ほぼ日刊イトイ新聞 フランコさんのイタリア通信。アーズリにいちばん近いイタリア人の生活と意見。
2008-11-18-TUE

カッサーノ、全てを語る。


cassano

アントニオ・カッサーノのやんちゃぶりについては、
ここにも何回か書きましたが、
彼の人生が大きく変化したのは、
1999年12月18日のことでした。

その時、彼はまだ17歳で、
バーリの選手としてインテルに
立ち向かおうとしていました。
そして、ある一瞬、
彼は右足の踵でボールをとらえると、
ピルエット(片足旋回)をして
対戦相手の防御のバランスをくずし、
左足でゴールを入れたのです。
忘れる事のできない素晴らしいゴールでした。

その9年後の今年、
彼は自分の人生を語る本を出しました。
その本は、まさにその夜のことから始まります。

cassano

「ぼくはきみたちに全部話す」

「あのバーリ対インテル戦が無かったら、
 ぼくは、誘拐犯とか、ひったくり犯とか、
 いずれにせよロクでもない人間になっていただろう。」

と、彼は書いています。
彼が育った環境の中にいた仲間の多くは、
裏世界の集団に引き込まれていった、と。
「あの試合と、ぼく自身の才能が、
 悲惨と危険が先に見えている世界から
 ぼくを運び出したのだ」と。
そんなふうに、
彼の本「VI DICO TUTTO(ぼくはきみたちに全部話す)」は、
辛みの効いた話で埋め尽くされれています。

たとえば、子どものころ、
彼は広場でボールと遊んでいました。
そこは露店と露店にはさまれた場所で、
「しょっちゅう銃声が聞こえ、
 警察や救急車が来ていた」ような地域でした。
そしてそのボール遊びが始まると、
まわりにいた大人たちは、賭け事を始めます。
少年たちのサッカーの、遊びの試合に。
大人たちが賭けるのは、カッサーノのいるほうのチームです。
そして、カッサーノ自身はといえば、
「金が欲しかったから、
 彼らから歩合を取った」
のだと、この本のなかで、
わるびれることなく告白しています。

さて、彼はボールを足でとらえれば優秀ですが、
学校ではそうもいきませんでした。
勉強は、災害のようなもので、
どの科目でも最低点。
彼の告白によれば
「ぼくは小学校と中学で6回、落第した」
ということです。

こんなエピソードもあります。
あの対インテル戦のあと、バーリの会長は
彼に車を1台プレゼントしました。
それで、カッサーノは運転免許証を
“買わねば”なりませんでした。
つまり、運転教習所の教官を
25万リラで買収したのでした。

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カッサーノが情熱をいだくもの。

彼は今、サンプドーリアの
ティフォーゾたちのアイドルで、裕福で有名です。
しかし、彼の荒れ模様の過去は
(と言ってもまだ26歳!)
何も変りません。あやまちすらも。

カッサーノは、彼が裕福なのは、
とても若いころに彼を世に出した、
バーリのファシェッティ監督のおかげであることを、
知っています。

「彼はぼくがケンカをしなかった、ただ一人の監督だ。」

と、ファシェッティ監督について語るいっぽうで、
その他の監督については、
彼はボロクソに言っています。
ジェンティーレは憎かった。
スパレッティは何も分かっていなかった。
カペッロについては、カッサーノが
レアル・マドリードにいたころ、
「まったく無能な男だ」と
鼻先で言ってやったのだと書かれています。

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そして、カッサーノが本当に情熱を抱くのは、
食べ物、そして女性たちのようです。
女性については
「恋人と呼べたのは4人だけだった」
としながらも、
「遊んだ数は600人から700人」
と言ってはばかりません。
この本のなかでは、どんな職業の女性と遊んだか、
大きな試合の前にこそ、こんなことをしたんだとか、
マドリード時代のホテルでのやんちゃな素行など、
ちょっと紹介するのがはばかられるほどの内容が
つづいていました。

カッサーノが彼の本の中で語っている事が、
全て本当かどうか、ぼくは知りませんが、
サッカー選手が自分の人生を、
こんなふうにあけっぴろげに語るのは、
前代未聞のことです。

ピッチの中であろうと外であろうと、
カッサーノは、いつも人々をびっくりさせる、
ということでしょうか。

cassano


訳者のひとこと

あららら、言ってしまいましたか、カッサーノ君。
暗黙のうちに想像されている事でも、
公然としゃべられてしまうと、
いや〜な気分になる他の選手も、いるでしょうねぇ。

モスキーノ

翻訳/イラスト=酒井うらら



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