YAMADA
カンバセイション・ピース。
保坂和志さんの、小説を書くという冒険。

保坂和志さん追加インタビュー
第3回 死ぬことは消えることじゃない。

ほぼ日 保坂さんは、いま、
河出書房の「文藝賞」という
新人賞の選考委員をされています。
小説家になるかならないかという
境目の人の作品に接する中で、
どういうことを思いますか?
保坂 古い世代の人たちは
ほんとに古い小説を書くけど、
『文藝』に出てくるような応募作品の
若い人たちって、だいたいまず、
小説を読んでいないですよね、一目見て。

それは、いちがいに
否定することでもないんです。
もう一度、まっさらな状態から
自分なりの小説を立ちあげようとか、
マネしないで作りあげようみたいなつもりも
感じられるので。
だから、いつも読んでいる時に、
「この人たちの基盤になってるのは、
 小説ではなくて
 マンガかドラマなんじゃないか」
という、そういうことを感じる。

ただ、若い人たちが
大きな間違いをしてると思うのは、
「語り口のテンポの良さにこだわりすぎ」
っていうところなんです。
実は、テンポがいいと、あの、
書ける範囲がどうしても減るんだよね。
ほぼ日 その話、おもしろいですね。
保坂 テンポのいい作品って、
実は「テンポがいい」という
ひとつのギアしかなくなっちゃうわけです。

テンポがあんまりはっきりしないっていうのは、
ギアの切り替えが自由にできるんですよ。
やっぱり、書く部分によって、
ギアを切り替えなければならないんで、
そこは、ひとつだけでは
うまくいかない時もあるんです。

最近のぼくにとって、
小説の書き方についての話になると、
「風景描写があるかないか」
だけなんです。
自分自身にも課していることなんだけど、
風景がなぜ大事なのかというのは、
言いだすとキリがないくらいでして。

脳って不思議なもので、
目の疲れを休める時も、
風景写真を見るだけで
オッケーだって言われているんですよね。
あれって、紙を見てるだけなのに。
風景の記憶は、ちゃんっと蓄積されていて、
写真を見た時も、
ほんとの風景を見たのと同じ物質が
脳の中で出たりするらしいんですよ。

それと一緒で、
文字で風景を書いていても、
きっとその風景に実際に接した時と
同じような物質が脳に出ると思うんです。
それが、小説の力になるんです。

ほんとの意味での外からの力って、
風景なんじゃないかと考えています。
社会じゃなくて、それを飛び越した
自然の持つ力と言うか・・・。

風景っていうのは、とにかく
三次元の空間だから、それを一次元というか、
ただ時間にそった文字の流れにするというのは、
ものすごい力仕事になるわけです。
その大変さというのが、やっぱりおもしろい。
いかにして負荷をかけていくかで、
小説の次の局面が出るに違いないっていう、
そういうことを、今、ぼくは考えています。

それについては、秋に、
小説の書き方についての本を出すんです。
そこで、そういう細かい、
風景のことだとか人物のことだとかについて、
言葉を尽くすつもりなんで。
ほぼ日 こんど出る
『カンバセイション・ピース』の
原稿を読ませていただいたら、
昔は、自分にできるかもしれない能力を
神様にあてはめていたがゆえに、
そのできない能力についても
思いを馳せることができたんじゃないか、
というようなことが書かれていて、
とてもおもしろかったんです。

「『神がそれを見てくれている』
 と言って済んでいた時代は、
 見ることにただ見る以上の意味というか
 力がこめられていた」


「人間の思い描く世界が
 神のいない世界になったときに、
 人間は神に仮託した自分自身の能力まで
 神と一緒になくしてしまった
 ということではないかと思った。
 何しろ神に仮託した能力は
 人間の中から発想されたもののはずで、
 そうでなければ人間は
 神にリアリティを感じることができない」

証明できるものだけを
集める視点だけに寄りかかると
わけのわからない
不思議な世界についての思いを、
なくしてしまう、
というようなことを、保坂さんは、
たびたびいろいろなところで書かれています。
このあたりのことについて、
今現在は、何を考えていらっしゃいますか?
保坂 いまの日本で
頭がいいと思われている人は、たいてい、
物事を分析できる人のことなんです。
その「分析できる」って何かと言うと、
つまり、要素に分解できるということで。

まずそれが、ウソだと思う。
人間は人間としてまるごといるわけで、
だったら、世界は世界で、自然は自然で、
まるごとそこにいるはず。

だったら、その
「まるごと」を「まるごと」のまま
説明したり理解したりするために
説明を考えたり、記述方法を生みだしたり
そういうことが大切だ思う。
分析的なものって、もうぼくは、
頭がいいことだと感じることができない。

社会的に、
ふだん妥当とされている考え方って、
未解決のまま置きざりにしてることが
いっぱいあると思うんです。
たとえば、死んだら生きものはいなくなると言う。
そう思うんだったらお墓なんか建てなきゃいい。
徹底させるんだったら、
思い出すことも無意味だと思う。

ぼくは、チャーちゃんという
かわいがっているネコが死んで、
ほんとうに悲しい思いをして、あのときに、
「死んだらおしまい」っていう考えに
つかないことに決めてしまった(笑)。


死んでも消えてしまうことではないんだって、
チャーちゃんのために
とにかくもう、頑として言い張りたいわけ。

科学的妥当性なんか、
どうでもよくなるような強さを持った
個人的思い。

もう強引に、自分の主張したい方向に
いくというのが、ぼくの小説なんですね。
「それは科学ではこうわかっているから」
とか、ふつうに正しいと言われている程度の
ことからなんて、何も出てこないと思う。

じつはその「何も出てこないところ」が
科学の真骨頂で、
それはすごく重要なことなんだけど、
科学を信奉している人たちは
その底知れない怖さがわかっていない。

科学の圧倒的な不毛さによる可能については
別の小説に書きたいと思うんだけど、まずは、
「一般的に言われている正しさ」を
打ち破ったりしないかぎり、
小説に限らず、表現全般に
新しいものは出てこない
という立場を
誰よりも強く押し進めることにしたんです。
もう一方にある
科学の圧倒的な不毛さも、すごく大事なんですよ。
科学の側につく人は
夢なんか持ってはいけないということの徹底は
それはそれですごいことなんだけど、
今は長くなるからやめておきます。

ぼくは日常しか書かない作家と
最初の作品から言われてきたでしょ。
だけど、ぼくは最初から、日常はかりそめの姿、
みたいな登場人物を書き続けてきたんです。
ちゃんとした日常生活を送れていないけど、
でも、いろいろなことを考えている。
そういう人物を書いてきたんだと思うんだよね。
 
(つづきます!)

2003-07-23-WED

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