SAITO
もってけドロボー!
斉藤由多加の「頭のなか」。

──夏休み特別篇──
中学生のための
ゲームクリエーター講座


最終回 ゲームの功罪



ゲームは諸悪の根源か?

「薔薇の名前」という映画がありましたがご存知ですか?
記号論者であるエーコの原作をもとに
ショーン・コネリー主演で映画化したものです。
この映画の舞台となる中世の教会では、
「書物」を厳しく規制しています。
教義に反する知識が広がり
世の中が堕落することを恐れてのことです。
中でも教会が恐れていたのは「笑い」でした。
「笑い」は人を堕落させる‥‥。
「笑い」は教会の権威を堕落させる‥‥。
当時、唯一のメディアである「書物」は、
一冊づつ写本されるとても高価なものでしたから、
実際に一般の民が知識を享受できるのは、
グーテンベルクの活版印刷の登場を待つことになります。
教会の意図とはうらはらに、
それから数百年という歴史の中で、
「書物」も「笑い」も全世界に広まりました。
皮肉なことに世界で最も普及している書籍は
聖書だそうですが‥‥。

ゲームの時代

社会は常にあたらしいメディアの登場に警戒しながら
歴史を刻んできました。
近代では
「マンガを読むと、勉強ができなくなる」
「テレビは子供の思考能力を低下させる」
「ワープロのおかけで漢字がかけなくなる」
まるで「2001年宇宙の旅」のモノリスのように、
それまでの価値観は
めちゃくちゃにされてしまうのではないか、
そういった警鐘はいつも鳴らされ続けてきましたが、
現実はというと、常に人類はメディアとともに
うまく共存し社会をつくってきました。
そしていまインターネットや携帯ゲームの時代。
ゲーム脳という言葉が生まれ、
ゲームやコンピューターは
青少年を犯罪へ導く入り口のように
表現されることも少なくありません。
果たしてゲームは、あるいはコンピューターは
社会の敵なのでしょうか、
それともあたらしい進化をうながす
モノリスになり得るのでしょうか?

「難解なこと」は本当に難解なのか?

こちらの連載にも何度か紹介してきましたが、
1993年に、「タワー」というゲームを発表しました。
エレベーターの群管理をモチーフにしたゲームで、
全世界で人気を博しました。
私は、大学では建築を専攻していました。
いま当時の専門書を開いてみても
「エレベーターの群管理」なんてものは、
実に難解なものです。
本にすること自体に
無理があるのではないかと思えるくらい、難解です。
数ページ読んだだけで頭が痛くなってしまう。
それはなぜかというと、
ものの動きを書物は表現できないからです。
それを無理やり文字と数式で表現すると、
「難解な専門書」となってしまいます。

縛りからの独立

文字はもっとも基本的な表現手段です。
法も文字で記述されています。
学校教育も紙で出題&回答されることを前提に
繰り広げられてきました。
そういった環境の中で育った私たちは
文字をついぞ万能と思ってしまいがちです。
しかし実は、世の中は、
文字では表現できない情報で溢れています。
人類はなんとかそれらを記述して伝達しようと
様々な試みをくり広げてきました。
音符、ダンスのステップ、星座の配置、
ギターのコード、鉄道のダイア、英語の発音記号‥‥、
文字では表現できないものへの取り組みこそ
文明の歴史ともいえます。
表現しようとすると、
そこには必ず失われるものも出てきます。
何ごとも、すべてを記述することは絶対に不可能ですから。
しかし、すべてではないからこそ、
なにかに特化し最適化する表現があるのだと
私は思います。

★  ★  ★  ★  ★  ★  ★

著名な編曲家がこんなことをいってました。
「バッハの曲は音符として残っているが、
 当時のサウンドは誰も知らない」
音符として記述されたものが残っているからこそ
私たちはバッハの作品をいま楽しむことが出来ます。
が、同時に、その音色に関しては
何も情報が残されていないので、
当時の環境などから推測して
その楽曲を演奏をしているにすぎない、という意味です。
そしていまは技術の進歩で
音色も記述できるようになりました。
コンピューター技術に依存している分、
学生たちの楽譜記述へのリテラシーが低まったと
嘆く先生もいますが、
紙というメディアに固執していたら
なし得なかったことが多々あるのも事実です。

コンピューターができること

私がコンピューターというメディアに
魅せられているのは、
それまで不可能だった時間の記述が
可能になったからです。
それによって、ものごとをよりいきいきと
わかりやすく表現できることが可能になりました。
絵本でさえ難解だったエレベーターの動きも、
画面上で操作できるようになった瞬間、
たくさんの人に受け入れられました。



エレベーター群管理に限らず、
現実に存在する事象というのは、
どれもとても興味深いものばかりです。
多くの人に興味さえ持ってもらえれば
新しい才能によって
もっともっと開拓される分野がたくさんあります。
それを中世の教会のように難解な世界に
押し込めてしまうことは、
知の「機会損失」だと私は思います。

仮想と現実

昨今、ゲームやコンピューターの影響で
青少年の現実と仮想の区別がつかなくなってきている、
という議論があります。
ひとりの大人として、果たして本当にそうなのか、
と自問自答することもしばしばあります。

ディズニーランドの「スターツアーズ」という
アトラクションがかつて話題になりました。
これは映像にあわせて観客席が動作するもので、
映画「スターウォーズ」さながらに
宇宙飛行をリアルに疑似体験できる、というものです。
いわゆるバーチャルリアリティー(仮想現実)の
応用例として脚光を浴びたものです。
しかし、実際の宇宙には重力はない。
このアトラクションで体験できるのは、
アポロ11号の飛行士が体験した無重力の宇宙ではなく、
「スターウォーズ」に登場するいわば偽者の宇宙です。
つまり観客がここで擬似体験するのは、
仮想世界ということになります。
いつのまにかリアリティーと
バーチャリティーが逆転しているのです。
バーチャルリアリティーではなく
「リアル・バーチャリティー」です。
スターツアーズの何百万人という動員数に対して、
実際の宇宙旅行を体験した人類の数は
ほんの一握りですから‥‥。

★  ★  ★  ★  ★  ★  ★


つまり地球上では「架空」の宇宙を体験している
人口のほうが圧倒的に多いことになります。
私にとって、「架空と現実」という問題は、
新しいメディアが登場する際に必ず現れる、
いわば人類にとっての知恵熱のような
現象のように思えるのです。
なぜならば、人類はやがてはかならず、
ワンステップ賢くなって、
そういったメディアと共存してきたからです。
この変化そのものが、
いわゆる精神の進化ではないか、とさえ思うのです。

自分自身を振り返れば、
自分の知っている知識のほとんどが
メディアを通じて知りえたことだということに気づきます。
もしメディアがこの世になかったら、
私たちは動物のように半径20mの視界の中で
起こったことしか知りえないことになってしまいます。
情報というのは、たとえそれがニュースであっても、
記述され、編集され、メディアを経由するたびに
誰かの手によって加工される宿命にありますから、
嘘とはいわないまでも、少なからず変質するものです。
その情報をどう解釈するか、は
すべては受け手にゆだねられることになります。
アポロの記録映像と、スターウォーズの宇宙映像は
画面上で見る限りは等価であり、
どちらが事実でどちらが架空か、を判断するのは
あくまで受けて側の役割となってきます。
コンピューターというメディアも、
あるいはそれを利用したゲーム表現も、
社会がその独特な文法をマスターするまでに
しばらく時間がかかるということだと思います。

ゲームの功罪

日本はゲーム大国です。
映画におけるハリウッドのように、
ゲーム表現における文法の多くは日本が作り、
それが基本となって世界に影響を与えています。
チャップリンから
ヒトラーのプロパガンダ映像に至るまで、
映像という表現手法が20世紀に与えた影響は
計り知れません。

ゲームも同様です。
とてつもない可能性を持っている
「コンピューターゲーム」という表現手法が
未来の人類の伝達手段をさらに拡大するものなのか、
それとも指先の器用さを競うだけの
不毛な遊びに終わるか、
それは、作品をつくる表現者の肩に
かかっていると思います。

たしかに、これまでゲームセンターでは
「殴り合い」や「撃ち合い」といった
過激な表現のゲームが目立ってきました。
一時的な過激性に依存する作品が
多々あったことは業界として反省すべき点だと思います。
高校生の頃、サッカーの練習で
一日中センタリングの練習をしていたことがありました。
その頃の私の脳は、
「センタリング脳」になっていたと思います。
ひとつのことに熱中して
おなじ行為ばかり繰り返していると、
脳は一時的におかしな状態になります。
イーグルスのギターソロを
連日練習しつづけていた時の私は
「ギター脳」になりました。
オリンピックに出場しているスポーツ選手たちは
練習などで少なからず同じような経験を
してきているのではないでしょうか。
そういった状況に“ゲーム脳”という
名前がつけられてしまったことは実に遺憾です。

もし、ゲームという手法が
本来の可能性から離れたところで
誤解を招いているとするならば、その理由は、
オリジナリティーを過激表現の激化の中にのみ
進化を見いだそうとしてきた
私たちゲーム業界自身に
原因があるのではないかと思うのです。
しかしだからといって、コンピューター表現、
あるいはゲーム手法は、
その技術や手法そのものを封印してしまうには、
あまり惜しい可能性を秘めている、そう思います。

映画や音楽がそうであったようにゲームも、
多感な青少年にとって
人生のヒントとなり得る表現でありたいと私は思います。
そのためには、「ゲームっていったい何なの?」という、
ごくごく基本的なところから
話し合う必要があると思いました。
今回で最終回となる
「中学生のためのゲームクリエーター講座」は、
そんな可能性とゲームとの付き合い形を
すこしでも理解してもらえれば、とはじめた連載です。
今回で連載はいったん終了しますが、
また機会があれば、より深いところまでお話しできれば、
と思っております。

斉藤由多加さんへの激励や感想などは、
メールの表題に「齋藤由多加さんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ろう。

2004-09-09-THU

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