挿絵の 地図の 絵本の雑誌の ロゴの 写真の宣伝の 先輩の お家のパリの 東京の 旅人の   堀内さん。──デザインを旅したひと。──
雑誌の堀内さん。

これは雑誌an・an。


そしてPOPEYE。


これはBRUTUS。

いまも書店にならぶ、おなじみの雑誌です。
もう一昔もふた昔も、いえ、半世紀?
それほどの時間が経っているというのに、
このみずみずしさ。
堀内さんのロゴがずっと使われている、
というのもその理由でしょうが、
そもそも「ずっと使っていて古びないロゴ」を
つくったということがすごい!
‥‥という話はいずれ「ロゴの堀内さん」で
お届けしようと思いますが、
これらの雑誌の「生みの親」のひとりが、
アートディレクターで
エディトリアルデザイナーとしての
堀内誠一さんでした。

an・anは1970年創刊。
当時「平凡出版」だった、
現在のマガジンハウスから発行されました。
いまから半世紀近く前に創刊され、
その当時、みんなをびっくりさせた雑誌です。

その頃をよく知るある女性いわく
「まだ小学生だったのですが、
その新しさはわたしにもわかりました。
うんとお姉さんが読むものだという気がして、
手に取るのをちょっとためらったほどです」と。

そりゃそうですよね、
写真やイラストをふんだんに載せた
ヴィジュアル中心の、大きいサイズの誌面に、
ファッションページはこんな(!)だし。

▲創刊3号の「ティーシャツ イン イル・ド・フランス」というファッション特集。

▲創刊4号の見開き。「LA MER 海へいこう」というタイトル。
an・anのファッションルームで「海の特集」を準備中、というフォトストーリーが、
そのままファッション紹介になっているという、メタフィクション的な構造!

かと思えばこんな記事があったり。

▲an・an創刊3号ではアンディ・ウォーホルを撃った女性がつくっていた
S.C.U.Mというグループを紹介。とてもジャーナリスティック。

ときには横尾忠則さん、篠山紀信さんと組んだ
こんなページも。

▲創刊7号。横尾さんの出身小学校を訪ねて当時の担任の先生と撮影。
これが女性ファッション誌のページなんです。

デザインの遊びもたっぷりで、
こんなふうに見開きを使っちゃうし。


▲創刊2号に載った、an・anのファッション編集室が
六本木で始まったという記事。
新しいものが生まれる瞬間をそのままページにしているんです。

毎号のように登場する海外ロケ、
チャーミングで個性的なモデルたち。

▲創刊5号。香港のいなかでファッションページのロケ!

▲創刊10号。この女性はこの号でレギュラーとして初登場の
モデルの「リサ」さん。このとき18歳。そう、のちの「秋川リサ」さんです。
▲33号のロケ地はパリ。
高田賢三さんのファッションページ。かーっこいーっ!
▲42号ではルーマニアの結婚式を取材。ほんとうに海外に行くなんてうんと敷居が
高かった時代に、しかも、ルーマニアって!(きっと取材もたいへんだったと思います。)
▲216号は次号からリニューアルというタイミングで「さよならアンアン」特集。
堀内さんは海外ロケを振り返ってこんなページを。

次のページでは何を見せてくれるのだろう?
そんなワクワク・ドキドキがありました。
もちろん、いまこうして見ても、
全く古びていないし、とても刺激的です。

スタイリスト、イラストレーター、エディター、
カメラマン、ライター、デザイナーといった
“横文字”の職業が知られるようになったのも、
an・anからでした。

この雑誌をまるごと、
フルコースの料理を構成するように
つくった堀内さんですが。
アートディレクターとしては、
2年ほどで離れることになります。

その後パリに移住した堀内さんは、
パリのことや、パリからでかけた旅のようすを
an・anに連載することになります。
(このおはなしは、また、べつのところで)

an・anが、女の子たちをドキドキさせたように、
男の子たちがあらそうように読んだのが、
最初は「メンズan・an」という
肩書きのついていた雑誌、
POPEYEです。
1976年の創刊号は、
ロゴや表紙のイラスト、
全体のデザインコンセプトだけでなく
冒頭のページはすべて堀内さんのデザイン。
ヨーロッパではまだ高級品だった
アメリカのスニーカーを履いている元気な少年の
落書きのイメージだったとのことです。

パリから一時帰国した堀内さんは、
ほんの数日ですべてのページデザインを決め、
表紙もロゴデザインも、つくってしまったといいます。

堀内さんの仕事のように、スピード感にあふれ、
おしゃれで活溌でクレバーな男の子の雑誌。
判型もほかにないものだったし、
持っているだけでかっこよかった。
POPEYEは、それまでの男性誌になかった、
「シティボーイのための
ライフスタイル・マガジン」というジャンルの
さきがけとなったのでした。

そうそう、カリフォルニアという場所を知ったのも、
スケボーなんていう面白い遊び道具が
あるのを知ったのも、
ダウンベストを街で着ちゃおうと提案したのも、
みんなPOPEYEでした。
大衝撃だったんだから! いなかの子には!

POPEYEの創刊から4年、1980年に、
もうすこし大人が手にする雑誌としてつくられたのが、
BRUTUSです。

堀内さんは創刊号から7年間、
つまり亡くなるまで、アート・ディレクターであり、
そのあいだには、断続的に
表紙のデザインや、
ときにはイラストレーションも手がけました。

▲BRUTUS創刊号のファッションページは、「ビジネスマンのための旅行のファッション」
なんですけど、もうかっこよすぎちゃって、なにがなんだか。

▲同じく創刊号。Los Angelesのビジネスマンのオフタイムはこうだよ、というページ。

イタリア特集号や中国訪問記など、
堀内さん自身が取材したレポートには絵や写真を、
また雑誌の後ろのほうにあった
Brutuscopeという連載ページには、
原稿があがってくるとイラストをつけていたとか。

▲22号掲載の中国レポート。3見開きを使って堀内さんのイラストと文章によるレポートが。

▲時々掲載されていた堀内さんの「安酒修業」というコラムページ。
この54号ではイタリアのシチリアをレポート。
ちなみにほかにもパリ編やオーストラリア編がありました。

▲64号のイタリア特集でも堀内さんが大活躍。この絵はシエナの市庁舎前広場。


国内、海外のロケに同行し、
ページデザインをし、絵を描き、文章を書く。
堀内さんが、好奇心のおもむくままに
やりたいことをやった、
そんなふうに思えるのがBRUTUSです。
ユーモアとダンディズム。
おとなの遊びごころをおしえてくれる、
上質な教科書を、堀内さんたちはつくってくれました。

当時の少年たちにとってのBRUTUSは、
POPEYEで練習していたとはいえ、
あまりにも大人っぽく、
いまで言うと「無理!」なんて思ったものでした。
(これがぴったりと来る大人の男っていたのかな?
いたんだろうなあ、都会には‥‥。)
しかも「ただの大人じゃない」感じがするので、
地方の書店の雑誌コーナーでは
ほかのメンズファッション誌とは
まったくちがう空気を出していましたっけ。
ぼく=武井は、この雑誌を
すごく背伸びして買っていたのを覚えています。

▲198号のファッション特集、いまも続く「スタイルブック」の号。
なんと、植田正治さんに撮影を依頼しています。

‥‥うん、今見ても、これはすごいや。

では、堀内さんは、
どんなふうに雑誌にかかわってきたのでしょうか。
手がけた雑誌をたどりながら、
すこし時代をさかのぼってみましょう。
(すみません、今回、長いですね。)

an・anには、その前段階として刊行された
『平凡パンチ女性版』がありました。


堀内さんはその創刊から
an・anにいたる準備期間の約2年間、
アートディレクターをつとめました。

▲この号には、のちにan・anのキャラクターとなる「パンダちゃん」の候補がずらり。
いろいろなイラストレーターが描くパンダのなかから、投票で選ばれたのが、
大橋歩さん描くパンダでした。ちなみに平凡パンチの表紙はずっと大橋さん。
その世界観を引き継いだのがan・anだったのでした。

▲これは、an・anのテスト版。まだタイトルも決まっていなかったとき、
広告出稿をお願いしたり、いろんなところに「こういう雑誌をつくりますよ」
と宣伝するためにつくられました。
中の記事はありませんが、「こんなデザインで、こういう趣旨の雑誌です」
ということを伝えるのに、じゅうぶんなものでした。

そのころ堀内さんが所属していたのは、
「アド・センター」です。
1957年にできたデザイン会社で、
堀内さんはその設立メンバーのひとりでした。
ここで堀内さんは、企業広告やパッケージのデザイン、
雑誌のアートディレクションをしていました。

このころの代表的な仕事が、
『週刊平凡』の「ウィークリー・ファッション」(1959年〜)、
それに続く『平凡パンチ』の
「パンチ・メンズモード」(1964年〜)という、
ファッションページのディレクションでした。
カメラマン立木義浩さんとのコンビでつくられた
斬新なページは、
のちに男性ファッションの金字塔ともいわれます。

アド・センターよりさらに前、1955年に創刊されたのが、
千代田光学(のちのミノルタ)のPR誌
『ロッコール』です。
堀内さんは創刊号から3年後の最終号まで、
アートディレクションを担当しました。

この『ロッコール』の表紙のかっこよさ!
60年も前のものとはとても思えない。

誌面レイアウトにも堀内さんらしさが出ています。

このとき、堀内さんがつとめていたのが、
新宿伊勢丹百貨店、いまの伊勢丹新宿店の宣伝課。
堀内さんは、14歳という若さで
伊勢丹に就職したのです。

そのあたりのおはなしを、
もっと前の時代、堀内さんの生まれから、
次回、「東京の堀内さん。」で
たどってみることにしましょう。



世界で一番大好きな絵本が、
「ほりうちせいいち・え」です。
兄の絵本は全部大事にとってあって、
団地の他のお家からお下がりをたくさんもらって、
こどものともとかがくのともは毎月届く、
絵本に囲まれたしあわせな場所で育ちました。
綺麗な絵も、怖い話も、
英語の絵本なんかもあったりして、
たくさん、たくさん読んだ中で、
一冊だけの特別な本が、
『てんのくぎをうちにいったはりっこ』。

うまく伝わるかわからないのですが、
描かれていないシーンを見たことがあるというか、
全編を、動画で読んでいた記憶があるんです。
ばあちゃんの炊くおかゆから
ほんのりあがる湯気とか、
駆け抜けるおおかみの毛のゴワゴワさ、
呼吸の荒さ、
天につながるハシゴが
風で揺れるたびにヒヤヒヤしたし、
抜けそうになっているてんのくぎが
どんなに不安定に揺れるか、
落ちてきたはりっこの重さで、
丸太小屋の屋根がどれだけきしんだか、
そんな描写も挿絵もないのに、
全部知っているんです。
付け足されたシーンは、私の勝手な想像の産物で、
どれだけリアルでも、
実際にはないものとわかっているんですが
「てんのくぎをうちにいったはりっこ」を読むと
あのドキドキするはりっこの冒険の、
「ここ!」という名シーンが
全部挿絵になって残っている。
そんな感覚になるのです。

なんでこの本だけ
こんな不思議な感覚になるんだろうと
ずっと不思議なのですが、
「ファンタジーのおもしろさ」
「遊び」
そういうことがわかっている方の
挿絵だったからこそ、
私のはりっこの冒険はこんなに
リアルで色鮮やかなのかもしれませんね。
絵本の堀内さんしか知らないので、
他のいろんな堀内さんに触れられるのが
本当に楽しみです。
すごい人なんだろうなぁ。

(北の庄)


協力 堀内路子 堀内花子 堀内紅子
取材 ほぼ日刊イトイ新聞+武田景

2016-11-02-WED
© HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN