第1回  太古の人々の感覚に近づくために。
 
糸井 糸井重里です、よろしくお願いします。
関野 関野吉晴です。今日はよろしくお願いします。
神田 私、フジテレビの神田と申します。

今回の、特別展「グレートジャーニー 人類の旅」の
プロデューサーをしております。
糸井 テレビ番組の「グレートジャーニー」を
編集したものが
こちらのDVDですよね。ぜんぶで‥‥
神田 「8年3ヶ月」の旅の記録が
「約2時間の番組8本」になっておりまして、
「約16時間」ですね。
糸井 16時間。
神田 ぜんぶ見ようと思うと、けっこう大変です(笑)。
糸井 ただ、その「16時間」も、
関野さんの旅のほんの一部なんですよね。
神田 そうですね。
なにしろ「8年3ヶ月の旅」ですから。
関野 たぶんもう、つくれない番組だと思います。
糸井 ‥‥時代的には「バブル」のころ?
関野 いえ、お金と時間のかけかたは
たしかに「バブル」的なんですけれど、
実際は、バブル後の企画です。

旅のスタートが1993年で、
テレビ放映が1995年から、なので。
糸井 そうでしたか。
関野 バブルのころにスタートしていたら、
途中で、できなくなっていたと思います。

ぼくが旅をやめる‥‥ということは
なかったと思いますが、
番組を続けることは、できなかったかもしれない。
糸井 ある種の「冷静さ」が必要だったと?
関野 ぼく、借金してはじめたんです。
糸井 この旅を。
関野 はい。でも、ぼくには、
「絶対、いっしょにやりたいと
 言ってくれる人たちがいるはずだ」
という確信がありました。

だから、何にも決まってないのに
借金して撮影隊と旅に出てしまった。
糸井 はー‥‥。
関野 で、自分たちでパイロット版をつくってから、
テレビ局に売り込みに行ったんです。
糸井 結果は、どうでしたか?
関野 賛同してくれた局は、いくつか、ありました。

でも、フジテレビだけが
「何年かかっても、ゴールまでやりましょう」と
言ってくれたんです。
糸井 なるほど。
神田 当時、ちょうど社内でも
真面目な番組をもっと増やしたい、という
タイミングだったんです。
糸井 では、もしフジテレビじゃなかったら、
こういうかたちには
なってなかったかもしれない‥‥んですね。
関野 確実に、ちがうものになっていたでしょう。

ただ、かたちはどうあれ、
ぼくは、この旅に出ていたと思います。
糸井 そうですか。
関野 少しずつお金を貯めながら、
何年かかってでも、たったひとりでも、
旅していたと思いますね。
糸井 何年かかってもというのは‥‥。
関野 40歳ちょっとではじめましたから
たとえば、そこから30年‥‥と考えると、
70歳でゴールできるなあ、とか。
糸井 いやあ、そうは言っても
「70歳の旅する身体」というのは
相当「ダメ」になっているだろうとは
思わなかったんですか?
関野 伊能忠敬が日本の測量をはじめたのが
56、7歳なんです。

で、終わったのが「72歳」です。
糸井 ‥‥ええ。
関野 それも「江戸時代の72歳」です。

江戸時代人の体力年齢は
現代人の「7掛け」と言われているから、
ぼくの70歳は、伊能忠敬の49歳。

つまり、
40歳で「グレートジャーニー」をはじめて
30年でやり終えれば、
伊能忠敬が測量をはじめるより前に
終われる計算になるので。
糸井 ははー‥‥(笑)。
関野 まぁ、そういう考えもできますけどね‥‥
というような話ですが(笑)。
糸井 でも、関野さんが「グレートジャーニー」を
やり遂げることができた背景には
やはり身体的に「向いていた」んでしょうね。

たとえば、真冬に薄着で外にいても、
ぜんぜん寒くない‥‥とか?
関野 いや、ぼくは
すぐに「寒い寒い寒い」とか言うほうです。

娘から「軟弱探検家」とか言われるくらいで、
気合いが入ってないと、ぜんぜんダメです。
糸井 あ、そうなんですか。
関野 ただ、いったん気合いが入ると
マイナス40度でもまったく平気になります。

何と言うか「怖いものなし」みたいな
状態になって、
ふだん持てないものも持てるようになったり。
糸井 いわゆる「火事場の馬鹿力」みたいなものが。
関野 あるんです。

とくに自分が「やりたい」と思ったことなら
気合いとエネルギーを入れられるんですよ。

それと「本番に強い」というのか‥‥。
糸井 そうか、「グレートジャーニー」の旅は
まさに「本番だけ」ですもんね。
関野 そうですね。

死んでしまうような危険もありましたし、
がんばらなければ
前へ進めない場所もありましたから。
糸井 つまり、旅では「火事場の馬鹿力」を
出さざるを得なかった。
関野 まぁ、ふだんは、ぜんぜんダメで
12月に入っただけで
「寒い寒い寒い‥‥」と
言ってるくらいなんですけど(笑)。
糸井 南米の最南端から‥‥。
関野 アメリカ大陸を北上してアラスカ、
ベーリング海峡を渡り、
シベリアに入って、
モンゴル、
ちょっとチベットのほうに寄り道をしてから
シルクロード、中東、そしてアフリカ。
糸井 ゴールは?
関野 アフリカのタンザニアに
360万年前の人類の足跡があるんです。

「ラエトリの足跡」というんですが。
糸井 そこを目指して。
関野 いろんなゴールが、想定できました。

最古の人類の骨が
発見されたところでもよかったし、
南アフリカの最先端まで行くことだって
当然できた。

でも、なぜここをゴールにしたかというと、
「ラエトリの足跡」が
「三人家族」による、
「二足歩行」の足跡だったから、なんです。
糸井 というと?
関野 人類とサルの違いのうち、
とくに重要なのが
「二足歩行」と「家族という単位を作っている」
ことなので。
糸井 そうか、なるほど。

人類とサルを隔てるうえで
もっとも象徴的な場所を目指した‥‥と。
関野 はい。
糸井 そして、その、果てしないような道のりを
近代的な動力を使わず、
徒歩や自転車などで踏破されたんですよね。
関野 ええ。

大昔の人たちが経験した「旅」を、
できるだけ、自分の身体で感じてみたくて、
「自分の腕力と脚力だけで
 やりとげる」と、ルールを決めたんです。
糸井 自動車なんかは、ダメ。
関野 使っていいことにしたのは、自転車やカヤック。

動物については
トナカイや犬、馬、ラクダなどを使っても
いいんだけれど、
「扱い方」をきちんと学んで、
「彼らを括れる」ようにならないとダメ。
糸井 はー‥‥。
関野 そういうルールで、旅をしました。
糸井 そうすることで‥‥。
関野 ちょっとだけ、太古の人の感覚に
近づくことができる。
糸井 なるほど。
関野 彼らが見たはずの景色を見たかったり、
彼らが吸っていた空気を吸い込んだり、
したかったんです。
(つづきます。)
 
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2013-03-25-MON
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