北斎先生!
第七回
75歳から90歳までが北斎の最晩年です。


ほぼ日 こういう竜巻を描いたりするのは
読本の挿絵を描いていた時期に
文章からいろいろ空想を働かせて
挿絵を描いていた
影響もあるんですかねえ。
永田 まあそうですね。
北斎は読本の挿絵で
売れっ子作家になっちゃったんだから、
一生、読本やってたら
食っていけたんですけどね。
ほぼ日 がんがん食っていけたんですよね。
永田 でも、すぐ辞めちゃうんですよ。
どんどん、どんどん。名前も変えちゃうし。
ほぼ日 例えば、『北斎漫画』では
どういう名前なんですか。


伝神開手 北斎漫画
浦上満蔵

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永田 この時は「いいつ」っていうんですね。
ためいちって書くんですよね。
何々の為の為一って書いて
「いいつ」と読みます。

北斎改め為一と表記されてますよ。
75歳の『画狂老人卍』というのが、
北斎の最後の号です。

74歳までに
『赤富士』のような作品を出したんです。
この時期には、『錦絵』、
『冨嶽三十六景』46枚、
『諸国巡り』、『名所一覧』、
それから『雪月花』だとか
『花鳥版画』だとか、
ものすごい数の版画を
この時期に集中して出します。


鴬 墨桜
東京国立博物館蔵

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そういうこともあって
我々が一番よく知ってる北斎は
70歳から74歳の間ということになるわけです。
75歳になった北斎は、
『富嶽百景』という本を出します。
これは、薄墨で描かれた
色はそんなについてない本です。
百景とタイトルにはついてますが
3冊の本で102図の富士山を描いてます。

この本の中で北斎は
「自分が50歳よりも前に描いたもので
 とるに足りるものはない。
 70歳になってやっと、
 鳥や獣の骨格や、植物が
 どうやって生えてくるかってことがわかってきた。
 だから、もっと努力をすれば、
 もっと色んなことがわかってくるだろう。
 90歳になったらどこまでわかる、
 100歳になったら、
 自分は神の業に入るほどやるんだ。」
というようなことを書いてるんですね。

そこからが北斎の最晩年なんですよ。
75歳から90歳までが北斎の最晩年。
この時期の北斎は
浮世絵師としての仕事を
辞めてしまったような印象があります。

浮世絵の浮世というのは
現実的な社会という意味なんですね。
現実的な社会というのは、
お相撲さんや花魁や芝居であるとか、
そういうものを描くのが浮世の絵なんですね。
そういうものを描かなくなっちゃうんです。

この時期の北斎は
日本や中国の故事古典に基づくもの
宗教画的なもの
そういうものに北斎は
どんどんどんどん入り込んでいく。
絵手本を除いては
木版の世界から段々遠のいていく。
ですから、75歳以降の北斎は
浮世絵という一つの分野だけでは
あてはまらない存在になるんです。

北斎は1849年の4月18日に
90歳で亡くなりますが
あと5年か10年生きれば
北斎がいうところの
本当の絵が描けるという直前に
亡くなったわけです。
簡単に言いますと
そういう生涯ですよ。
ほぼ日 これまで北斎の生涯を駆け足で
教わりましたけど
70歳からどんどん凄くなっていくんですね。
永田 そうですね。
晩年の作品を見てると
なんか怪しいものが潜んでるんですよ。
ただの絵じゃなくて、
後ろに何かがいるぞって感じの絵なんですよ。
ほぼ日 なるほど。
40代に描かれた『潮干狩図』と比べると
明らかに違いますね。


潮干狩図
大阪市立美術館蔵

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永田 違いますよ。
ただ、これだってすごいんですよ。
近景部分は中国の宋や元から来た
墨絵の山水画の描き方、
漢画という描き方なんですよ。
人物などは従来の日本的な描き方で、
遠景部分は油絵のテクニックなんですよ。
ほぼ日 えーっ?
永田 つまりひとつの絵の中に、
中国も日本も西洋も
全部入れて描きこんでいるんですね。
そういうことは
この人しか出来なかったですよ。
近代に入ってからは
出来たかもしれないけど
少なくとも江戸時代には誰もやってない。
ほぼ日 鎖国時代ですから
西洋の文化に対して
江戸幕府からの統制もあった時代ですよね。
永田 ただね、油絵を描いてる人もいたんです。
当時、油絵を描くということは秘伝でね、
誰にも伝えなかったんですよ。
これは壮年期の作品ですが
北斎はとっくにそういうものを
マスターしている。
普通、司馬江漢にしても
油絵ならば油絵っぽいものしか
描けなかったのですが
北斎は油絵の中に、
日本的なものも中国的なものも
違和感なく混ぜちゃうっていうことは、
やってるわけですよ。
ほぼ日 とんでもない人ですよね。
永田 とんでもない人ですよ。この人は。
だからまだまだ
北斎認識っていうのは足りないですよ。
繰り返すようですが
だから今回の展覧会では
まんべんなく見せるってことが、
一番大事なことだと思うんですよね。
ほぼ日 一気に北斎の生涯をうかがったわけですが
先生が一番お好きな時期とか、
個人的にあったりするんですか。
永田 私はみんな好きですからねえ。ええ。(笑)

(続きます)

永田生慈(ながたせいじ):
1951年島根県生まれ。
太田記念美術館副館長兼学芸部長、
葛飾北斎美術館館長。
著作に『北斎漫画』『葛飾北斎歴史文化ライブラリー』
『北斎の世界―Hokusai』『物語絵北斎美術館』他多数。
2005-10-31-MON
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