鈴木慶一 アンサー・インタビュー 第1回 糸井さんは英断していないと思ってるけど。


あの頃も 空の下
あひるガァガァ 公園で
おれたちは 半ズボン
ほこりまみれ どろんこまみれ

昼寝のおじいさん  休む乳母車
ともだちも おなじバカ
その日その日 ただ笑ってた

「ゆうがたフレンド」より

── 糸井重里の『ゆうがたフレンド』の
インタビューはお読みいただけましたか。
慶一 うん、楽しませていただいてますよ。

── 慶一さん、いろいろ言われ放題なので
「アンサー・インタビュー」を
お願いしようと思います。
反論でもなんでも。
慶一 ほんとだよね(笑)。
まずね、糸井さんは
はちみつぱいとムーンライダーズが
ごっちゃになってるのかなあ。
糸井重里の
言い分
ものすごく理性的に言えばね。
集まってやる必然性って、あんまりないんだよ。
でも、だからこそ、集まることが
一番重要なんだともいえる。彼らにとっては。
利害で集っているわけじゃないんですよね。
昔は、そういう、利害で集ってないバンドが
たくさんいたと思うんだけど、
いまやムーンライダーズが最古なのかな。
── はちみつぱいというバンドが
前身となって
ムーンライダーズが生まれたのが
1975年。
メンバーは慶一さんを含む
4人が同じです。
慶一 これ、けっこうごっちゃに
なりがちなんだけど
全然違うんだよ。
金を稼ごうと思ったのが
ムーンライダーズで、
一緒にいないと音楽がつくれなかったのが
はちみつぱい。
── あ、ぜんぜん違いますね!
「金を稼ごうと思って始めたのが
 ムーンライダーズである」
っていうのはあまり
知られてないんじゃないでしょうか。
慶一 はちみつぱいっていうのは
一緒に同じ場所を共有して
同じ音楽を聞いて、
それで何やろうかっていう
若々しいバンドだった。
それがなかなか集まらなくなってきて。
遠くに引っ込んじゃう人は出てくるわで、
そういうときにいろいろ問題点や相性が
見えてきて、ずるっと辞めたんだよ。
音楽的な方向の違いなんてモノじゃない。
── 人が消えていったので、辞めた。
慶一 今考えると、辞め時を待ってたようにも
思えるけどね。
マネジメントオフィスの
「風都市」がなくなったり、
経済にも絡んでいって、貧乏だったから、
「お金にならないことをしていたら
 みんなチリジリバラバラになっちゃうな」
と思ったんで、
アグネス・チャンのバックバンドという
スケジュールを組んで、
その代わりお金は入ってくるぞ、
とスタートしたのが
ムーンライダーズなんだよ。
── ‥‥いきなり稼げたんですか?
慶一 稼げた。だってその前まで
はちみつぱいって、
給与3万円で‥‥2万7千円説も
あるんだけど。
── はちみつぱいも給与だったんですか。
慶一 風都市からは給与をもらってた。
さらに他のバッキングとかしたり
スタジオミュージシャンをすると
「取っ払い」っていって直接入ってくる。
でもそもそも当時3万円っていうことは
結構よかったんだよ。
一般的な大卒の初任給よりは
ちょっと少なかったけど。
でも、末期は未払いだらけだった。
── ムーンライダーズの給与は?
慶一 俺が月18万で、その他のメンバーは
給与じゃなくてライヴ1本いくらってカウント。
俺よりは稼いでいた。金の事って覚えてるね。
チャック・ベリーか、これじゃ。
── えっ、今の感覚にしたら
月に100万稼いだっていう感覚ですよ?
慶一 いや、そうかな。微妙だな。
でも50万稼いでいるっていうくらい。
── 当時の若者にしては。
慶一 うん。20代半ば。
── その仕事はどうやって?
慶一 はちみつぱいで1974年に1度だけ
アグネス・チャンの
バッキングをやるんだよ。
そのとき来年もやりましょうみたいな
話になったんだけど、
はちみつぱいが解散しちゃったんで、
これを逆にチャンスとしようと。
人がいなくなっちゃったことも
逆に考えよう、
やりたいやつと、向かないやつは
消えていってもしかたがない、
向く人だけ残そうと。
それでムーンライダーズをつくったんだ。
そこはね、
1975年の大きな分岐点だったの。
── なるほど‥‥もっと
「なんとなく」バンド名が
変わっていったくらいに
思っていたのですが
まったく違うんですね。
当時、慶一さんが、
金を稼ぐためにバンドを始めた、
というのは、音楽の仲間たちから、
どういうふうに
受け取られたんですか。
慶一 その頃の友人たちから嫌われたよ。
「お前ら、金のために」って。
── そういうことをやったのって
ムーンライダーズが初だったんですか。
慶一 初。いわゆるロックバンドと
いわれるようなものが
歌謡曲の歌手のバッキングするのは初。
── へぇ。
慶一 レコーディングでは
ティンパンアレーが活躍していて。
でもレコーディングとくらべたら、
ライブのバッキングは
肉体的にはハードだったんです。
毎日同じ演奏して、
終わって飲んでホテルに帰る。
家じゃなくてね。
やり直しのきかない一回性のものだし、
アグネスにもスタッフにも、
今日もよかったと
思ってもらわないといけないし。
さらには寸劇にも参加したり。
── なのに「お前ら、金のために」って
言われちゃうんですね。
慶一 自分たちのステージでも
嫌みのひとつも、ふたつもあびたよ。
でもね、そういうのは
ムーンライダーズの歴史において
何度かあるんだよ。
ニューウェーブに突進したときにも
やっぱり以前の連中と
国交を断つというかさ。
「なんでニューウェーブなんぞに
 行くわけ」って。
ニューウェーブファッションになって、
ニューウェブ的演奏に変わったときに
そのころ出てきた
ニューウェーブの人たちと一緒の
ライブに出ると野次られたよ。
まだ30歳なのに、
「ジジイ帰れ!」とか言われたりする。
まあ、ずっとそんな歴史だよ。
はちみつぱいだってさ、
ロックコンサートに出ると
アコースティックギター使っているから
「フォークじゃねぇか」って言われるし、
じゃフォークコンサート出ると
エレキギター使って音でかいから
「ロックじゃないか」って言われる。
わりとだから、結構、
非難の目、その裏返しの
羨望の目みたいなのの
両方を浴びながら来たんだ。

── 両方なんでしょうね。
慶一 と思うんだよね。
ファッションが変わるからさ、
それまで行っていた飲み屋に
行けなくなっちゃうし。
── 狭いところでも不自由(笑)!
慶一 そうそうそう、
実に狭いエリアでの話だけど、
ちょっと悲しい。
── でも野次られながらも大丈夫。
慶一さんもそういうふうに
鍛えられてきたわけですね。
慶一 だからね、糸井さんは
俺が何によらず英断していないと
思ってるかもしれないけど(笑)、
英断しているときは何度かあるんだよ。
それは、大宣言ってなわけでも
ないんだけど。
しかも個人での英断に見えにくい。
集団での結論って見え方なんで
英断感は薄れるね。
去年、自分らでレコード会社を
つくっちゃったのも大英断だよね。
きっと糸井さんが「ほぼ日」を
始めたみたいなもんじゃないかな。
なんでも出来る自由な場を、
運営しなくてはいけない。
すごくおくればせながらだけど。
‥‥でも糸井さんの言っていることって
当たっていることいっぱいあるんだよね(笑)。



(と、小声でつぶやきつつ、続きます)






2006-11-15-WED



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