hawaii
ほんとうにほんとのハワイ。

■Vol.16 Olelo Hawai'i
 Hawaiian Language Part1

ハワイに初めて西洋文化をもってきた人、
キャプテン・クックがハワイを訪れたのが1778年。
それは、ハワイの変化の始まりでもありました。
西洋文化の影響は、生活習慣や伝統芸術だけでなく
ハワイの言葉にも変化をもたらしました。

キャプテン・クックが初めて
ポリネシア諸島に来たのは1769年のことです。
彼は、宗教的ないざこざが原因で
最終的にはハワイで殺されてしまいましたが、
そのときまで、3度にわたり太平洋を航海し、
意欲的に島々をまわって
数々の興味深い記録を残しました。

彼が最初に訪れた島はタヒチでした。
美しいタヒチとその文化に心を奪われたクックは
3ヶ月の間そこに滞在し、
まずタヒチの言語を学んだそうです。
それから彼はほかの島々へ出かけたわけですが、
そこで思いがけない事実に出くわすことになります。
なんと、タヒチから数千マイルも離れた島々で
彼の覚えたタヒチ語が通じたのです。

確かに、ハワイ、タヒチ、ニュージーランド、
イースター諸島の言葉は非常に似ています。
たとえばそれぞれの島の人間が集まり
自分の言語を話したとしても、お互いに理解ができ、
ちゃんと会話が成り立つほどです。
また、サモアやトンガも、
前述の島々ほどではありませんが
やはりとても似た言葉をもっています。
それらの島を世界地図でたどってみると、
その巨大な広がりに、
やはり誰もがびっくりするはずです。

クックは、それをとんでもない発見だと直感しました。
“地球の約4分の1を占めるほどの大海原に
 点在する島々が、ほとんど同じ言語をもっている。
 いったいこれをどう説明すればよいのだろう”
そのときの衝撃を、彼は航海日誌のなかで
このように記しています。
彼は各地を回った経験と知識から、
ポリネシア人は古くはアジアから渡ってきた
ひとつの民族だったのではないかと推理しました。
当時、その仮説はあまりにも突飛だったため
誰も信じなかったそうです。
ところが、現代になって研究が進み、
真実にもっとも近いだろうということで発表された説が、
なんと、クックの推理と同じ。
言語からインスピレーションを受け、
ポリネシアを“同じ文化圏”としてとらえた彼の
鋭い洞察力には驚かされます。


ハワイの画家ハーブ・カネが描いた、
キャプテン・クックのハワイ来航のシーン。


クックの後、次々と西洋人が
ハワイに渡って来るようになります。
とくに1820年ごろやってきた伝道師たちは
ハワイに大きな影響を与えました。
伝道師たちはハワイに読み書きが必要だと考え、
ハワイ語にアルファベットを当てはめて
読み書きする方法をハワイ人に教え始めたのです。
ところが、伝道師たちは
言語について専門的な知識があったわけではないので、
ハワイ語のtとk、lとr、bとpの音の違いを
聞き分けることができませんでした。
彼らの作業によって、ハワイ語の発音がすべて
アルファベットに置き換えられたわけですが、
結局使われたアルファベットはたったの12文字。
母音のAEIOUと、
子音のHKLMNPWだけだったのです。

そうして筆記のシステムができあがり、
そのためにハワイ語の発音も
文字がなかった頃とは
少しずつ違うものになってきました。
ハワイ語にあったrの音は、
もともと日本語のラ行の音によく似たものだったのですが、
それが、Honoluluのようにlで表記され始めてから、
ハワイ語本来のr音は完全に消滅してしまいました。

ハワイ人はとても勉強熱心だったらしく、
筆記を習い始めてたった数年ほどでハワイは世界でも
文盲がもっとも少ない国のひとつとなったそうです。
19世紀の半ばから終わり頃になると、
筆記のシステムは政府の機関や裁判所、
学校などで使用されるようになり、
あっという間に読み書きは
ハワイの人々の生活になくてはならないものとなりました。

しかし、1893年にハワイの王政が
廃止されたのをきっかけに、歴史あるハワイ語も、
瀕死の危機にさらされることとなります。
アメリカ人による新しい政府は、
まずすべての公立の学校での
ハワイ語の使用を禁止しました。
ハワイ人は古くから、言葉には魂が宿っていると信じ、
言葉はそれ自体パワーを持っていると思っていたので、
新しい政府は逆に、ハワイ人から言葉を奪えば
力を失いコントロールしやすくなると
考えたのかもしれません。
このアメリカによるハワイ語への抑圧は
1898年の合衆国併合からさらに
20世紀まで続きました。
私の祖母の少女時代でも、
学校でハワイ語を話しているのを先生に見つかると、
罰として棒で打たれたそうです。
自分の国の言葉を話すことも許されない。
ハワイにはそういう悲しい時代があったのです。

そうしてハワイ語を話せる人は
ほんのわずかとなってしまいましたが、
それでも、完全に死に絶えたわけではなかったのが
せめてもの救いでした。
年月が過ぎ、1978年になって再び
ハワイ人のアイデンティティが復活したとき、
なんとハワイではハワイ語が英語と同等の
オフィシャルな言語としての地位を取り戻したのです。
しかしそのときにはもうすでに、
ハワイ語を話す人が少なくなっていたので
事実上のオフィシャル言語にはなりませんでした。
大切なのは、“生きている言葉”として
取り戻すことだったのです。

そこで、ようやく1987年に
ハワイ州は学校でのハワイ語教育に取り掛かりました。
さらに1990年には、アメリカ政府から
ハワイ語を守る政策が打ち出されました。
ハワイ人は、とても永い年月をかけて、
自分たちの言語を話す権利を
やっと手に入れたわけです。

いま、ハワイの学校や、州の機関、印刷物、
それに音楽など、あらゆるところで私たちは
ハワイ語に触れることができるようになりました。
“Year of The Hawaiian Language”として、
無料のハワイ語学校を開設するなど
数々のイベントや催しを行った1996年は、
ハワイ語にとって記念すべき年でした。
「ハワイ語という独自の文化に敬意をもつように。
 ハワイ人が、美しいハワイ語を
 かつてのように話せるようになるために」
その思いで、人々の心は
ひとつになったように感じられました。

ハワイ語は、世界中でただひとつ、
ハワイだけに存在する言葉。
現在、ハワイ人の血を引く人間は、
ハワイの人口の20%。
しかしハワイ語を話せる人は、
5%にも満たないといわれています。
でも少しずつ若い世代の中でも
ハワイ文化を誇りに思い、
積極的に活動する人が増えてきました。
ハワイ語を話せる人の数も、
きっとこれから増えていくはずだと
私は信じています。

2000-07-15-SAT
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