ほぼ日刊イトイ新聞 フランコさんのイタリア通信。アーズリにいちばん近いイタリア人の生活と意見。

2009-03-10-TUE

ヴェネツィアの謝肉祭 2009


太陽が昇るように規則正しく、
今年も2月にヴェネツィアの謝肉祭が催されました。
この時期のヴェネツィアは、
たくさんのドラマやシルクやダマスク織りを身にまとい、
古代ローマから続くとても奔放な
謝肉祭(カーニバル)色に染まります。

カーニバルといえばブラジルの、
リオ・デ・ジャネイロのものが有名ですが、
あちらブラジルのカーニバルは、
悲しみや貧困を忘れるために
庶民が感情を分かち合い、爆発させる場です。
ヴェネツィアのものは、これとは異なります。

リオではセミヌードの派手な踊り子たちが
セクシーな熱狂をあおるように踊りますが、
ヴェネツィアでは、
熱狂と言う意味ではリオよりずっと控えめです。
色恋にはまったく無関係とは言わないまでも、
いずれにせよすべてが良い趣味や
洗練されつくしたエレガンスに満ちています。

franco

18世紀のカーニバルは‥‥。

18世紀、カサノヴァの時代には、
ヴェネツィアのカーニバルは
数日のお祭り騒ぎをするチャンスでした。
プレイボーイとして有名だったカサノヴァのように、
その数日間にはセクシーな関係も
優美さをかなぐり捨てて奔放になりました。
男女が互いの素性がバレないように仮面をつけて
愛をささやきあい、うまく行けば、
その場かぎりの小さな恋の物語の仕上げとして、
ベッドが待っていたのです。

たとえば一人の夫が海賊に扮して
魔女の姿の女性を口説き、
ベッドをともにした後で、
その魔女は彼の妻だったのが分かった、
なんてことも、起きなかったとは言えません。
伝統的に、男も女も、ベッドにいる最中でさえ、
仮面を外さないのが礼儀ですからね。

franco

これら全てが、笑って済ませる
娯楽のうちの出来事だったのです。

かつてのヴェネツィアは、小さな共和国ながら、
大きな船団を擁しておりました。
これらの船団は、東洋に行っては
スパイス類や香料、高価な浮き織りの生地や
シルクなどを積んで帰って来ました。
そして、それらをヨーロッパ中に供給する
輸入業の窓口だったのです。
したがって、絢爛豪華な衣装にも事欠きませんでした。

小さなヴェネツィア共和国が最も輝いていた時期には、
ドイツとイギリスを合わせたよりも裕福だったそうです。

franco

2009年は、ミッソーニが天使に。

さて2009年の謝肉祭も、
良い伝統にそむかない、エレガントなものでした。

毎年、幕開けのショーは
「天使の飛翔」と決まっています。
もし天使がうまく飛べば、
誰もが恋のサクセスに恵まれ、
もし雨や風が邪魔をしたら、
その年はあんまりラッキーではないかも、
という占いの一種のようなものです。

上手く行けば人々は楽天的になり、
逆の場合はがっかりします。
あんがいみんな本気ですよ。

今年の天使役はファッションデザイナーで
女優のマルゲリータ・ミッソーニでした。
彼女のお祖父さんはオッタヴィオ・ミッソーニ、
そう、あの「ミッソーニ」、
イタリアのファッションを優れたものとして
世界に知らしめた巨匠の一人です。

太陽が輝くその日、10万人を超える人々が
マルゲリータの飛翔に立ち会いました。
サン・マルコ大聖堂の鐘楼から
ワイヤーにつながれた彼女が飛ぶのです。

オッタヴィオお祖父さんが
一手に引き受けてデザインした、
スパンコールのついた白い衣装を身にまとい、
天使の大きな2枚の羽根をつけて、
23歳になったばかりの若いマルゲリータが、
10万人が息を止めて見守る中、
空中に舞い降りました。
およそ70メートル飛んで、
広場の反対側にある舞台に無事着地。

franco

それは実にエレガントで幸福なショーでした。
春のような光のあふれる日に、
全てが完璧に進行したのです。

大役を終えたマルゲリータは、
感動のあまり涙が止まらないようでした。
もちろんお祖父さんのオッタヴィオも、
お祖母さんのロジータも、ね。

franco


訳者のひとこと

そうでなくてもヴェネツィアは、
全体がまるで劇場のセットのような街です。
建物は水の中から生えているように立ち並び、
網の目のような通りには車は全くいません。

それにしても素晴らしい青空ですね。
カーニバルが過ぎれば、イタリア人たちは
復活祭(イースター)の休暇を待つばかりです。

うららさんイラスト

翻訳/イラスト=酒井うらら



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