牛腸茂雄を見つめる目牛腸茂雄を見つめる目

写真家・三浦和人さんに聞く、夭折の写真家・牛腸茂雄さんのこと。

レンズの向こうの双子の少女は、
不安そうな目で、こっちを見ている。
素晴らしい作品を残しながら、
ほとんど無名のまま、
36歳で亡くなった写真家がいます。
牛腸(ごちょう)茂雄さん。
幼いころの病気によって、
身体にハンディキャップがありました。
情報自体が少ないこともあって、
作品を見つめていると、
牛腸茂雄さんってどんな人だったのか、
知りたくなりました。
そこで、学生のころから、友として、
牛腸さんを見つめ続けた
写真家の三浦和人さんに聞きました。
ご本人について、その作品について。
賞賛、不安、あこがれ‥‥
牛腸茂雄を見つめた「目」について。
担当は「ほぼ日」奥野です。
  • 第1回 人生そのもので撮った写真。2016/11/24木曜日
  • 第2回 牛腸茂雄を見つめる目。2016/11/25金曜日
  • 第3回 あこがれの存在。2016/11/28月曜日
写真家・三浦和人
写真家・三浦和人

三浦和人(みうら・かずと)

1946年生まれ、
桑沢デザイン研究所研究科写真専攻卒業。
凸版印刷アイデアセンター写真部を経て独立。
東京造形大学・桑沢デザイン研究所・
日本写真専門学校の非常勤講師を務める。
現在「風の旅行社・風カルチャークラブ」など
写真倶楽部の講師なども務める。
2011年4月11日から、
東北地方太平洋沿岸を取り続けている。
写真集に『会話 correspondence』(1998/モール)、
図録に『スナップショットの時間(とき)~三浦和人と関口正夫』
(2008/三鷹市美術ギャラリー)がある。

その他出版物に
『もうひとつの天安門 親子で見てきた中国』(1990/創和出版)
『子どもたちはまだ遠くにいる』(1993/川本三郎編/筑摩書房)
『恋する老人たち』(1993/荒木経惟編/筑摩書房)
『はじめてよむ世界人権宣言』
(1998/アムネスティ・インターナショナル日本支部編/小学館)
『桑沢洋子とデザイン教育の軌跡』(2005/沢良子編/桑沢文庫)
写真家・牛腸茂雄

三浦和人(みうら・かずと)

1946年生まれ、
桑沢デザイン研究所研究科写真専攻卒業。
凸版印刷アイデアセンター写真部を経て独立。
東京造形大学・桑沢デザイン研究所・
日本写真専門学校の非常勤講師を務める。
現在「風の旅行社・風カルチャークラブ」など
写真倶楽部の講師なども務める。
2011年4月11日から、
東北地方太平洋沿岸を取り続けている。
写真集に『会話 correspondence』(1998/モール)、
図録に『スナップショットの時間(とき)~三浦和人と関口正夫』
(2008/三鷹市美術ギャラリー)がある。

その他出版物に
『もうひとつの天安門 親子で見てきた中国』(1990/創和出版)
『子どもたちはまだ遠くにいる』(1993/川本三郎編/筑摩書房)
『恋する老人たち』(1993/荒木経惟編/筑摩書房)
『はじめてよむ世界人権宣言』
(1998/アムネスティ・インターナショナル日本支部編/小学館)
『桑沢洋子とデザイン教育の軌跡』(2005/沢良子編/桑沢文庫)

牛腸茂雄(ごちょう・しげお)

1946年11月2日、
新潟県南蒲原群加茂町(現・加茂市)で
金物屋を営む家に次男として生まれる。
3歳で胸椎カリエスを患い、
ほぼ1年間を寝たきりで送る。
10代から数々の美術展、ポスター展などに入選。
1965年、新潟県立三条実業高等学校を卒業後、
桑沢デザイン研究所リビングデザイン科入学、
その後、リビングデザイン研究科写真専攻に進む。
1968年、同校卒業。
デザインの仕事と並行して、写真を撮り続ける。
1977年、
『SELF AND OTHERS』(白亜館)を自費出版。
1978年、
本写真集と展覧会により日本写真協会賞新人賞受賞。
1983年、
体調不良のため実家に戻り静養を続けるが、
6月2日、心不全のため死去。
享年36歳。
2004年には回顧展「牛腸茂雄 1946-1983」
(新潟市立美術館、山形美術館、三鷹市民ギャラリー)
が開催され、2000年には
佐藤真監督によるドキュメンタリー映画
「SELF AND OTHERS」が公開され
大きな反響を呼ぶ。
2013年、『こども』(白水社)、
新装版『見慣れた街の中で』(山羊舎)が
相次いで刊行された。
   

第1回 人生そのもので撮った写真。2016/11/24木曜日

──
何年か前のことですが、
偶然、牛腸茂雄さんの『こども』という
写真集を手にして、
なぜだか、すごく惹きつけられました。
三浦
牛腸茂雄没後30年ということで
有名な写真評論家の
飯沢耕太郎さんがまとめた本ですね。
──
はじめは、名字の読み方も知らずに‥‥。
三浦
ああ、そうだよね。
だいたい「ギュウチョウ」って読むから。
──
冒頭の女の子の写真をはじめ、
すごくいいなあって、思っていたんです。
三浦
しまおまほちゃん。
──
え? ええと、あの子‥‥しまおさん?
漫画家で、イラストレーターの?
三浦
そう。
──
そうなんですか! えええ‥‥。
三浦
しまおさんは、お父さんが
島尾伸三さんという写真家・文筆家で、
お母さんも
潮田登久子さんという写真家です。

牛腸さんとは、
写真を通じた親しい仲間だったんです。
──
それは、知らなかったです‥‥。

ともかく、そんなエピソードも含めて、
牛腸さんご本人のことを
まったく存じ上げなかったので、
「どんな人なんだろう」
って、ずっと気にかかっていたんです。
三浦
ええ。
──
調べるうちに、若くして亡くなったこと、
一般的には、
さほど有名な写真家ではないってことが
わかって、「そうなんだ」と。

三浦さんは、牛腸さんとは、
学生時代からのご友人‥‥なんですよね。
三浦
そう、桑沢デザイン研究所で同級でした。

彼も僕も1946年の生まれだけど、
僕は早生まれなので、学年は、ひとつ上。
──
いきなり本題で恐縮ですが、
牛腸茂雄さんって、どんな人だったのか、
教えていただけますでしょうか。
三浦
はい、まず、僕は大学に落ちて浪人して、
翌年、桑沢へ入学したんです。

で、牛腸のほうも美大を受けたんだけど、
うまくいかず、
でも、その大学の試験官から、
桑沢という学校があるからと紹介されて。
──
ええと、大学入試には落ちちゃったのに、
試験官の人から、
デザイン学校を勧められたってことは、
やはり当時から、
どこか、見どころがあったんでしょうか。
三浦
光るものがあったんだと思います。

それで彼は、
デザイナーをこころざす青年‥‥として、
桑沢へ入学してきたんです。
──
最初はデザイナー志望で。
三浦
デザインの学校だからね。
──
なるほど。で、三浦さんと同じクラスに?
三浦
そう、たしか入学後のクラス編成のとき、
「この席、空いてますか?」
みたいに話しかけてきたのが牛腸だった。

でね、ふっと本人を見たら、
正直ちょっと、ギョッとしちゃったわけ。
──
ああ‥‥。
三浦
「えっ?」と、ね。‥‥ま、一瞬だけど。
──
はい。
三浦
ご存知かとは思いますけど、牛腸さんは、
ちいさいころに、
胸椎カリエスという病気に罹ったせいで、
身体的なハンデが、あったから。
──
窓辺で撮影している
セルフポートレートを見たのですが、
正面からでは、
あまりはっきりわからなかったです。
三浦
詳しく言うことでもないけど、
病気で、背骨が変形していたんです。

身長も150センチなかったくらいかな、
人より、だいぶ低かった。
──
それで少々、驚かれて。
三浦
でも、そんなのは一瞬にすぎなくて、
向き合って話をしてみたら、
目が綺麗で、実に魅力的だった。
撮影:三浦和人
──
いわゆる「ハンサム」という感じとは
違うかもしれませんが、
どこか目を引くお顔立ちですよね。
三浦
前向きで、キラキラしている人って、
こうやって話していても、
伝わってくるものが、ありますよね。

そんな感じ。爽快で知的な人、というかな。
──
よくしゃべる人だったんですか?
三浦
いや、必要ないことを
ペラペラしゃべるタイプじゃないけど、
かといって、
決して無口な人ではなかったです。

同学年の僕らにくらべたら、
精神的に大人で、落ち着いてましたよ。
話し方も、理路整然としていたし。
──
そうやって親しくされていた関係から、
三浦さんは、
牛腸さんが亡くなってから、
牛腸さんのフィルムをはじめ関連の資料を、
ずっと保管されているんですね。
三浦
結局、36歳で亡くなったときに、
彼の撮ったものやら、残したものをね、
この先、どうするんだとなって。
──
はい。
三浦
気軽に引き受けられるものでないから、
みんな、尻込みしたんです。

そんな大事なものを預かってしまって、
家が火事にでもなったら、
もう、取り返しがつきませんから。
──
そうですね、それは。
三浦
どうにも引き取り手がないものだから、
仕方なく、僕が預かったんです。
──
学生時代から十年以上もお付き合いして、
作品を見てきた三浦さんからすると、
牛腸茂雄という写真家の作品の特徴って、
どんなところにあると思われますか。
三浦
まず、人のことを判断してないよね。
──
判断?
三浦
うん。
──
それは、写ってる人のことを?
三浦
そう。
──
つまり「この人はこういう人だろう」と、
決めつけて、撮っていない?
三浦
それよりも、もっと、
目の前に立っている人の基本的な部分を、
見ている気がします。

それと、牛腸さんには
『SELF AND OTHERS』という作品集が
あるんですけど、
あの本に載ってる写真なんか、
みんな「見返されてる」じゃないですか。
──
見返されている‥‥というのは、
写っている人が、こっちを見ている?
三浦
うん、カメラ目線で、
みんな、こっちを見ているんだけど、
実際に撮ってる牛腸さんじゃなく、
何だか、自分自身が
彼ら彼女らとやり取りしているような、
そんな気持ちになってくる。

そういう不思議さを持った写真だとも、
言えると思いますね。
──
なるほど。
三浦
たしかに牛腸さんが撮っているんだけど、
被写体の目線の先に、
牛腸さんの存在は消えているというかな。
──
そういう写真家って、めずらしいですか?
三浦
めずらしいと思います。

あるいはね、牛腸さんの写真の中の人を、
じっと眺めていると、
なぜか、自分自身の人生を‥‥
これまでの70年の人生を思い出したりする。
──
自分を、被写体に重ね合わせてしまう、
というような感覚でしょうか。
三浦
この間も、ある女性が、
ちいさい女の子を撮った写真を見た途端、
「あ、昔の私だ」って言ってた。

ぜんぶがぜんぶ‥‥じゃないんですけど、
何だか、そういう写真が多いです。
──
なぜ、そうなると思われますか?
三浦
やっぱり、彼の人生が関係してるのかな。

桑沢に来る前、
まだ新潟に住んでいた牛腸少年は、
「二十歳までは生きられない」
と、医者から
ずっと言われ続けていたらしいんです。
──
そうなんですか。つまり、病気のせいで。
三浦
僕らの前では、
いつも明るくて前向きだったから、
そんなことは
おくびにも出さなかったんだけど、
やっぱり
「二十歳までは生きられない」
と言われ続けて生きていく人生というのは、
ものすごく大変だったと思うんです。
──
それはもう、どんな気持ちになるのか‥‥、
想像することすら難しいです。
三浦
だから、そのときの経験が、
やはり、牛腸茂雄という写真家の写真には、
強く影響していると思います。

桑沢に来て、
あんなに元気にやってみせていたのも、
病気に苦しんでいた、
長くは生きられないと言われていた
少年時代のことが、
何らかの形で関係していると思うしね。
──
牛腸さんが、自分の少年時代について、
何か話したことはありましたか?
三浦
ない。
──
ない。
三浦
18歳くらいまのでことは、
彼は、まったく、しゃべらなかった。

こっちが聞かなかったってことも、
あるとは思うんだけど。
──
そうなんですか。
三浦
あの桑沢の教室で僕らが知り合ったのは
18、19のころだけど、
彼が二十歳になったときにはじめて
「じつは俺、
 二十歳までは生きられないって
 言われてたんだ」
ってことを、教えてくれたくらいだから。
──
話したくなかったんでしょうか。
三浦
そうだね‥‥話してもわからないって、
思っていたのかもしれないね。

ともあれ、彼にとっての一年一年、
一日一日、一瞬一瞬の意味というのは、
僕らのそれとは、
まったく違っていたことは確実で、
その感覚や人生観が、
彼の作品には滲み出ていると思います。
──
「二十歳までは生きられないだろう」
と言われて育った人の撮る、一瞬。
三浦
写真というものを評するには、
「うまい」とか「ヘタ」とか「きれい」とか、
いろんな表現がありますよね。
──
はい。見たこともないような‥‥とか。
三浦
牛腸さんの写真って、
たぶん、そういうところにはないです。

眺めていると
自分自身のことを考えさせられるし、
同時に、
彼の人生が浮かび上がってくるような、
そんな写真じゃないかな。
──
なるほど。
三浦
そういう意味でも、やはり、牛腸茂雄の写真は、
牛腸茂雄という稀有な写真家が、
人生そのもので撮った写真、なんだと思います。
 
<つづきます>