SHIRASU

<ほんとうの掘だし物とは>

最近、『骨董夜話』という本を読みました。
この本は、骨董について書かれた
白洲さん他6名の方の連載を、
まとめて一冊にしたものです。

7名の方が、毎回「これは」と見込まれた骨董を
取り上げていらっしゃる故、
語り口が、とにかく熱い、熱いのです。

この壷のここのところが、こんなにいいんだよ、だとか
誰それさんのところにあったんだけど
今じゃ、私のところにあるんだよ、へへん、だとか
臆面なく想いの程を語っていらっしゃるのです。
(注:文中、一部に脚色がございますことを
 お断わりしておきます)
 
『骨董』という大層な言葉や立派な装丁に
すっかり気をとられていた私ですが、
読み進めるうち、思わず笑ってしまいました。

なぜなら、この本まるごと一冊、
ノロケ話で、できていたからです。

みなさんも、あいつがあんなに熱く語るのだから
の理由で、何かに目を向けられた経験が
おありではないですか。
世の中のかなりのものは、
熱い語りに意外と動かされているんじゃないの
と思う私ですから、
ノロケおおいに結構、そう思って本を閉じました。

ん?

なんの疑問も持たず、
すんなりノロケと受けとめましたが、
よくよく考えてみると
ものである骨董にノロケるなどということ自体が、
既におかしい気がします。

これまで骨董については、
極めて特殊な世界観の中で成り立つものなんだろう
ぐらいの考えしか持ち合せていませんでした。
ですが、どうやらそういうものでは、ないようなのです。

7名の方の熱い語り口調の中にこそ、
なにか、骨董を捕えるべく大きな秘密が
隠されているのではないか、
骨董とは、もともとノロケさせるものではないかと、
ここでようやく気づいたわけです。

白洲さんはそこのところ、
どう思っていらっしゃるのでしょう。
早速、白洲語録を紐といてみることに致しましょう。

やっぱり、ありました。ありました。
「骨董自身が人間的なものだから」
これって、そのままズバリの答えじゃないですか。

白洲さんは、こうもおっしゃっています。
「ひと眼でわからなくとも、持って、使って、
 一緒に暮らしている間に寡黙な人間が口を開くように
 次第に様々なことを語りはじめるからだ」

ですから、白洲さんは、
人を語ると同じに、骨董にノロケておられたのでしょう。
きっと。

寡黙というか、無口というか
相手は貝よりも口を閉ざしているわけですから、
質問しても行ったきりで回答をもらえることすら
期待できないところです。
その相手の口を開かせ、次第に様々なことを語らせるには、
来る日も来る日も忍耐強く問いかけることだけが、
唯一の手段のように思えてきました。

結局、ものに対してでも人に対してでも
同じことなのではないのでしょうか。
対象そのものを見るというよりは、
映し出された自分自身を見つめるための
対象は鏡の役割をはたすのだろうと思います。
よく磨かれた鏡が
はっきり像を映し出すのと同じように、
より自分を知るためには、
何に映してみるかも大事なポイントになってきます。

失礼な言い方になるかもしれませんが、
そういう点で見れば、
私にとっての白洲さんは、
骨董そのものであるのかもしれません。

「ほんとうの『掘りだし物』とは、
 物に即して、自分の眼を、
 心を掘り出すことではないか」

いつか、私も白洲さんのように
董を熱くノロケられる日がくるでしょうか。
もしその日がやってきたら、
今よりもっと、
白洲さんとお話ししたくなるに違いありません。

核心に触れる白洲さんの言葉を引用させて頂いたところで、
今日のところは、おしまい、おしまい。

2000-09-08-FRI
SHIRASU
戻る