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ほぼ日刊イトイ新聞

2024-03-29

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・感じる、思う、考える、する。
 そういうことを人はしている。
 すべて品詞としては動詞である。
 ま、「be」も「在る、居る」という動詞だから、
 この世にひとたび生まれてからは、
 人はずっと動詞の連続である。
 眠るも動詞だし、気を失っているも動詞だけど。

 ある人の一生がどういうものだったかについては、
 まずは動詞で綴られることになる。
 いちばん少ない記述としては、「生まれた、死んだ」。
 「生まれた、子をなした、死んだ」も多かったろう。
 人でなく、昆虫やらいろいろな生きものだと、
 ほんとうに「生まれた、子をなした、死んだ」となるが、
 人間の場合には、戦っただとか、井戸を掘っただとか、
 耕しただとか、いろんなことをしているものだ。
 その人の一生は、そういうふうに、
 じぶん以外の自然(人も含めた)に対して、
 はたらきかけたことでおぼえられていくものだろう。

 では、「感じる、思う、考える」というような、
 じぶんひとりでじっとしていながらの動詞は、
 どういうものなのだろうかねぇ。
 ずっと無口で黙々と働いていたような人が、
 「ほんとうはいろいろなことを考えていた」としたら、
 その考えとはその人にとって、なんだったのだろう。
 同じように、「ほんとうに、あんまり考えてなかった」
 という人がいたら、それはそれで悪くないように思う。

 一説によれば、現代の人が1日に触れる情報量は、
 江戸時代の人たちの一年分、平安時代の一生分だという。
 たくさんの情報を浴びていて、たくさん反応していると、
 なんだか「いっぱいなんかやった」ような気になるけど、
 実はほとんど「じぶんの生を生きていない」かもしれない。
 自然(人を含む)にはたらきかけていたことだけが、
 その人の人生であるのではないだろうか。
 無口でも、ほんとうはあんまり考えてなくても、
 せっせと耕したり、ずっと店番をしてたり、
 こどもやら大人の遊び相手をしていたことは、
 ぜんぶ、その人のりっぱな一生になっていると思う。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
なにを言ったかではなく、なにをしたか。それがその人だ。


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