?
保坂 途中で気がついた。
糸井 (笑)
保坂 西武に勤めていた途中で気がついた。
だから小説を書く前には、わかってました。
糸井 そこで、出発しちゃったんだね。
さっき、保坂さんによる、
「小説というものは無数の迷信に彩られている」
っていうことの明晰な解説があったけど、
ぼくは、自分が書いたことが一回あるから、
「その無数の迷信が、ぜんぶイヤだったんだよ!」
っていう思い出として、残っているわけで。
保坂 (笑)
糸井 ムカムカするくらい、やなの。
保坂 (笑)
糸井 書いている途中で、山下洋輔さんと話をしたら、
「人間には小説は向いてない」
って、山下さんが言ったの。

オレは、そのひとことを、待ってた!

その「向いてない」の正体は、
さっき言ったように、
小説を小説として構築するための整合性とか、
最終的に何かが
見えてくるようにしなきゃならないしかけとか……。

小説書くって、
ひとりのワガママな仕事のはずなのに、
裏方仕事が多すぎる。
保坂 ハハハハ。(笑)
糸井 小説書くことって、たとえば、
「オレが、こういう話をするから、書いて」
とか、ディティールのところで、
ぜひ自分が書きたいところは書くとか、
そういうことができたら、
もっと愉快かもしれないんだけど、
それは小説書きじゃないんだよなぁ。

だから、書くの、イヤだったよ……。
保坂 ぼくも、
「こういうことを書こう」
「横浜球場に行って、こういうヤツがいて
 こういうことが起きて……」って思うと、
「それ、ぜんぶオレが書くのかよ?」
とは、感じますね。
 
(つづきます!)


第13回
「小説を書く苦しさが好き」

糸井 「小説を書くイヤさ」を
保坂さんが、すべて引き受けて書くってことは、
やっぱり、演奏してること自体に
よろこびがあるというか、はじめてみたら、
けっこう愉快だった、ってことですよね?

……小説を書く苦しさは、ずっと続くんですか?
保坂 もともと、ぼくにとって、
本を読むってことが、
たのしい趣味ではなかったということに似ていて、
苦しいことが、好きなんです。たいへんなことが。

小説って、風景とか細かいところを、
「ちょっと、ここは空欄にしておいて、
 先にこっちを書いてから、戻ってココを書こう」
っていうと、もう、小説じゃないのね。

小説っていうのは
風景を書いていることによって、
また次にどうなるかってなるのが、
ただしい小説というか、
ぼくにとっての小説ですから。

風景を書くのって、やっぱりタイヘンなんです。
自分のうちの窓から毎日見ていた
過去の風景の記憶って、再現できないですよね。
絵描きとかごく一部の人は
かなりの再現力を持っているらしいけど、
ふつうは、無理ですよね。

だから、どういう風に手をつけていいのか、
わかんないのね。
それを、でも、ひとつひとつ書いていくのが、
えらいタイヘンだし、手間なんだけど、
時間をかけると、かろうじて、
少し出てくるっていうのが、いいんですよね。
糸井 たのしいとさえ言える。
保坂 「うれしい」は、ありますね。
糸井 そこで出る「うれしい」って、
すごくいい言葉だね。
保坂 ディズニーランドが生まれたのは、
20年前ですよね。
ぼくは当時27歳だけど、
ディズニーランドに行ってみて、
そのころは、激しい乗り物がなかったでしょう?

ぼくは、スクリューコースターとか
ループコースターとか、
ああいうこわいのが好きなんです。
だから、当時ディズニーに行って、
「たのしいだけって、ぜんぜんおもしろくない」
って思いました。

すごいこわさとか苦痛っていうのは、
ぼくは、好きなんです。


通り一遍の、気持ちの振幅の少ない、
ただ、たのしいだけ、っていうのは、
退屈でしかたない。
糸井 ほんとはみんな、そうなんでしょうね。
と思いたいですけどね……。

でも、女の子とかって、
ぜんぜんそんなことを言わないですね。
保坂 そうですか?
糸井 たのしいだけでも、イイ、って声は聞く。
保坂 でも、たのしいだけのひとは、
ともだち止まりかもしれないし。
「いいひとなんだよね」止まりで。
「すっごくいいひと」なんつって。
糸井 ……そのへんのたとえが、すっごく、
保坂さんの説明は、よわい……(笑)
保坂 (笑)
糸井 さっきの、
犬にわかれたってのと馬にわかれたってのと
同じくらい、適してないよ(笑)。
ときどき、単に詩的に、イメージだけで言うでしょ。
保坂 (笑)

 
(つづきます!)


第14回「散文と韻文」

糸井 保坂さんが、
詩に行かないのはどうしてなんですか?
保坂 やっぱり、韻文と散文の違いなんです。
糸井 体質ですか?
保坂 体質なんでしょうね。
小説が、ぼくにとっては、いちばん、
いろいろ入れられる気がするっていうのと、
詩は、かたちの上でのしばりが、
多すぎるような気がするんです。
糸井 谷川俊太郎さんと話すと、
逆に、散文を書くことについて
「とんでもない!」って言うんですよ。
散文を長く書くなんて、信じられないと。

保坂さんの韻文嫌いと、
谷川さんの散文嫌いは、
根っこのところではおんなじだと思うんです。

「したくないことを
 しなきゃいけない時間がイヤ」
と。

ぼくなんかは、谷川さんの気持ちが
とてもよくわかるんだけど、
逆に、村上春樹さんは、昔、
「いや、いっぱい書くのはラクだよ」
って言ってたんですよね。

やっぱり、それは、おたがい、
「それが好きな人」が書けばいいんだって、
ぼくは感じたんです。

保坂さんも、苦しさも含めて、
自分に合った方法を選んでるんだと思う。
保坂 ある意味ではそうですね。
ぼく、もともと、詩に親しみがないですからね。
文学少年じゃないですから。
ましてや、短歌なんて、詠んだこともない。
俳句は、作ったことを覚えてるんです。
自分で詠んだ俳句というのが、中学2年ぐらいの、
「名月の 月の光で 雪景色」
という……。
糸井 もう、ふざけてるね。
保坂 (笑)ぼくは自分では、
「なんてイイ句なんだ!」
って思ったんですけどねぇ。

糸井 (笑)
保坂 月が煌々と夜中に出ていると、
雪景色に見えるんですよ。
糸井 もう、今の説明はすでに小説ですね(笑)。
保坂 (笑)
糸井 韻文のよさを無視してますよね。
保坂 (笑)
糸井 韻文が飛躍しただけですよね。
……体質という言葉でしか言えないね。
保坂 うん。
あと1個はね。大学1年の時に、
「ふるさとをもとめてみらいをさまよう」
糸井 (笑)エッセイだよ。
それ、エッセイ。
ほんとだ……向いてない(笑)。
保坂 作ったのは、その2つだけなんですよ。
糸井 しかも、覚えてるってことは、
自分でも「なかなかいいな」って……?
保坂 うん。(笑)
糸井 (笑)不思議だなぁ、
その、俳句のセンスのなさは……。

サッカー選手と水泳選手みたいなものかな。

ただ、散文書く時も、
ここの文字を、ちょっと変えても
自分が気づく、みたいな文章かいてますよね?
保坂 いや、そうでもないですよ。
そこまでは、デリケートじゃない。
テンポ感が、
「あれ、おかしいな?」
って思うことはありますけどね。
糸井 でも、その同じ人の、
俳句と称するものは……。
アナーキーでふざけたもので。
保坂 (笑)「称する」って。
 
(つづきます!)


第15回
「定型詩に引きずられるこわさ」

糸井 保坂さん、俳句はメチャクチャだけど、
散文書く時だって、思えば、ここの文字を
誰かが、ちょっと変えても自分が気づく、
みたいな文章を、書いているはずですよね?
保坂 いや、そうでもないですよ。
そこまではデリケートじゃない。
テンポ感が、
「あれ、おかしいな?」
って思うことはありますけどね。
糸井 でも、その同じ人の、
俳句と称するものは……。
アナーキーでふざけたもので。
保坂 (笑)「称する」って。
でもね、韻文に対しては、
きちんとそっぽを向いていないと、
すぐに、俳句的なものに
飲みこまれるっていう意識はありまして。

『もうひとつの季節』っていう小説の中で、
「自由律俳句」と称して
メチャメチャなものを作るヤツが
出てくるんですけど、
ちょっとでも油断すると、
もう、すぐに俳句くさくなっちゃうんです。

俳句っぽくなくて、
どれだけ違う、短い言葉を作るかは、
なかなか、苦労しましたね。
糸井 「飲みこまれるんじゃないか」
っていうのは、わかります。
飲みこまれますよね?
やっぱり、よくできてるからねぇ。
保坂 糸井さんもきっと、
コピーと標語じゃないとかいうことで、
きっと、戦いがあったと思うんです。
糸井 いや、ぼくはあまり……
たたかったことが、ないから。

ぼくは、仕事として、
機能を売る商売をしていたから、
自分のせいにできない場所がありすぎて、
そこは、ちょっと、違うんですけどね。

小説は、機能を売らないですから。
しかも、ストーリーで
ワクワクするとかいうことも、
無視しているわけだから、
そこでも、保坂さんとぼくは違いますよね。

小説は、何を売っているんだろう? 時間?
保坂 うーん。
なんかその言い方も、
小説より日常語が優先してますよね。

芸術の力っていうのは、
日常語によって説明させられるものじゃなくて、
日常を、照らすものなんですから。

その芸術や表現や作品があることで、
日常の美意識とか、言葉づかいとか、
思考様式とかが変わるものが、芸術だから。

糸井 いいねぇ、整理されてますね。
保坂 最近、整理したんです(笑)。
現代彫刻を見てたら。
糸井 定型詩に引きずられちゃうというか、
溺れちゃう危険性というのは、わかるなぁ。

定型詩的な世界には、
決まりきってはいるけど、
やっぱり釈然とさせてくれるような
「暫定的な何か」が、あるわけですよね?

ずるーいワナを張って、
定型詩の世界みたいなものを
利用してる人たちの
「人をクイクイ引きずりこむ手管」
みたいなものは、うっとりするもん。

ぼくは、いんちきもふくめて、
「あぁ、まことに豊かなものよ」
って見てるのが好きなんですけど、
保坂さんは、定型詩的なものに
引きずられることは、ないんですか?

たとえば、保坂さんの好きな
横浜ベイスターズの佐伯選手の、
いい時の打点を見るような気持ちって、
ズバリ、浪花節が入ってるじゃないですか。

佐伯って、ある意味ふがいないけど、
時々、意志の力で打ったんじゃないか、
みたいな点を入れる人ですよね。
保坂 佐伯……好きだからね。
あんまり、突き放して考えられない。
糸井 (笑)突き放して考えられないんだ!

ぼくは前から、ベイスターズファンが
佐伯をどう見ているのか、
いつも、気にしながら見てたんですよ。
保坂 いやぁ……
何しろ、小説の中でも書きましたけど、
ベイスターズの応援で、
ファンファーレが鳴るのは、
佐伯のとこだけですからね。
糸井 そんだけ、他人にも気になるひとですよね。
保坂 やっぱり、ベイスターズファンは、
ほんとは佐伯ファンだと思うんですよ。
糸井 わかる。
だから、オレでさえ、気にしてて。

で、4番を打ったこともある鈴木には、
それほど、思い入れがないんでしょ?
保坂 うん。
高く売れるうちにトレードしちゃえばいい。
糸井 それってさぁ……流行歌ですよ!
 
(つづきます!)


第16回
「ベイスターズファンの神」

糸井 やっぱり、
横浜ベイスターズのキーは、佐伯なんだ。

ぼくは、ジャイアンツファンとして
横浜戦を見てる時って、
佐伯がいないことについては、
「あ、いない理由が、
 オレの見てない間に起こったんだな」
と思うんですよ。
保坂 (笑)
糸井 で、ベンチにいるのが
テレビカメラに映っていたりすると、
「アウトになったりする時に、
 出てきてくれるといいのになぁ」
とか、思うんです。

出てくると、
「こういうときに、
 打っちゃうことって、あるんだよなぁ」
って、心配なんです。
いちいち、佐伯のことを考えている。

昔は、そういう選手が、
ベイスターズには、いっぱいいて。
盛田幸妃の登場なんて、たまんなかったですよ。
保坂 あぁ。
糸井 盛田幸妃が8回なんかに投げていると、
ほんとはどういうヤツか知らないけど、
巨人側から見ると、
「完成されたヤなヤツ」だったんですよ。
保坂 (笑)
糸井 その完成度は、彼の日常生活と
ぜんぜん関係なく、完璧だったんです。
で、敵方として、そう見てるってことは、
実は盛田幸妃は好きな選手なんです。
「よわったもんだなぁ」と思いながら
相手側の選手を見ているのは、おもしろい。

今、ベイスターズファンの気持ちが、
4番打者と佐伯との比較で、
よーく、わかったよ。

佐伯の話のついでに、
保坂さん、ローズって選手はどう?
保坂 (乗りだす)
いや、ローズはさぁ……。
糸井 神でしょ?
保坂 うん。
糸井 やっぱり!
保坂 だって、この小説は、
ローズ引退の話なんですよ。
糸井 へぇ、そうなんですか。
保坂 ゲラ、持ってきたんですけど。
ほら、ここ、ここ。
糸井 おぉー。
ポチーンと針で穴を開けたみたいに、
光が入ってきますね。
強いねぇ、この「ローズ」という文字が!



保坂さん、こういうことをやりたいんだよね。
うぅ、たまんねえや、これは。
俺も、野球に関しては、いいところついてるね。
……ローズって、ものすごいですよね。
保坂 ローズはね、あの人、
契約金が3億だ5億だでモメてたでしょ?
横浜ファンが、ひとり1万円ずつ出しゃいいじゃん。
糸井 それくらいの人ですよ。
保坂 それでも、充分、まかなえるじゃん。
糸井 よその球団に行くって、
1回、決まった時は、どう思いましたか?
保坂 大洋球団からつづいてる、
ファン不在の体質だけを責めてましたね。
ローズは関係ない。
糸井 キレイですねぇ。
保坂 ロッテに決まった時は、
ともだちみんなで、
「ロッテ戦いかなきゃな」って言ってた。
糸井 それはもう、
活躍するっていう前提で
見ていましたか?
保坂 それは、わかんなかったけど。
糸井 ぼくは、
ローズの動きを、
ベイスターズファンが、
どう見てるのかなあって、
それをちょっと気にしてましたね。
保坂 あんまり、ひさんな姿は、
してもらいたくないけど。
糸井 ローズってすごいよね。
あれ、野球がはじまる前に、
もう1回、やめたんだもんね。
あそこも、「神」ならでは、だよ。
保坂 ぼく、その前の
ブラッグスもすごく好きで。
糸井 ブラッグスも、おもしろかった。
保坂 ブラッグスなんて、おわりのころ、
特に最後の1年なんて、
打率がずいぶん下がっちゃったでしょう?
あれでも、ずーっといてほしかった。
糸井 存在感は、あったよね。
 
(つづきます!)


第17回
「記憶ちがいの味わい」

糸井 保坂さんは、
ローズの時代のベイスターズが濃いんですか?
自分の記憶のなかで。
加藤博一とかの時代は、どうしてました?
保坂 80年代は、
テレビがないひとり暮らしだったから。
大洋、すごいよわかったし。

ぼくが知ってるのは、
60何年から70年代半ばまでの大洋と、
佐々木が出てきた、
ベイスターズになってからの横浜。
ブラッグスとローズの1年目ぐらいからですね。
糸井 ある意味では、
「お化粧がすんでから」ですね。
もっとあの、素顔すぎましたからね、あの球団は。
「キャッチャー市川」みたいな時は。
保坂 (笑)4番山崎なんて、ぼく、知らないからね。
きっと今が、その時代だと思うんですよ。
糸井 似てるね。
大ちゃん(山下大輔監督)が
明るくふるまっている
ベイスターズっていうのは、
小ささとしてバランスがよくて、
ファンはつらいだろうなぁという気が……。

つまり、ブラッグスがいて
ローズがいたときの監督には、
大ちゃん、似合わないですよね。
しかも、明るくふるまえないですよね、
もっと本気だから……。
保坂 うん。
糸井 ぼくは近所に、
保坂さんもしってる
石井くん(元・糸井重里事務所スタッフ)という
人造・ベイスターズファンがいるんです。

彼は、どこを好きになろうかというのを
考え抜いて、ファンになったんですよ。
ぼくが、昔のファミコンの
ファミスタで、ジャイアンツを取るんで、
どこだかわからないから、
どっかにしようと思って、
勝つために、当時のホエールズを選んだ。

それはなぜかというと、
めちゃくちゃ内野安打が多くて、
足で、掻きまわして勝つんです。
それで勝つために使っているうちに、
だんだん好きになったっていう……。
保坂 (笑)
糸井 ファミスタの、
あの将棋のコマみたいなものから、
逆に現実に生きていって、その挙句に、
開幕戦は、みんなでマイクロバスを仕立てて
ベイスターズを応援しにいくっていう人間に、
なりはてたやつなんです。

こないだは、事務所のスタッフに、
まるで説教するかのように、
「趣味を持つのはええぞ」と……。
保坂 (笑)
糸井 「オレは、どれだけ
 ベイスターズに救われたか、わからない。
 うれしいこと、かなしいこと、
 みんなベイスターズが助けてくれる」

その気持ちは、他のチームのひいきの
俺にも、わかるんですよ。
で、それを教えたのはぼくなんです。

……つまり、どんなに家庭が不和でも、
どなりたいときがあっても、
「くっそー。ジャイアンツのせいだ!」
ってことにして、ぜんぶ感情を出せるんです。
「苦しいことがあっても、
 それよりタイヘンなのは、原さんなんだ!」
「山倉なんだ!」
ということで、あれ、ほんとに、
ローマ市民におけるコロッセアムなんですね。

毎日の粉ひきがどれだけタイヘンでも、
あそこで命をかけてトラと戦っている男がいる。

保坂さんの記憶も、最高ですね。
ブラッグス、ローズのところに
光が当たったまま、記憶がとまってる。
……錦絵ですもん、それは。
保坂 でもやっぱり、優勝がなかったら、
ぜんぜん違う人生になっていたと思いますね。
糸井 (笑)イイなぁ。
保坂 「優勝してはじめて野球選手になる」
と言われるのと同じで、ファンだって、
優勝を経験して、はじめてファンになれるというか。
糸井 そうですね。
保坂 あのよろこびが共有できるというか、
あれを知らなきゃ、
野球を知ってるっていうことにならないという。
糸井 俺、そのことについては、
さっき言った石井くんとの
「小さな友情」があるのよ……。

ベイスターズの優勝のシーンに立ちあって、
とにかく、感極まったらしいんです。
で、そのときに俺を思い出したっていうんですよ。
「糸井さんは、これを、
 何度も味わって生きてきたんだなと思った」

っていう。
保坂 (笑)
糸井 俺、それを聞いて、
涙が出そうにうれしくなった!(笑)
なんか、その、通過儀礼に立ちあった青年が、
親を語るような…年齢とか関係ないんだよね。
あれが、ものすごいぶりの優勝だったでしょ?
保坂 38年。
1960年のことだから、ぼくだって知らないわけで。
糸井 三原マジックのときですよね。
保坂 そうです。
糸井 ベイスターズファンになったのは、
偶然なんですか?
保坂 小学3年生で野球を覚えたんだけど、
その小学3年生っていうのは、
今思えば、巨人のV9の1年目なんです。

ぼくの場合は、野球を覚えた時に、
親父に「どこのファンなの?」って聞いたら、
「まぁ、同じ県だから、大洋だな」
いいかげんな人でね。
糸井 (笑)そんなもんなんだよねえ……。
その当時って、どういう選手がいました?
保坂 近藤和彦、昭仁、長田、桑田……。
糸井 ピッチャーは? 秋山?
保坂 秋山はもう落ち目で、
新人の高橋重行が、20勝20敗だったかな?
2年目かもしれないけど、あとは、
稲川とか、左腕の小野もいたのかなぁ?
糸井 小野って、覚えてないなぁ……。
かわいそうだな、小野。
保坂 東京オリオンズ(現・ロッテ)に
移ったりしたんですけど。
糸井 あぁ、あの小野ですか。覚えてます。
保坂 月間20勝っていう記録を持っている。
糸井 それはウソでしょ!
保坂 神保町の東京堂書店に、経塚さんっていう
大洋からの横浜ファンがいるんですけど。
その人、稲尾の何十勝とか、記録フリークで、
記録をやけに覚えてて……
小野のことも、実際そうだったらしいですよ。

(※のちに、この小野は、
  稲尾と並んで、月間11勝0敗の
  記録を持っている、小野正一と判明)
糸井 それが、
単なる記憶ちがいだったらステキだねぇ。
それをもとにして、
ぜんぶの思いが紡げるんだもんね。
そういうの、大好きなんですよ。
「もとになってる話しがウソなのに、
 ぜんぶが整ってる」っていうやつ。
保坂 (笑)
糸井 ほんとの話に、
ちょっと似てたりするのが、ステキなんだよね。
ほんとのようで、うそのようで。
保坂 人をささえるのって、
調べて、ウソかほんとじゃなくて、
「彼を動かす言葉」だからね。
糸井 それ、いいなぁ……。
保坂 ねぇ、この対談、終わりの
2、3回だけ読んだ人は、
野球談義だって思っちゃうんじゃないですか?
みなさん、途中も読んでください!
糸井 (笑)

 
(おわりです!)


保坂和志さん追加インタビュー
第1回 小説家になる方法は?

ほぼ日 保坂さんが作家になるまでの
会社員生活のことについて、
くわしく、聞かせていただけますか?
保坂 最初は、
高校生の時に小説を読んで、
「おもしろい!」と思ったので
「それなら自分も書く」という(笑)、
そういうものだったんだけど・・・。

ただ、
会社員から作家にどうなったかという話だと、
もともと、小説家に限らず、
なりにくい職業っていうのは、
なりたいと思っている人はなれないと思う。

何年か後に、自分はなっていると
思いこめるような人しか、なれない。

「どうしたら、作家になれますか?」
「どうしたら、●●になれますか?」
そういう謙虚な気持ちは要らないんです、きっと。

「謙虚な気持ち」って、
悪く言うと迎合的とも言えますよね。
ノウハウがあるとか、
マニュアル化されてるとか、
何かになれる確固たる道筋があると考えて、
「自分もその道筋を歩いていけばいいんだ」
と思う人は、
小説家にはきっと絶対なれない。
そうじゃなくて、
何年後かには当然なっていると
思いこんでるというか。
もともと、ものを教わることが
嫌いなタイプの人間も、多いんですよ。
高橋源一郎も自動車免許持ってないし、
島田雅彦も免許持ってないらしいし、
ぼくも免許持ってない。
教習所へ行ってもの習うとか、
そういうことが、
もう、できない人なんですよ・・・。

書きたいと思う人なら、
当然、好きな作家はいるわけですよね。
好きな作家がいて、なんかその人の作品を、
ほんとに遠い星を仰ぐように思いながらも、
それでも、そういう偉大な人と
同じ道を歩けるとは思っていないんです。
同じ道ではなくて、ただ、自分で行くという。
それはもう、
誰かさんが歩いた道でもなんでもなく、
自分が、そのまま今の自分を
成長させていく、
それが作家になることなんだと。


ほんとに作家になるという人は、
そういう時に、
「タネを埋めたんだから、
 桃栗は3年でなる。柿は8年でなる。
 じゃあ自分は何年後になってんのか?」
って、そういう思いこみが、
あったりすると思う。
タネを埋めたら実は自然にできるよ、
ぐらいの楽観的な人だったりするんです。

ぼくが20代の後半に
今の奥さんと知りあった時、
って、奥さんは今も昔も
「今の奥さん」一人なんだけど(笑)、
彼女が最初の頃に思った、ぼくに対する印象は、
「この人は、小説家でもないのに、
 小説をひとつも書いてないくせに、
 なんで小説家みたいなクチをきくんだろう?」

って(笑)。
ほぼ日 自分の中では、当時、
もう既に、小説家に「なっていた」んですか。
保坂 どこかで、なっているんだよね。
いま有名な建築家になってる人たちの
グループがあるんだけど、
彼らが若かったときに
会ったことのある人も
同じことを行ってましたね。
「こいつら、まだ1つも
 設計したことがないくせに、
 どうしてこんな
 いっぱしのクチをきくんだろう」
って思ったって。
そういう人しかなれないんですよ。

ぼくの場合は、高校の卒業をする前から、
自分は何年か後に作家になっている、
と思っていた。

それで、ずっと大学にいて、
4年生になって、単位を取りきっていないから
5年いることは決まっているんだけど、
その時になって、ようやく、
「おかしいな?」
と思いはじめるわけ。
「まだ小説家になっていない」
それが、かなりショックだった。

大学にいる間に、
小説家になっている人生のはずが、
4年いるだの5年いるだの、
卒業だとか就職だとか・・・
そんなことを考えない人生だったはずなのに、
ちょっと、おかしいなぁ、と。

そこではじめて、
「まだ、1つも小説を書いてない!」
ってことに気がついた(笑)。

「書かなきゃ小説家にはなれない」
そんなことにやっと気づいて、
そこからまじめに書くことにして、
2つぐらい、書いた。

ただ、
それを書いたのは1980年なんですけど、
当時は、日本の小説の間口がすごく狭かったんです。
私小説の流れで、人生に対する内面の葛藤だとか、
「悩み」のほうが問題になっててね。
ぼくは、自分の悩みを小説に書くという気持ちは
もともとなかったものだから、
自分が書いた小説をみて、
「これじゃあ、受け入れられない」
と思った。

で、結局、
いちばん就職しやすかった
西武百貨店に入ったんです。

当時の西武の中では、
文化事業部というところが
美術館と、
スタジオ200というスペースと、
コミュニティカレッジというカルチャーセンターの
3つを持っていたんだけど、
「端から見ていて文化事業部がいちばんヒマそう」
と西武に入っているともだちから言われまして。

入社面接の最初から文化事業部一点張りだった。
「西武はもともとデパートなんだよ。
 売り場なんだよ。
 文化事業部以外ならどうするの?」
と言われると「そのときは辞めます」って(笑)。
それから、当時の西武は、給料がとても安かった。
「時間があって、お金がない」というのが、
当時の自分にとっては、大事だったんだよね。
お金があったら、遊んでしまうから。

それで文化事業部に入ったものの、
最初の3年間ぐらいは、
先輩社員がお酒をおごってくれちゃうから、
結局飲みつづけて、週に5日ぐらい飲んで。
仕事終わるのが夜の7時から9時ぐらいでしたが、
計算してみたら、飲んでる時間の方が
勤務時間よりも長かったりする日々だった。
ほぼ日 それだと、小説は書けないでしょうね。
保坂 書いていないどころか、
小説も読まないという日々だったんだけど。
28歳になって、
「ええと、このままでいいのかな?」
と思って。
あのね、28って、だいたいみんなが
突然、将来について
考えちゃう時期なんですよ。

それで、またひとつ、小説を書いた。
入社したのが24歳だから、
たった4年しか経っていないんだけど、
20代ということもあって、もう
10年ぐらいあったような気がしてたんです。
その小説を書いたあとは、しばらく、
また、書かなくなっちゃうんだけど。
ほぼ日 当時の仕事の内容を、教えてもらえますか?
保坂 入社1年目は、
ほんとに何にもしてなくて、
カルチャーセンターの全体を統括する
仕事をさせられていたんです。
2年目から、カルチャーセンターの
講座を自分で企画する方にいきまして。

3年目になったときに
ニューアカ(ニューアカデミズム)の
ブームがはじまって、
中沢新一さんをはじめ、
新しい哲学・思想系に人が入るようになったんで、
ぼくは、それをずっと
企画担当することになったんです。
自分が読んでおもしろいと思った人を呼ぶことが
うまくいったので、やりながら、
好き勝手できるようになった。

・・・でも、ちょっと脇にそれちゃうんだけど、
「好き勝手」っていうのが、
その後何年か経つと、ほんとうに
誰もがみんな「好き勝手」になっちゃって。
それは・・・あんまり・・・。
自分がしたい企画ばかりを立てると言っても、
ぼくの場合、数学の関数のように、
何かを代入して答えを出すというかたちで
企画を立てているから、
講座の中身がちゃんとできる範囲での
好き勝手ということなんだけど。
みんなが、まるまる、ただ
好き勝手に企画をやる風潮になって、
そうなると、だいたい、ダメになるんだけど・・・。

哲学、思想、オカルトに触れながら
企画を立てていることが、ぼくにとっては、
そのまま、小説を考えることだったんです。
これ、大事なことなんだけど、そこから
小説の題材を探しているわけじゃないし、
ヒントを得るために思想を読むわけでもない。

思想だとか神秘主義について考えたことや、
それを理解しようとしたこと、
考えるというメカニズムが、
ぼくにとっては、
小説を書くというメカニズム

まったくおなじことなの。
ぼくにとっての小説家の修業期間って、
「書いたこと」じゃなくて、
「考えつづけていたこと」なんですね。

テクニックなんて、どうにかなるんです。
まったく文章に親しんでいない人とか以外なら、
誰でも、書く時間をたくさん使えば、
それなりのものにはなるんで・・・。
時間さえかければ、それなりの文章になる。
そのための基盤だけを考えてたっていう。
そんなことが、
ぼくが20代の頃にしていたことですね。
 
(つづきます)


保坂和志さん追加インタビュー
第2回 芥川賞よりも大切なこと。

保坂 90年にデビューしてから、
自分の作品を誰が読んでるのか、
しばらく、さっぱりわかんなかったんです。

これは、ほとんどの小説家が
そうなのかもしれないんだけど、
よっぽど評判になる人以外は、
誰が読んでるかわからないでしょう。

誰が読んでるかわからないどころじゃなくて、
ほんとに読まれてるのかどうかすら、
ピンとこなかった・・・。
ようやっと、読まれている実感として
聞こえてきたのは、6年ぐらい経ってから。
ほぼ日 保坂さんは、
90年、34歳の時にデビューですよね。
その時から、6年・・・。
95年に芥川賞を取ったあとですか。
保坂 芥川賞効果っていうものが
あるのかもしれないんだけど
96年に入ってから、
あの人が読んでる、この人が読んでるって、
名前を言えばけっこうみんなが知ってる人が
読んでいて、へぇ、そんなに読んでいたのか、と。

それで、読む人の傾向もわかったんだけど、
その時に思ったのが、
「90年から94年ぐらいまで、あの頃、
 ひとりで書いていた自分に、
 読まれていることを教えてあげたい」

っていうことだった。
「おまえ、そのまんま書いてれば大丈夫だよ」
って(笑)。
それはほんとに強く思ったなぁ。

それまで、誰が読んでいるか、
ほんとに読まれているのかが、
ぜんぜんわからなかったから。
わからないまま書いていた。

とにかく自分が仰ぎ見る小説家の作品や、
尊敬する作家の小島信夫さんが
おもしろいよと言っていたことぐらいしか、
信じるものがなかったから、
そういうことだけを大切にしていた時期で。

小説家になる前に、自分で
考えていたことを裏切るような小説は
書いていないという、そういういくつかを
信じて書いていただけだったから。

外からのフィードバックが
来るというのは、単純にホッとするという、
そういうのがあるんですよ、やっぱり。

でも、なんだかわからないままの
孤独な時間っていうのは、
過ぎてみれば大切だと思うんだけどね。
その時間の中にいる間は、
いいものではない(笑)。
ほぼ日 最近の保坂さんが書く小説や批評の中に、
「もしもお金が無限にあったら、
 いつまでも書きつづけている小説、
 書いている時間そのものになるような小説を
 書いてみたい」
というような話が、よく出てくるのですが、
それについて、いま考えていることを、
お聞かせいただけますか?
保坂 やっぱり小説って、
書きだすと、苦しいところに
潜っているようなところがあるので、
以前は、やっぱり、
「書き終わる時が、なるべく早く来てほしい」
という気持ちが強かったんだけど、
最近は、ずいぶん変わってきていますね。

特に今回の小説を書いている時に
強く思ったんだけど、
小説を書くということは、ほんとに、
ラクだとかたのしいということではないけど、
ぼくには、ものすごく大事なんです。
そういう負荷がかかりつづける状態は、
ぼくにとっては、
小説を書く時にしかないわけで。


負荷がかかる状態が続くと、
それ以前の状態が
ムダとまでは言わないけど、
ものすごく密度がないっていう気がするから。
「ずーっと書いてたほうがいいなぁ」
って思う。
『カンバセイション・ピース』の
最終章だけでも、
2ヶ月弱ぐらいかかっているんですけど、
あの時期は、充実していたなぁ。
負荷がかかりすぎていたぐらいなので、
あれを3年連続ではやりたくないという気持ちは
ありますけどね。

負荷がかかるというか、
人によってはそれが、
潜水泳法で泳いでいる時とかって
思うかもしれないし、
とても急な坂を、自転車で漕いで
あがっている状態だと思うかもしれない。

とにかくそういう感じで、
書いている時は、とにかく一生懸命。
ちょっとでも力を弱めるとうしろに下がって
ダメになっちゃうっていうくらいです。

そこでチカラを入れ続けて、すこしずつ、
すこしずつ進むという、そういう感じです。
あがれないとツライけどね・・・(笑)
でも、あがれていると、うれしいよね。
ほぼ日 さっき、
誰が読んでいるかわからない時期に
ひとりでやっているのも、いいよね、
とおっしゃっているのが印象的でした。

前に、ハイデガー研究家の木田元さんと
保坂さんが対談されていた時、保坂さんは、
芥川賞を取る数年前から、
「このままやっていれば、
 2〜3年で芥川賞は取りますから」
とおっしゃっていたって・・・。
保坂 ああ、あれは、木田さんをはじめ、
世間の人一般の誤解なんです。
芥川賞を取るっていうのは、
ぜんぜん、たいしたことじゃないわけ。
芥川賞って、たとえばプロサッカーで言うと
チームのレギュラーにはなるけど、
日本代表にまでなれていない、
という程度なんですよ。
野球だったら、2割8分の打率とか、
ピッチャーだったら10勝投手だとか、
いや、8勝ぐらいか。レギュラーなら、
当然クリアできるラインなんです。

運が悪ければ、たまたま、
村上春樹とか島田雅彦とか高橋源一郎みたいに、
取れないこともあるっていう、
そういう意味も含めて、
「このまんまやってりゃ取れるでしょう」
って言ってたんですけどね・・・。

芥川賞を取るか取らないかということより、
書いたものが、
一般の人の手に届くかということのほうが、
よっぽど、むずかしかったんです。
自分では、やることをちゃんとやっていても、
届かないかもしれないというか、
その実感のなさに、ずっといたから。

芥川賞を取っても届かない場合もある。
芥川賞は、作家の集まりの内部の賞ですから。
レギュラーになっても、
ファンから注目されない人がいるように、
大事なことは、中で評価されることではなくて、
ふだん小説と接点のない人たちが読んで、
「おもしろい」とわかってくれることなんです。

本屋さんとか出版社の人たちも、
みんなそうなってきているんだけど、
中の評価だけで部数を決めているのは
すごくヘンだと思う。
ミステリーファンにだけ、10万部売れていても
みんな名前を知らないという人たちが、
何人も、出てきていますよね。
その人たちは、出版社からは
とても大切な作家になるんですけど、
外の世界から見ると関係のないことになっている。
そうすると、世間から遊離しちゃうんだよね。

昔だったら、川端、三島とか、
大衆小説系だって、
獅子文六とか、大佛次郎とか。
かつては圧倒的に名の知れた人がいて、
それは読まない人にまで知られていたわけで、
それが、大事なことなんですよね。
今は買った人しか知らないふうになっているから、
どんどん、影響の範囲が小さくなっちゃう。

ぼく自身は、
ふだん小説を読んでいる人ではない、
デザイナーとか音楽の世界の人たちが
読んでくれているということが、
96年ぐらいからわかって、
ああ、そうかと思ったんですけれども。
それは、すごくうれしかったんです。
 
(つづきます)


保坂和志さん追加インタビュー
第3回 死ぬことは消えることじゃない。

ほぼ日 保坂さんは、いま、
河出書房の「文藝賞」という
新人賞の選考委員をされています。
小説家になるかならないかという
境目の人の作品に接する中で、
どういうことを思いますか?
保坂 古い世代の人たちは
ほんとに古い小説を書くけど、
『文藝』に出てくるような応募作品の
若い人たちって、だいたいまず、
小説を読んでいないですよね、一目見て。

それは、いちがいに
否定することでもないんです。
もう一度、まっさらな状態から
自分なりの小説を立ちあげようとか、
マネしないで作りあげようみたいなつもりも
感じられるので。
だから、いつも読んでいる時に、
「この人たちの基盤になってるのは、
 小説ではなくて
 マンガかドラマなんじゃないか」
という、そういうことを感じる。

ただ、若い人たちが
大きな間違いをしてると思うのは、
「語り口のテンポの良さにこだわりすぎ」
っていうところなんです。
実は、テンポがいいと、あの、
書ける範囲がどうしても減るんだよね。
ほぼ日 その話、おもしろいですね。
保坂 テンポのいい作品って、
実は「テンポがいい」という
ひとつのギアしかなくなっちゃうわけです。

テンポがあんまりはっきりしないっていうのは、
ギアの切り替えが自由にできるんですよ。
やっぱり、書く部分によって、
ギアを切り替えなければならないんで、
そこは、ひとつだけでは
うまくいかない時もあるんです。

最近のぼくにとって、
小説の書き方についての話になると、
「風景描写があるかないか」
だけなんです。
自分自身にも課していることなんだけど、
風景がなぜ大事なのかというのは、
言いだすとキリがないくらいでして。

脳って不思議なもので、
目の疲れを休める時も、
風景写真を見るだけで
オッケーだって言われているんですよね。
あれって、紙を見てるだけなのに。
風景の記憶は、ちゃんっと蓄積されていて、
写真を見た時も、
ほんとの風景を見たのと同じ物質が
脳の中で出たりするらしいんですよ。

それと一緒で、
文字で風景を書いていても、
きっとその風景に実際に接した時と
同じような物質が脳に出ると思うんです。
それが、小説の力になるんです。

ほんとの意味での外からの力って、
風景なんじゃないかと考えています。
社会じゃなくて、それを飛び越した
自然の持つ力と言うか・・・。

風景っていうのは、とにかく
三次元の空間だから、それを一次元というか、
ただ時間にそった文字の流れにするというのは、
ものすごい力仕事になるわけです。
その大変さというのが、やっぱりおもしろい。
いかにして負荷をかけていくかで、
小説の次の局面が出るに違いないっていう、
そういうことを、今、ぼくは考えています。

それについては、秋に、
小説の書き方についての本を出すんです。
そこで、そういう細かい、
風景のことだとか人物のことだとかについて、
言葉を尽くすつもりなんで。
ほぼ日 こんど出る
『カンバセイション・ピース』の
原稿を読ませていただいたら、
昔は、自分にできるかもしれない能力を
神様にあてはめていたがゆえに、
そのできない能力についても
思いを馳せることができたんじゃないか、
というようなことが書かれていて、
とてもおもしろかったんです。

「『神がそれを見てくれている』
 と言って済んでいた時代は、
 見ることにただ見る以上の意味というか
 力がこめられていた」


「人間の思い描く世界が
 神のいない世界になったときに、
 人間は神に仮託した自分自身の能力まで
 神と一緒になくしてしまった
 ということではないかと思った。
 何しろ神に仮託した能力は
 人間の中から発想されたもののはずで、
 そうでなければ人間は
 神にリアリティを感じることができない」

証明できるものだけを
集める視点だけに寄りかかると
わけのわからない
不思議な世界についての思いを、
なくしてしまう、
というようなことを、保坂さんは、
たびたびいろいろなところで書かれています。
このあたりのことについて、
今現在は、何を考えていらっしゃいますか?
保坂 いまの日本で
頭がいいと思われている人は、たいてい、
物事を分析できる人のことなんです。
その「分析できる」って何かと言うと、
つまり、要素に分解できるということで。

まずそれが、ウソだと思う。
人間は人間としてまるごといるわけで、
だったら、世界は世界で、自然は自然で、
まるごとそこにいるはず。

だったら、その
「まるごと」を「まるごと」のまま
説明したり理解したりするために
説明を考えたり、記述方法を生みだしたり
そういうことが大切だ思う。
分析的なものって、もうぼくは、
頭がいいことだと感じることができない。

社会的に、
ふだん妥当とされている考え方って、
未解決のまま置きざりにしてることが
いっぱいあると思うんです。
たとえば、死んだら生きものはいなくなると言う。
そう思うんだったらお墓なんか建てなきゃいい。
徹底させるんだったら、
思い出すことも無意味だと思う。

ぼくは、チャーちゃんという
かわいがっているネコが死んで、
ほんとうに悲しい思いをして、あのときに、
「死んだらおしまい」っていう考えに
つかないことに決めてしまった(笑)。


死んでも消えてしまうことではないんだって、
チャーちゃんのために
とにかくもう、頑として言い張りたいわけ。

科学的妥当性なんか、
どうでもよくなるような強さを持った
個人的思い。

もう強引に、自分の主張したい方向に
いくというのが、ぼくの小説なんですね。
「それは科学ではこうわかっているから」
とか、ふつうに正しいと言われている程度の
ことからなんて、何も出てこないと思う。

じつはその「何も出てこないところ」が
科学の真骨頂で、
それはすごく重要なことなんだけど、
科学を信奉している人たちは
その底知れない怖さがわかっていない。

科学の圧倒的な不毛さによる可能については
別の小説に書きたいと思うんだけど、まずは、
「一般的に言われている正しさ」を
打ち破ったりしないかぎり、
小説に限らず、表現全般に
新しいものは出てこない
という立場を
誰よりも強く押し進めることにしたんです。
もう一方にある
科学の圧倒的な不毛さも、すごく大事なんですよ。
科学の側につく人は
夢なんか持ってはいけないということの徹底は
それはそれですごいことなんだけど、
今は長くなるからやめておきます。

ぼくは日常しか書かない作家と
最初の作品から言われてきたでしょ。
だけど、ぼくは最初から、日常はかりそめの姿、
みたいな登場人物を書き続けてきたんです。
ちゃんとした日常生活を送れていないけど、
でも、いろいろなことを考えている。
そういう人物を書いてきたんだと思うんだよね。
 
(つづきます!)


保坂和志さん追加インタビュー
第4回 言えないからこそ言葉が生きる。

ほぼ日 分析が信用できないという話と
つながるのですが、保坂さんは、例えば、
『この人の閾(いき)』というような作品でも、
言語化されないものは、なかったこととされる、
だとすると、言語化できないものは闇なのか、
というような話に、すこし触れられていました。
このへんのこと、今はどう思っていますか?
保坂 「まるごと」をつかみたいと
ぼくが思うのは、
「言葉で説明しきれている」ということは、
完全には、ありえないと思うからなんです。
言葉って、言いたい対象自体には、
絶対にならないわけだから、
言えないところも含めてしか、
言葉の使い方って、ないと思うんだよね。

だから、絶えず、
「あぁ、言えていない」
「まだ言いきれていないなぁ」
という思いを持ちながら
言葉を使わないと、言語の機能としては
正しくない。

言葉の使い方というか、話し方は、
言えていると思っている人と、
言えていないけど伝えたいと思う人とでは、
ずいぶん、変わってしまう。

たとえば、
「言えてないなぁ」
と絶えず考えている人は、絶対に、
「人間には2種類しかいない」
とか、そんな言い方はしないですからね。
ほぼ日 保坂さんが尊敬している作家の
小島信夫さんと、そういうところのスタンスが、
とても似ているなぁ、と思いました。

昔、小島信夫さんに
インタビューをさせていただいた時、
実際に話を聞いて、
そのあと電話でも何回も話した後に、
「ぼくに原稿案は見せなくていい。
 あなたが誤解している部分があるのなら、
 誤解した部分も含めて、出してほしい。
 ただ、ぼくが、誤解した部分も含めて
 出してほしいと言ったことを、書いてほしい」
と言われたんですよ。そんなことを
伝えられたことはなかったから、驚いて。
保坂 小島さんって、
そういう人なんだよなぁ。

なんか、言えちゃったら、
言葉じゃないんだよね。
で、ほとんどの気持ちというのは、
言葉で言える前の状態だと思うんです。
ほんとの人の中にある気持ちっていうのは。


誤解されるかもしれないけど、
ストーリー小説だけを好きな人たちは、
その「おもしろい」というところを
ごまかされているのを気づいてないんですよ。

たとえば、
自分があるところで
2つに分かれるという話が、
世の中には、昔からたくさんありますよね。

その話の中で唯一おもしろいところは、
「自分が他にいるかも知れない」
って感じた瞬間なんですよ。
他にもうひとり自分がいて、自分がどこかで
ほんとに2人に別れていて、そこで、
その自分と出会ってしまったらどうしよう?

ハッと思ったその瞬間だけがおもしろい。
ストーリー小説の場合には、
そこからいろいろな事件を作りだすでしょう?
その事件自体は、他のおもしろさに
ならざるをえないから、そういうところで、
だまされていると思うんですよね。
ストーリー重視の小説って、
「自分がもうひとりいたらどうしよう?」
「そのもうひとりの自分に会ったらどうなる?」
そう思った瞬間の、いちばん大事な発想を
忘れさせるように物語が進んでしまうんです。

そういうおもしろさって、
同時に不安でもあるんですよね。
だけど、世の中に流通しやすいストーリーは、
そういう、日常の合間に感じた不安を
忘れさせてるように機能してしまう。

ほんとは、
その不安に立ちどまって、
モロにその不安のある場所でおもしろい話を
書いてもらいたいなぁと、
読んでいると思うんですけど、

そういう人って、すくないですね。
漫画家の大島弓子は、ほんとに
そういう不安の中で作品を書くところがスゴイ。
あの人はほんとの天才だと思う。

人間に沸き起こる不安は、そのままでおもしろい。
不安イコール面白い。
そういう気持ちから、
一歩もはみ出さないまま
大島弓子は、ストーリーを作るんですから。
あの人はすごいです。
ほぼ日 今回の『カンバセイション・ピース』を
書きながら、考えていたことを、
教えていただけますか?

「建物の記憶を書く」って、
いったい、どんなふうにやったのかなぁ、
と、単純に、うかがいたくなったんです。
保坂 家の間取りを思い出すことを、
毎日やっていたような気がします。

第1稿で失敗したのは、
家の間取りでなんです。
最初は前住んでいた平屋の貸家をモデルにして
書きだしたんだけど、それに2階を乗せたり、
玄関から入った左右を
逆にしたりする必要があって・・・。
ところが、空間をぜんぶ入れ替えるって、
ものすごい大変で、
イメージが出てこなくなっちゃうんですね。

だから設定を変えて、
母の実家をモデルにすることにした。
間取りだとか、その建物全体の雰囲気とか、
板と壁とかの雰囲気を、
毎晩、寝る前には思い出そうとしてさ、
毎晩、その実家の夢を見てましたね。
家の中が釣り堀になっていたり、
野球場になっていたりしたんですけど(笑)。

あと、裏話をちょっとすると、
バブル世代のちょっと下の人たちが、
登場人物なんです。
それはぼくが1956年生まれで、
全共闘世代の後なんですけど、
上の、いい思いをした世代をすごく嫌う、
というところがありまして(笑)。

この小説の彼らも、
当然バブル世代をすごく嫌っている。
・・・いい思いをした世代の特徴は、
本人たちが気がついていなくても、
その世代の人の言うことが
「若者の意見」になって流通して、
自然と主流になれちゃうところなんですね。

もちろん、ひとりひとりと会うと別だけど、
世代としてイメージすると、
反感が強くあって、そういう部分も、最初は
小説に書いたりしたけど、それは切りました。
おもしろくなかったから。
でも、つまり、
バブル世代のちょっと下を書いた。

「この小説はいける」と思えたのは、
3章の鉢植えに
水をまくシーンを書いているとき。

鉢に水をかけて、
葉っぱの揺れ方だとかしなり方だとか、
そんな話が延々続いていて・・・
ぼくの小説を読んだことのない人は、
「なんでそんなことするんだ?」
って感じると思うんだけど、
ああいうところこそがぼくの特徴で、
あそこを書きながらぼく自身は、
「この小説がようやく
 固有のノリを持ってきた」と思えた。

それから、野球場のシーンにしても、
「長すぎなんじゃないの?」
と思うかもしれない。
だけど、あれがぼくの書き方で、
できるだけ、長くしているんです。

ぼく自身の気持ちが続く限りは、
読む人もおもしろいというつもりなんで。
だから、水まきのシーンと野球場のシーンは、
これだけ続いているというのは、うれしい。
水まきと野球場は
その前にも一度ずつあるんだけど、
あれだけの長さにできなかったんです。

ぼくの小説の中で、
シーンが短く切れていたら、
本人もあまりおもしろがっていないし、
「読む人、おもしろいと思わないだろうな」
という手応えのなさが出ていたりするんだよね。

そのへんって、
フリージャズの演奏方法に似てて。
フリージャズって、ひとりがソロ取りだすと、
飽きるまでやるんだよね(笑)。
息が続くかぎりサックスを吹き続けるとか、
なんか、そういう気分なんだろうなぁ、
っていう気がしているんですけど。
 
(つづきます!)


保坂和志さん追加インタビュー
第5回 会社員に比べた、小説家の人生。

ほぼ日 かつて、保坂さんが、尊敬している先輩から、
「三人称じゃないと小説は書けないんだ」
と言われたことがあったと、
エッセイで読んだことがあります。
信頼していた人から、
納得できないことを言われたからこそ、
何かが残ることって、他にもよくあるんですか。
あるなら、そういう「きしみ」が出るような
言葉を、教えてくださいますか?
保坂 信頼した人の言葉って、残るじゃない。
でも、すごくヘンなのは、
たとえば慶応大学を出た人って、
「福沢諭吉がこう言っていた」
って、けっこうよく言うでしょ?
で、それが、福沢諭吉が言ったのはいいとして、
自動的に「正しい言葉」に
なっちゃってるところがあるんですよね。

引用だとか、
「誰々さんがこう言った」とかいうのは、
すごく人間の気持ちにとって
トリックがあるというか、不思議ですよね。
引用は、何ひとつ証明はしていない。
その言葉が正しいという保証はない。


小説を読んだ親戚からもらった手紙でも、
「今回の小説の『季節の記憶』は
 すばらしかった。芥川賞の前作を超えたと、
 山本先生もおっしゃっています」
なんて書いてあったりして。
その山本先生って、
近所の小学校の国語の先生だったりするんです。

なんで俺が小学校の先生に
ほめられて喜ばなきゃいけないんだっていう(笑)。
でも、その引用のメカニズムは、よくわかる。

それと同じ気持ちが、子どもの時に
親から言われた言葉とかにあるんですよね。
なんかそれって、
すごく乗りこえるのが大変なんです。
それが完全にヘンなサイクルに入ったら、
アダルトチルドレンになると思うんですけどね。

引用って、ほんとはみんな、
「●●は●●である」という命題を、
ひとりずつが証明したくないから、
誰々がこう言ったとかで
理解している気になっているわけでしょう。
だって、地球がまるいっていうことも、
ほんとはひとりずつでは証明できないじゃない?

実は、そういうふうに
既にある知識を
「まるのみ」するっていうことは、
人間が生きる上で、
ほんとは大事なことなんだよね。


そこでぜんぶ疑う懐疑主義者っているけど、
これがけっこう、おもしろくなかったりする。
ほどほどの「まるのみ」と言うか、
思いがけないことを「まるのみ」することが、
人間としておもしろい。

40代の人と会っていても、
「昔、父から言われたこと」
とか、ふつうに言っているけど、
その父親って、当時35歳だったりして。
引用って、ヘンなんですよね。

・・・あれ、なんか、
いま聞かれた問いと答えが
対応していないような気がするけど。
ほぼ日 聞いたことは、
きしみが出るような言葉は
あったのかということなので、
質問した答えになっていると思います。
保坂 「きしみ」を感じた言葉は、
その時々にあるとは思うけど、
「きしみ」の問題って、やっぱりひとつは、
人から言われることで、自分が前々からそれを
感じていたことに気がつくってことですよね。

それともうひとつは、実は
思っていることと逆のことを言われたけど、
そっちの方がひょっとして正しいかもしれないと
ふだんから懸念していた問題だったりすることで。

その後者の例が三人称のことだったんです。
「三人称じゃなければ文学にならない」
というのは、前からうすうす懸念していたわけで。
でも今回の『カンバセイション・ピース』で、
三人称の問題は乗り越えられたな、と
自分では思っています。
長くなるから説明は省きますが、
三人称より一人称の方が大きい。
「一人称は三人称を含む」っていうことなんです。

ま、ぼくの小説の傾向っていうのは、
一人称が圧倒的に多いということと、
ストーリーがないということの
ふたつだと思うんですけどね・・・。

ストーリーについては、思うことがあるんです。
「ストーリーのある話」と
「輪郭のはっきりした話」というのは別なんだけど、
輪郭のはっきりした話のほうが
やっぱりいいだろうなぁという気がしています。
それは、人からは言われたことがないんだけど。

ストーリーに関しては、
いつか、自分の伯父や伯母や、それから、
小学校の先生みたいな人たちにも、
ほんとに自然にたのしめる話を書きたいな、
とは思うんですけど、まだ、ちょっと、
ぼくにはそれは、早いんですよね。

書くまでの自分が考えもしなかったことを、
書きながら考えていくというか、
角度の急な坂を自転車でぐいぐいこいでいく、
というようなことは、
できるなと思ってるうちにやらないと
できないから、やっぱりまだ今は、
そういうことをやりたい。
だから、おもしろいストーリーは、
まだ先になっちゃいますね。

小学校1年の時の担任の先生が、
まだ80代でご健在なんだけど、
その人に年賀状で、
「あと10年経ったら、
 ベストセラーになるような
 おもしろい話を書きます」
って書いたら、
「早くしないと死んじゃいますよ」
って(笑)。いい味、出てるよね。
ほぼ日 保坂さんは、小説家について、
「社会の落後者という立場でもなく、
 文化講演会みたいな所で守られる存在でもなくて、
 ふだんふつうに仕事している人が、一見、
 避けて生きてしまいがちなものを、正面から見る」
ということを重視されていると、
前にうかがったんですが、会社員に比べての
小説家の人生について、話していただけますか?
保坂 会社勤めに比べた10何年という人生は、
それはぼく自身としては、小説を書くたびに、
課題というか、バーを上げるというか、
斜面を急にするという感じがあるので、
それ自体には、マンネリはないんです。
ぼくの小説家としてのデビューは90年だけど、
それから、まだ13年。
「まだ13年」って感じが、強いんですね。

ぼくは
12年半、会社員をやったんだけど、
それは、「まだ」どころか、
それ以上ないほど長く感じられました。
当時、20代だったってことも
大きいとは思うんですけれど。

小説家は、まだ13年。
それで、これからあと30年は、
生きていたら続けていたいと思っている。

その時は77歳になるわけで、
そのぐらいまでは、
続けていても飽きないだろうなぁ、

っていう気はするんですよね。

それはやっぱり、いい仕事だと思う。
そのへんだけは、人に羨ましがられる
仕事だろうなぁって思うんですよね。

サラリーマンをしている人で、
45歳ぐらいで、
あと30年間、ぜひ続けたいと思える
仕事をしている人も、あまりいないでしょ。

ただ、最初の頃は、ぼくも今よりは
焦っていましたけど。
ストーリーのない小説を書いている弱みで、
「次、書けるかなぁ?」という気持ちが、
ずいぶん、あったんですよ。

だけど、その気持ちも、
もう何度も味わっているから、
「書けるかなぁ?
 ・・・って思ってるけど、書けるんだよな」
というふうには、なっているんですよね。

最初の頃は、
「書けるかな?」って思っている
その不安を打ち消すために、
早く書きだしたいって考えるんです。

今はもう、
「きっと書ける。
 今までも書けてきたし」
というのがあるから、
急いで書きだそうとは思わなくなって、
書いていない期間が長くなって・・・。
ぜんぶが遅くなってしまうという。
ほぼ日 その時々に、
ハードルを高くしているから、
長く時間がかかるっていうことが、
きっと、あるんでしょうけど。
保坂 それも、そうなんだけどね。
 
(明日の最終回に、つづきます!)


保坂和志さん追加インタビュー
第6回 職業としての小説家。

ほぼ日 小説家になってからの13年が、
社会人としての12年半よりも、
ずいぶん短く感じた、ということについて、
もうすこし、うかがいたいんですけど。
「職業としての小説家」について、
保坂さんがいま思っていることは何ですか。
保坂 よく言われているように、
ぼくも、いまの文学の世界には
有能な人材が来ないと感じているし
才能の多様性にも欠けている
と思っています。

いまはわからないけど、
一時期のゲーム業界とか音楽業界とか、
その時々のいいところに流れるじゃない。
若い人は当然そうで、まだ自分の嗜好だとか、
これで一生いくんだなんて
わからない状態で決めるのが
人生ってものだから、10代とか20代で
おもしろそうな世界に見えたら、
そこに行きますよ。

文学って、マイナスの宣伝が
強すぎるじゃない。
でもそれは、ウソですよ。
お金で言えば、小説って、ちゃんと書けば、
原稿料で入って単行本で入って、
それから、文庫本で入るんですね。
1年に2回とか3回とか、
文庫が増刷されたりすると、
収入も、オッケーなんですよ。

最初の数年間は、文庫もないし、
行くべきところに名前が知られていないし、
時間もかかったりして、
そこはツライことはツライけど、
そこで一応、ある程度のところまでやると、
お金の方でも、大丈夫なんですよね。

ふつうの40代サラリーマンの平均年収とか、
それくらいはちゃんとありますから。
こんなに働いていないのに、だよ?

収入も、ちゃんとやればちゃんと入るわけだし、
ましてや、40歳を過ぎて、
あと30年は続けていたいなぁ、
と思える職業って、めったにないですよ。

たとえば数学の世界なんかは、
発見の世界で、もう若いうちに終わっちゃう。
大学の先生とかも、ラクそうに見えるけど、
実は忙しいし、大学生にものを教えることを
仕事にするって、つまらないことなんですよ。

もの書きは、お金に困っていなければ
人にも教えないで済むし、会いたい人にだけ
会っていると、済んじゃうんだよね。
それはほんとに、サラリーマンではありえない。
会いたい人だけに会っていれば済むと、
世界が狭くなると言う人もいるだろうけど、
おもしろい人のひとりに対して、
サラリーマン何人いても
かなわなかったりするわけだからね。
小説家って、いいこと、いっぱいあるんです。

こないだ、糸井さんとも話しあったんだけど、
「私は社会適応能力ゼロの作家ですから」
とか言う人は、わざと社会から自分を隔離して、
自分が攻撃されないように
しているだけなんです。
でもそれだと、小説家側からの
フィードバックも社会に行かないというか。

でも、日本の会社勤めをしている人たちが、
こんなに本を読まなくて、こんなに
人生のこととか世界のこととかを考えないで、
ただ、会社のことだけをやっていれば
生きていけるかのように思っていることって、
おかしいじゃない。
なんか、それに対しては、小説家側も、
はたらきかけないといけないと思う。

文学っていうのが、
若い人にマイナスで見られているのは、
ずるい小説家たちが
社会から自分を切り離して
守ってきた結果なんです。


小説を書いている人が
実際にしゃべらないから、
若い人たちは当然それを聞かないでしょ。

でも、ほんとは、たとえば、
日常生活から芸術が生まれるんじゃなくて、
芸術が日常生活を支えているんですよね。
だから、みんながふだん使っている
美意識とか価値観っていうのは、
ぜんぶ、もとは文学が作りだしているもので。

それがあまりにも定着しちゃっているから、
普通の人はそこに気づくこともできなくて、
文学なんか要らないと思っているんだけど、
もとをたどれば、ぜんぶ文学なんです。

このあいだ、「ほぼ日」でも、
数学者の藤原正彦さんの話が出てましたよね。
あの人が教養っていうのは、
要らないもののことなんだけど、
「いいものを裏で支えている
 役に立たない部分っていうのが教養なんだ」
というのは、ほんとにそのままのことで。
ほぼ日 役に立たないもののよさは、
保坂さんから見て、どういうことですか?
保坂 役に立つというだけでは
なんでいけないかを、
学校の先生も、教えられないんだよね。
学校の先生だって、
いまは、ぼくよりも年下でしょう。
「役に立つこと=いいこと」だとしか
教えられてこなかった人たちが、先生だから。
役に立たないものを、
いいものとして、説明できない。

のろまよりも、速いことがいいだとか、
機械は大きいよりも小さい方がいいとか、
そういうことが、絶えず日常のモードに
なっているわけじゃない。
日常で接することについても、
いいこととわるいことって、
かなり、腑分けされていますよね。

「なんで、ゆっくりがいけないんだ」
「なんで、いいことばかりとりたがるの?」
そういうことを、
ちゃんと言える人って、少ない。

たとえば、
おじいちゃんおばあちゃんを大事にしよう、
っていう時、おばあちゃんの智恵に頼るとか
そういうのも、ほんとは、
役に立つという価値で決めているんです。
だけど、ほんとは、なんか、若い人が
説明をできないところで、大事なんです。
80歳生きたおじいさんのよさを、
若い人がわかるはずがないというか。

結局、役に立つものが大事というのは、
理解できるものが大事という考えなんです。
だけど、言えないものも含めて
言おうとしない限り、
言葉としての力をもたないように、
わからないことも含めて
わかろうとしないと、
わかることにならないと思うんですよね。


今の時代に支配的なコードと
ズレつづけるのが文学なので、
だから例えば、戦争が起きた時に、
反対とか賛成の理論を言うんじゃなくて、
ほんとはわからないんだから、
「わからない」
って、言わなくちゃいけないと思うんですよ。
ふつうの人が「わからない」って言うと、
バカと言われがちなんだけど、一応、
バカではないとされている文学者なんだから、
そういう時に、ヘンに発言を
新聞モードに切り替えずに
きちんと「わからない」と言うことが、
いちばん大事だと思うんですよね。
小説家は、どこの世界に入っても
自分のモードに切り替えない頑固さというか、
平気でしゃあしゃあと
言いたいことを言うというか。

社会の通念も、変わっていきますよね、
一時期は、医学らしい医学では、患部は
患部のみを直すのがいちばんとされてきた。
今は、体全体の調子を整えれば、患部も
治っていくという風潮になってきてるでしょう?

一方、もっと前にさかのぼると、
「ガンになってしまったのは、
 3代前のご先祖さまが悪いことをしてたから」
と言って納得していた時代もあったわけですから。

医者が最新の医療で病気を治すことは
教養とは言わないんです。
いろいろな人間観があったことを
知っていることが教養で、
役に立つ立たないで言ったら
最新の医療を知っていることだけが
役に立つんだけど、じゃあ、
それが行き詰まったときにはどうするの?って。

でもこういう言い方もやっぱり間接的に
「役に立つ」ということで、
ほんとはぼくは、そんなことも
どうでもいいと思ってるんですけどね。

毎日ひとりで坂道を自転車こいで
うんうん言ってる人がいる。
それだけでじゅうぶんだと思う。

 
(おわりです!)


書きあぐねている人のための
小説入門。


小説家になることって、書きながら成長するということ?
世界に新しいものを投げかけることが、小説を書くこと?
書くための細かいクソまじめな努力は、努力と呼べない?

……長編小説『カンバセイション・ピース』が
大反響の小説家・保坂和志さんによる話題の最新刊、
『書きあぐねている人のための小説入門』を下敷きにして、
「書くこと」全般について、じっくりお話を伺いましたよ。

小説を書こうと思っていなかった人が書きたくなったり、
小説を書くこととは関係ないところでも、思わず
発想のヒントになるような言葉がたっぷり。オススメだよ!
インタビュアーは、「ほぼ日」スタッフの木村俊介です。

第1回 なぜ、風景を書くか?

ほぼ日 小説を書くときに、
ストーリーよりも感情吐露よりも、
風景を書くことを重視している保坂さんに、
ふだんよく散歩をしているという
世田谷の羽根木公園でお話を伺えるなんて、
ワクワクしています。
保坂 いまはこうして二人でいるんだけど、
一人で来るのもいいんですよ。
一人で公園を歩くっていうのは、
頭の中で、誰かと喋っている気がするんです。
この風景がいいと感じているときに、
口ではうまく言えない感覚なんだけど、
「おもしろいよね」
「うん」
「ほら、あそこに・・・」
って、誰かと話しているような気がする。

誰か、好きな女の子がいると、
特に激しく好きな時期って、どこに行ったとしても、
その子が横にいればなぁ、とか思うでしょ?
そういう経験が重なると、一人で歩いていて、
誰もいなくても、
心の中で語りかける相手がいるというか。

今、本当に抜けるような空を背景にして、
色づきだした葉っぱがそこにあって、
日があたっていて、からだもあたたかくて……。
この風景の全体は、
絶対に再現できないものだと思うんです。

酒飲んでいるときに、
昔の女の子とつきあった話とか、
スケベな話とかを喋ると、
まわりにいる編集者やともだちは、
おもしろがって聞いてて、
「なんでそういうのを小説に書かないんだ?」
と言うんだけどね。
でも、ぼくにとっては、
今、こうして目の前にある風景のほうが、
断然強い。っていうか、心が動く。

女の子とつきあった話だとか、
スケベな話っていうのは、
酒飲んでいるときにもわかるレベルの話でしょう。
酒飲んでるときにもわかる話っていうのは、
もう、事前に『おもしろい話』という
ジャンルのひきだしがあって、
「それぞれの人が、それまで五〇パターンぐらい
 聞いてきた話に、また新しいのが加わる」
という程度のものなんですよね。

だから、酒飲んでるときに
伝わるような話なんていうのは、
わざわざ書きたいとは思わないんです。

それに、自分自身の恋愛の話とかっていうのは、
すでに知っているわけでしょう。自分では。
知ってるものなんか、
ぼくは、いちいち、書きたくないんですよね。

小説は、願望とか欲望が言葉になって
ストーリーが生まれてくるものだと思われていて、
そうすると、恋愛の話とか、
誰かを殺したくなった話というのが、
多くなってしまうんだけど、
こうして公園のベンチに座って、
こういう風景を見ていると、願望とか欲望よりも、
こういう風景の方が、
──それが大きいか深いか強いか、
どう言えばいいかわからないけど──
もっと、断然「上のもの」だと感じるのね。

今の時期に、葉っぱがキラキラするのって、
小説で書くとしたら、どう書いたらいいか、
ぜんぜんわからないんですよ。
あの木、すごくいいけど、どこまで行っても、
漫然としか見られないですよね。
全体を見ていたと思うと、細部の葉っぱになってて、
次には背景の空の青さになってて、って。
こうして見ている最中に、すでに、
再現するのは不可能にちかいって思うでしょ。
それを文字にするとかって……
あの……苦痛でしょう? 途方にくれるでしょう?

今のこの公園から受けている感じって、
ここにいるときにしか言えないんだけど、
そういうほとんど不可能とわかっていることを、
それでもできるかぎり文字で再現したい
っていうのが、ぼくの小説なんです。

風景を完全に再現できたと思った人は、
今までにいないだろうし、
無理なんだろうなという気持ちはありますけど。
ほぼ日 これまでの表現者も書き尽くせなかった風景を
再現したい気持ちって、どんなものなのですか?
保坂 風景を再現したいというのは、
何か、願望とか欲望というよりも、
「悲しみ」とかのような気がする。

ぼくは、今のこの風景を前にしたときの
至福感っていうのを小説に書きたいんだけど、
その裏には、
「これは、絶対に今ここにしかない」
ということを知っている
悲しみのようなものがあるんだと思うの。

だから、飲み屋で通じるようなことなんて、
わかりやすすぎて、そういう再現不可能な悲しみから
逃げてるんじゃないかと思うんです。

こういう公園の風景を一人で見ていると、
例えば、去年死んだ小説家の日野啓三さんが
やっぱりこの十月のこの風景をすごい好きで……と
日野さんを思い出すし、書いているときには
どこまで考えていたか、もう忘れちゃったんだけど、
『カンバセイション・ピース』
にも、つながっているとも思う。

『カンバセイション・ピース』の最終章は、
お母さんが子どもに「ほら、きれいな空ね」って
言うところからはじまって、それはこの風景、
この空のことなんだけど、あの話の中でも
「きれいな空ね」というのは、
死んだ人に向かっても、
言っているんじゃないかと、
語り手の「私」が思うことで、
ぐんぐん最後の情景まで
引っ張られていくきっかけになるんです。

自分自身の存在も有限だし、
人間も有限だし、もうぼくの年になると、
昔に知っていた人も
たくさん死んでいるとかいう気持ちだってある。

「風景を見るときには、
 一人でいても好きな女の子に語りかけている」
というと話が通じやすいんだけど、
それすらも、一部分でしかないんだよね。
ほぼ日 「一人で歩いていても、誰かと喋っている感じ」
は、何も、好きな女性とかには限定されない、と。
保坂 人間が有限であるということや、
死んだ人との関わりがあって
人間の心が生まれている。

人間の心って、自然と誰かに語りかけるように
プログラムされているらしくて、
恋愛っていうのは、語りかけるものの、
ほんの一部分なんじゃないかって思う。
恋人がいるから語りかけたくなるんじゃなくて、
もともと心の中では、いつも誰かに語りかけているから、
そこに恋人がはまるんじゃないかって思う。

恋人に語りかけるというと、
すぐに小説にはなるんだけど、
わかりやすいところで書いたらつまんない、
というのが、ぼくの小説観なんですよね。
 
(つづきます)


第2回 クソまじめなだけの努力

ほぼ日 『書きあぐねている人のための小説入門』では
小説についての一般的な思いこみや、
小説家志望者が書くときに陥りがちなワナについて、
丁寧に、伝えてくださっていますよね。
保坂 小説を書きたい人って、努力家なんです。

自分でも「一生懸命に努力している」と
思っているんだろうけど、でも、その状態って、
まだ、ぜんぜん、努力が足りないんですよね。

そういう努力は、文章を上達させるとか、
この方面の小説をたくさん読んだとか、
そういう狭い範囲の努力でしかないんです。

「書けることと書けないことの境目の、
 自分がいちばん
 書けなくなるところはどこなのか」
とか、
「書きそびれていることはないのか」
という風には、ほとんど考えていない。

小説家志望の人が、
文章を上達させる努力をしているとか、
本を一生懸命に読んでいるとかいうのは、
単なるクソまじめさなんです。
それは、本当に小説を書くためのまじめさとは
違うんだということには、気づいてほしい。

「高校の運動部で、腕立て伏せを
 三百回やりなさいと言われて
 三百回やっているような努力」で、
「ラクに三百回できるやり方を
 無意識のうちにおぼえて、
 力が残っていたから四百回やりました」
って、偉そうに言う人、いるでしょ。
そんな程度のことで、ほんとうの努力じゃない。

やらされているだけで、
「何のためになっているか」
までは、考えていないんですよね。

でも、野球のイチローとかサッカーの中田は、
「腕立て伏せは何のために必要なのかまで考える人」
なわけで、そこまで考える人が
ほんとうの「努力する人」で、
そういう人の方が、
質だけじゃなくて、量も、
絶対に、たくさん練習しているもんなんですよ。

野球の落合も、現役のときには
怠けものみたいに言われたけど、
それは日本の選手が人に見られるところでだけ
努力しているような人たちばっかりだったから、
落合の努力が見えなかっただけで、
素質だけで、落合みたいなプレーが
できるわけないんです。

それに、
「素質」っていうことで片付けていたら、
自分が努力しないことが正当化されますよね。
「素質」をすぐに口にする人は、本当は
素質がないんじゃなくて、努力をしていない。

最近、有名な長谷川等伯の松林図屏風を見たんです。
水墨画とか屏風絵とかって、
ほとんど、はじめて見るようなものだったんですが。

晩秋、初冬の景色を描いた名作って
言われているんだけど、あれをそばで見ると、
素人目には、「え?ウソ?」っていうくらい、
雑で簡単に見えるんです(笑)。

で、ちょっと離れて見るのと、
遠く離れて見るのとでは、全部、景色が変わる。
で、ずっと見ているうちに、
本当の景色みたいに見えてくる……。

ほんとに、ささっと、一筆描きみたいでね。
長谷川等伯は、この松林図屏風だけは、
時間をかけないで簡単に描いたかもしれないけど、
彼がそこに辿り着くまでは、
絶対に簡単だったわけがないだろうと、
それぐらいは、誰だってわかりますよね?

展覧会で油絵の実物を見ると、
ごてごて何度も塗り重ねてるのがわかるんだけど、
それと同じ積み重ねが、やっぱり
松林図屏風では作品の外であるはずなんです。

音楽の演奏を聴いたって、同じで、
なめらかな演奏を聴いたときに、
初見でそこまでいくはずがないと、
誰でも思うわけでしょう。

「その演奏に辿り着くまでに、
 この人はすごい苦労をしているんだろうなぁ」
ということぐらい、誰でもわかりますよね。

絵や演奏では、そうやって
時間をかけて訓練してきたということが、
けっこうみんなに理解されているけど、
文章を書くのだけは、そういう理解がないんですよ。
小説家を志している人も、そういうことを、
あんまり考えていないんじゃないかと思うんだ。
なんとなくこういう形に仕上がった、
くらいのイメージしかないと思う。

でも、大抵の文章は、
もう何度も直して書いているんですよ。
それ以前のものすごい積み重ねもあるし。

小説家になりたい人って、
「自分だけがヘタで時間をかけている」とか、
そういう風にしか
思っていないんじゃないかと思うんだけど、
でも、本当はやっぱりみんな、
すごい時間をかけて小説書いてるし、
文章の中に、その人がどれだけ小説を考えてきたか、
っていう蓄積ももろに出ている。

だからぼくは、人の小説を読んでも、
ここはすんなり書いて、
ここは手間取ったっていうことがわかる。
ヘタなものでも、書いた人は、
本人なりに「手間取った」と
思っているだろうけど、
そんなのぜんぜん手間とは言わないよ、
って思うんです(笑)。

小説家を目指している人は、
自分の苦労だけが大変だと思って、
「こんなに苦労して書いたんだから……」
とか言いがちけど、
それってまだ足りないんだよね。

それ自体にかける時間も足りていないし、
「小説ってどういうものなのか?」
と考えることも足りていないし、
そこに至るまでに読んだ本も、
やっぱりその時点では、足りていないんです。

新人賞に応募される原稿の大きな特徴は、
テンポのいい文章を書こうとしていることです。
ただ、その「テンポのいい文章」っていうのは、
例えば、木で何かを彫るときに、
「カンナをかけたり、サンドペーパーで
 ツルツルすることだけをやっている」
というようなものなんですよね。

だけど、木彫には、
「全体として何を作るのか」
ていうことが一番先にあるわけだし、
「木の材質をどう選ぶか」も、
「木の質感をどう残すのか」もあるし、
いろいろなものがあるわけでしょう。

テンポのいい文章だけを目指すのは、
ありがちなものを作って、
サンドペーパーだけ熱心にかけて
滑らかに仕上がっているものを、いい木彫だと
思っているようなものなんです。

サンドペーパーだけをかけている人は、
その部分だけを見ているから、
「何を作ったのか」について、
実はあんまり考えていないんです。
テンポって、一番簡単に目につく部分だから、
そんなの、どうってことない、
という風に考えを変えてみてほしい。
 
(つづきます)


第3回 小説がはじまるとき

ほぼ日 『書きあぐねている人のための小説入門』は、
どう読んでほしいと思って、作ったのですか?
保坂 この本は、かならずしも、
厳密に書いたわけではないし、
ただ読んだだけでは、
同じことを正反対に言っているように
見えるところもあるし、
矛盾しているようにも見えます。

二つのことを一緒くたにして
言っているようだったり、一つのことを
正反対に言っていると見えるところだってある。

そのへんの徹底した整理までは
してないんだけど、でも、ぼくとしては、
「そういうことはぜんぶ、
 小説を書いているうちにわかるよ」
というつもりで書いているんです。

それに、きちんと整理して
厳密なことを言い出すと、
そこから先は、
どんどん面倒くさくなっちゃうので、
読んでいるだけで終わっちゃうというか……。
書きあぐねている人のための本なのに、
「書く方に手がまわらない」
ということになったら、意味がない(笑)。

まず、ぼくは
「自分を信じてはいけない」
と言っているわけですが、同時に、
「自分がおもしろいと思うものを書きなさい」
とも伝えています。
矛盾しているように見えますよね。

でも、ぼくは両方言いたいんです。

最初に「自分を信じてはいけない」
と言ったのは、
「小説を書く前の、
 何もやっていない自分を信じてはいけない」
っていうことです。

「自分がおもしろいと思うものを書きなさい」
というのは、
「小説を書きおえた後に成長している自分が
 おもしろいと思うものを書きなさい」
という意味なんですね。

最近の学校教育とかで、よく
「自分を大事にする」とか
「自分を信じなさい」とか、言われているけど、
それは、信じるに足りないような
自分の方のことなんですよ。

小説を書いているうちに
自分がどんどん変化していくから、
書く前の自分なんか信じるに足りない。
そういうところから、
小説がはじまると思うんですね。
ほぼ日 「書きおわった後の自分がおもしろいものを書く」
って、おもしろいです。
保坂 変化しないまま、
サンドペーパーをかけるみたいなことだけで
ずっと書き続ける人って、一種、
差別用語のように聞こえるかもしれませんが、
地方の同人誌の人に多いような気がします。
お互いが、そこそこのところで評価しあって、
批判しあっているような
集団ができあがっちゃうと、
それより外側の視点っていうのが、
なくなっちゃうんですよね。

そういうところであんまり書きすぎると、
固定しちゃってダメなんです。
似たような作業をくりかえすだけの
サイクルにはまっちゃうから。

よく、作家になるためには、
自分の書いた作品を読んでくれる友だちが
最低三人必要とか五人必要とかいう
言い方があるんですけど、最終的にはやはり、
その友だちは書いたことがない人だから、
書いてる自分しか信用できないと思うんです。

もともと、小説家になるということは、
「ずっと一人で書いていく」ということですから。
ほぼ日 「書いている自分しか信用ができない」
という立場は、
「小説家にとって小説を書くことが、
 人生を生きることなのだから、
 小説とは書きながら自分自身が
 成長することのできるものでなければならない。
 出来具合なんて、副次的な問題でしかない、
 という小説観を持つことで
 小説に新しいものが生まれてくる」
という保坂さんの考えに、つながるんだなぁ、
と思いました。
保坂 確固たる小説観を持たずに、
フラフラした状態で
小説を書き続けていると、
「誰にも褒められなかったから悲しい」
ということになってしまう。
逆に、自分が意図していることと
ぜんぜん違うところを褒められていて、
一種の誤読をされているにも関わらず、
売れただけで
よろこんだりすることだってあるでしょう。

評価というか、自分で安心するための材料が
外側から来ている人というのは、結局、
ずっと、外側だけを頼りに生きているから、
それは苦痛で不安だと思うんです。
そういう苦痛って、自然災害みたいなもので、
どうしようもないじゃん。

確固とした小説観を作らないで
外側の評価だけで生きていると、
そういう小説家人生になっちゃうんです。
自分でなんとか克服できる苦痛なら、
自分で選んだことだから、
ぜんぜん構わないわけでしょう。

いかにも小説然としたものばかり
書きたがる人がいるんですね。
それは、確かに小説としか言いようがない。
ただ、
「小説を書いたということはよくわかるけど、
 ひとつもおもしろくない」というだけで。
かなり古い例えだけど、
シーナ&ロケッツの鮎川誠が、ラジオで、
「最近は『こんにちは』って
 玄関を開けて入ってくるようなロックが多いけど、
 ルー・リードなんか、ガーッて入ってきた!」
って言っていたんです。

そういう「ガーッ」みたいなことは、
やっぱり絶対に必要なんだと思う。

こないだ、高校生のための進路のインタビューで、
小説家に向いているか向いていないか、
っていうような話が出たんだけど、
そのときにも、同じようなことを言いました。

「小説家に向いてるか向いてないか、
 っていうことはぼくは考えないし、
 才能があるかないかだって考えない。
 才能なんて、問題じゃない。
 ただ、ぼくから見て、
 小説家に向いていない性格が
 もしひとつあるとしたら、
 上下関係が平気な人だと思います」って。

上下の規律の中にいることを
苦痛と感じずにやっていける人っていうのは、
かなり小説家には
向いていないんじゃないかなぁって思います。
どこかで精神的な
タメ口をきけるような人じゃないと、
小説に対しても「こんにちは」と
入っていく人になってしまうと思う。

ただ、こう言うと急にナメるやつがいるんだけど、
「卑屈にならない」っていうことと
「相手をナメる」っていうことは、違うんですよね。

ナメてるだけで、
「この程度でやれる」と思っている人もいれば、
もう片一方には、ものすごい卑屈になって、
一生懸命、小説ってこれでよろしいでしょうか、
と思っている人もいるというか。

ただぼくは、
卑屈になっている人たちの抑圧を取って、
「もっと、あなたなりのフォームでやりなさい」
「あなたの思う通りに、まずはやってみなさい」
ということを言えば、もっと
ちゃんとしたものを書ける人が
出てくるくんじゃないかな、と思う。
「こんにちは」って言って入っていくのをやめて、
自分の思う通りに書くことから
はじめればいいんだよ、と。
 
(つづきます)


第4回 人の通った道をゆかない

ほぼ日 この本を書いた目的の
大きな部分を、教えてくださいますか?
保坂 ぼく自身が『プレーンソング』という
小説を書いたのが八八年で、
デビューが九〇年で、八八年って
ぼくが三一歳から三二歳の頃なんですけど、
それまでは、何してたかっていうと、
どう書いていいか、
ずっと考えていた期間だったんです。

ぼくにとっては、その何年間っていうのは
ムダじゃなくて、
ぼく自身の大学からの十年間、それが、
「ちゃんと書きあぐねていた期間」
なんだけど、
それを経験した人間として、
その十年のことをしゃべれば、
それをきちんと受けとめた人には、
ぼくが十年かかったものが、
一年か二年には短縮されるんじゃないかなというか。
そういう本になればいいという気持ち
って、いえばいいのかな。

たとえば新人賞の選考会って
すごく保守的なんですよ。
みんな選考委員として、勇み足みたいなことを
しちゃうことを恐れているから、
冒険的なものじゃなくて、
安定したものが選ばれる空気が支配している。
だから、書く側が、
「いわゆる小説」とされるものに合うように
普通の小説を書いていたって、
芥川賞の候補になったり、
芥川賞を取ったりすることもできるんだけど、
大事なことは、
芥川賞がエライわけではない
っていうことなんです。

芥川賞っていうのは、
商業的に名が知れてるだけであって、
たかだか新人賞ですから……つまり、
小説を書くのに、人が通ってきた道を
そのまんま行っても意味がないんだけど、
その程度で、芥川賞くらいは取れる。
しかし--ここが大事なんだけど--、
そういう小説で芥川賞を取った人は、
十年後にはいなくなっているんです。

ぼくがこの本を通して伝えたいことの一つのは、
「人の通った道を歩くな。
 しかし、その人の苦労の仕方は見習ってくれ」
っていうことですよね。

それから、もうひとつ、
家庭環境や友達や進路のせいで、
ずうっと小説に無縁で大人になった人って、
けっこういますよ。
理科系とか--理科系なら小説読まなくていい
っていうのはおかしいんだけど、日本では
そういう風潮があるでしょ。
それから、写真やってる人とか。
小説に触れないままきて、
あたりまえだけど、小説を書こうなんて
まるっきり思わずに、
別のところに行っちゃう人がいると思うんです。
そういう人たちに、
「小説は文学少年・文学少女のなれのはてが
 書くもんじゃない。
 小説とは、日常と別の思考や感受性を
 この世界に持ち込むもんなんだ」
っていう意味の本でもあって……。
本音を言えば、そっちのほうが強いかもしれない。

小説って、重ったるい感じというか、
なんかうっとうしいオヤジが人の話を聞かないまま
そこにいるような印象があるじゃない。
実際、八〇年代までの文芸誌って
そういうものだったし。だから、
小説に触れないまま、
小説にネガティブなイメージを
持っている人は多いと思うんです。
そういう人が
たまに本屋に行って小説を手にとったら、
辛気臭いものにあたっちゃったりする。
その後、二度と読まなくなる可能性もあるもんね。
そういうマイナス宣伝の効果って、
けっこうこわいですよ。

もっとたくさんの人に
小説の世界に入ってきてほしいっていう気持ちは、
すごく強いんです。
なにしろ、文学育ちの人の書く小説が
一番つまらないんですから(笑)。
このままだったら、
人材不足で小説が先細りになっちゃう。
それは世界的な問題だと思うんですけど。
だから、
「もっと無能な人だって食えてるから安心しな」
って言うと同時に、
「三〇年間やり続けるに値する仕事だ」
とも言っているんです。

小説を発表すると、
すごい心ない評価だとか、
とんちんかんで評価ともいえないような評価を
書かれたりもするけれど、
そういう評価も含めて、
一生評価にさらされる仕事って少ないんですよ。

サラリーマンになると、
やっぱりどうしても閉じた世界だから、
自分に関する評判って、
そんなに聞かなくなるでしょう。
三〇歳ぐらいになって、会社の中で
一定のポジションにつきだすと、
普通はもう評価が
聞こえてこなくなっちゃうんだよね。

評価ってものがなくなっちゃうんですよ。
会社の世界は狭いから、
ちゃんとした批判も言いにくいし。

でも、小説家にはその評価がついて回る。
小説家になって、そういう
「批判されること」に慣れていくっていうのも
また、いいんだよね。
ほぼ日 『書きあぐねている人のための小説入門』は、
小説家志望者に限らず、
発想のヒントになる本だと思って読みました。
保坂 確かに、小説を書きたい人だけじゃなくて、
例えば、何かを教える立場に立っている人にも、
ヒントになるんじゃないかっていう
気はするんです。

ただ、
そういう他の分野の人のヒントになるものは、
今までの『アウトブリード』とか
『言葉の外へ』っていうエッセイ集が
割合、そういう役割を果たしていると思うんです。

実際、美大の人とか音大の人とかが、
ぼくのエッセイをたくさん読んでくれているんで。

だから今回は、
小説に的をしぼったほうがいいかなと思った。
小説をやろうと思っている人たちが、
いちばん頭が固いんですよね。
他のジャンルからの応用がきかないし、
卑屈さとリスペクトがごっちゃにもなるし。

学校で本を読むときには、
筋とかテーマとかいった枠組みで
まとめるように訓練されちゃってるんですよね。
やっぱり、
それをやっていても小説なんて書けなくて、
だから
「なんか、おもしろい部分だけ、
 線をひっぱったり、
 ページを折っていったりするけど、
 なんか全体としてはよくわかんなかった」
みたいな人の方が、小説家には向いているんです。

なんとなくここがおもしろい、とか、
部分にばかり目が行く人の方が、向いてますよ。

だって、全体として
この小説を通して言おうとしていること、
なんていうのは、
書き手本人がいちばん考えていないんだから(笑)。
そういうことから自由になったときに、
小説を書けるようになるんですよね。

もちろん、小説全体のことは気にしているけど、
それは、オーケストラの曲の中に、
突然室内楽は入ってこないとか、
ロードレースを走っているんだから
急にトラック競技になったらまずいとか、
そういう大きな乱れが混入しないか気をつけている
だけなんですよね。
乱れずにずっと続いていけば、
作品にはなるんですよ。

作品を書くときに気にしているのは、
今書いている場所だけで十分だと思うんです。
そのつど書いている場所というのは、
前から続いてきている場所で、
それまでの流れを受けての今ではあるんだけど、
それはもう気分みたいなものになっている。
ただ、そうやって今だけ気にして書いていると、
全体が自然な流れになるというか……。
いきなりあぜ道にコンクリートが
横切るみたいなことにならなくても済むような。

全体の構成とかを、前もって作っちゃうと、
今のその場の流れを考えることを、
そこそこでやめちゃうんですよね。

全体の構成を先に作っちゃうと、
「まぁこの程度でいいや」
っていって次を書いていっちゃう。
そうすると、その「この程度」というのが、
すごくありがちな心情説明とか驚嘆の仕方とかで、
だから例えば、痛感したときに、
「やっぱり人間は遺伝子で決められているのだ」
とか、そういうことを書いて、
読者に痛感ぶりが伝わらないことになっちゃう。

例えば痛感するなら、
ちゃんと痛感したらしい言葉を、そこで、
考える必要がある。
自分はそれなりに考えたんだけど・・・、なんて、
そんなの考えているうちに入らない。

それからもうひとつね、
書いてると、やっぱり何か
ちょっとヘンだなと思うところとか、
あるんですよね。
これはヘンだし違うんだけど、
他のものは出てこないっていう箇所が
いくつかあるはずで、そういうところは、
やっぱり、書き終わるまで、ずうっと、
ひっかかるはずなんですよね。
そういうものは忘れないように
気持ちの中でチェックし続けているから、
いつかハッと気がつくんです。

そういう過程が、小説を書くための技術というより、
粘りとしてすごく大事で、
全体を先に決めていて、
次の部分を早く書こうと思って
そこそこでやめていると、
作品も書いているその人自身も、
本当に、そこそこにしかならないんです。
  (つづきます)


第5回 未完の小説も平気で読める

ほぼ日 小説家志望の人のいわゆる努力が、
「努力のうちに入らない努力」
という保坂さんの考えは、
最初に聞いて、すごくおもしろかったんです。
保坂 ぼくは、小説って音楽性だと感じるんだけど、
その音楽性というのを、センテンスの
テンポのよさだと解釈しちゃいけないんですよね。

もっとぜんぜん違う、
「それを読んでいる間は、
 ふだんの時間感覚と変わる」とか、
「ふだんとは別の気持ちになって読んでいられる」
とかいうことが大事なんだと思う。

テンポのよさって、
訓練すればいくらでもできちゃうし、
部分的な訓練でできることっていうのは、
時間さえかければ誰でもよくなるから
ダメなんだと思う。

そういうのは、
努力のうちに入らないんですよ。

終身雇用制の二〇代のうちの我慢みたいな、
その程度のつもりで
小説を書いていても仕方がない。
時間をかけてもできないことに
気がつくことのほうがよっぽど難しいですから。

十年以上前に、ぼくと同世代の女の人が
「自分はすごく頑張った」
っていうようなことを言っていたんです。
でも、それを聞いていると、
大会で何等になったとか、
英検1級を取ったとか、それで
先生にどれだけ褒められたかっていうもので。

「ぜんぶ外から言われるもんばっかりじゃん」
って言ったらさ、
その人がすごいびっくりして。
「あの、そんなことは考えもしなかった」
って言った。

ちょうどその人も
行き詰まっていたときだったから、
それを言われて、バーンって気がついたんだけど、
自分がつまり、外の評価以外にどれだけ、
自分の中でそれを良しとできるような基準を
考えてなかったか、という……。
もちろん、自分で良しとすることだけをやっていて、
いきなり、
「割り算ができないのも個性です」
とかいうと、
間違ったことになっちゃうんですけど。

テクニックとして確立されているものや、
口で説明できる程度のものだけに
触れるのではなくて、
説明できないものをどれだけわかるかというか。

相手が言おうとして、ぼくも言おうとして、
説明しあぐねているものを、
どれだけ察知しているか。
自分の中で持っているか。
そういうことが大事なんですよね。

この本で、
小説に関してぼくが言っていることは、
徒弟制度のおやじの言葉に近いのかもしれない。
「横で毎日見せてやってんだから、
 それぐらいわかれよ」
っていうような、なんかそういうものに近いです。
でもさ、本当の技術って、
そうじゃなきゃ教えられないっていうか、
それ以上に伝えようがないんだと思う。
だから、この本で書いたのは、
けっこう、めいっぱいってところもあるんです。

注意深く読むっていうか、
考えながら読んでくれる人だったら、
あとは考え感じてくれるだろうというか。
だから、これ以上さ、手取り足取りしても、
その時点で考えない人は、やっぱり、
書ける人にはならないだろうな、
という気はするんです。

この本は、もしも小説作法っていう
膨大な完全な本があったとしたら、
一つ一つ丁寧には説明しないけど、その本に、
「ここはチェックしておいて」
って付箋をつけておいたようなものです。
今までの「書き方のマニュアル本」は、
まちがった個所に線をひっぱってた。
でも、そうじゃなかったこことここがあるから、
あとは自分でそこを読みなさい、探してきなさい、
そういう感じがあるんだよね。

もちろん、そのレベルで伝えているなら、
書かない人にも、
小説の楽しみが伝わると思ったし。

ものすごい厳密には書いていないものだけど、
「厳密であること」と「伝わりやすさ」は、
ぜんぜん別のものですから。

ただ、この本を読んだ若い人は、
もしかしたら実例が古いと思うかもしれない。
例えば、川上弘美がないとか、
町田康がないとか、阿部和重がないとか……。
そういうことを言うかもしれないけど、
そう思うレベルじゃダメなんだと思う。

ぼくは二〇代のときに
カルチャーセンターの仕事をしてたんだけど、
若い受講生には、そういう人がいっぱいいました。
音楽の例とかで、五年前のヒット曲とかが出ると、
「なんかださい」とかすぐに言い出す人がいた。
でも、なんかそれって、
知ったかぶりをしているだけじゃんっていうか。
そう言っている限りは、
「その人自身が
 半年経てば古くなるものの中に生きている」
ということに、まだ気づいていないというか。

小説を読んでいる人が、
小説を書ける人になるかどうかというのは、
その人の気持ちの持ち方全体が関わるわけで、
例えば、一つ未完の小説があったとして、
それを未完だっていうことを
気にせずに読めるかどうか。

「これはまだ未完でしょ?」とか言って
読まない人は、やっぱり
小説に対して、まだ受け身だと思うんです。

小説っていうのは、与えてくれるもので、
それをたのしむもので、
結末まできちんと揃っていて、と……。

でも、書く側の気持ちとしては、
小説なんか部分だから、
部分だけ転がっていてもそれで読むんです。

完結しているとか、していないとか関係なくて、
その部分がおもしろいかどうかということは、
やっぱり、わかるはずでしょ、みたいな……。
おもしろければ、途中が転がってるだけでも
楽しめるはずだっていう気持ちが、
生まれてる人が、小説家になれる人で。

で、それはもう、あの、やっぱり、
自分からそうなろうと思ってもなかなかなれない、
自然な気持ちの状態だから。
それがあるかないかは、きっと、
チェック項目のひとつだと思うんですよね。
だから、小説家になれるかどうかの、
チェック項目があるとしたら、
「上下関係の秩序の中に住むことを平気と思えない」
「未完の小説みたいなのを、気にせずに読める」
っていう。そういう感じ……。
まぁ、もちろんぼくは、才能ってことは考えないし、
チェック項目も、あんまり考えていないんですけど。
ほぼ日 今までで最高傑作と自負している
『カンバセイション・ピース』を
出版して、かなり経ちましたが、
今はどういう気持ちで生活していますか?
保坂 『カンバセイション・ピース』を
実際に書き終えたのは二月末で、
そのときからは八か月経っているから、
自分の中では、もう整理がついていますね。

去年の暮は、あの小説を書いてたから、
暮の大掃除できなくて、
「小説を書き終わって、
 この小説が手を離れたら、大掃除をしよう」
と思ってたの。
でも、謎なんだけど、まだ掃除をできてない(笑)。

この『書きあぐねている人のための小説入門』を
予想よりも早くしあげないといけなくなって、
七月、八月はけっこう大車輪で働いてたんですね。
九月もいろいろそれが尾を引いてて。
ただ、十月に入った後でさえ、
もういいはずなのに、掃除に手が回らない。
これが、ほんとに疑問なんだよね……(笑)。

だから、いろんなやりたいことが、
何にもできてない時期なの。
自分のホームページのコンテンツを新しくするとか、
中途半端になってる「自作解説」を
ホームページにもっとたくさん書くとか。

……あ、ぼくの小説の自作解説は、
一応あんまり嘘のない、書いてるときの気持ちが
いくつも載っているので、感心のある人は、
『書きあぐねている人のための小説入門』の
応用編として、読んでもらいたいんですけど。

なんで今は
時間がないんだろうなぁ、って思うんです。
ぼんやりしてるとね、けっこう丸一日ぐらいは、
何にもしないで過ごすことができちゃうのが不思議。

で、丸一日何にもしないで二日目に、
「そうだ、こんなことしてちゃ」って、
絵を見にいこうとか散歩ぐらいはしようって(笑)。

こないだ久しぶりにエッセイを書いて、
文章もだいぶ書いてなかったんで、
文章自体が書けなくてね、困ったぐらいだから……。

それぞれの日に具体的にやったことを入れていくと、
けっこう、確かに理由はあるんだけど。
でもね、こう、過ごしてしまった自分としては……。
掃除ぐらいはできただろう、とか思うんだけどね。

ま、なんか、なんにもしないんだよね、もともとが。
そういう、よく言えば精神の貴族というか、
時間感覚における貴族っていうか、それは、
小説家には大事だろうとかって思うんですけどね。

(保坂さんにうかがった小説のお話は、ここまでです。
 来年も登場してくれることを願いながら、
 いったん、今回のコーナーを、終了いたしますね!)