フランコさんのイタリア通信。
アズーリにいちばん近いイタリア人の生活と意見。

アドリアーノの今。そしてACミランは?


カルチョ・メルカートに最後の動きがありました。
じつは、この夏のメルカートが終了する数時間前に、
インテルのロベルト・マンチーニ監督が
ぼくにこう話していたのです。

「レコバかアドリアーノのどちらかが
 出されるだろう」と。
そして、じっさいに8月31日、
アルヴァーロ・レコバが
トリノに貸し出されることが決まりました。

これはちょっと意外な展開でした。
なぜなら、チームを変るのはアドリアーノだろうと、
最後まで思われていたのですから。
しかし、アドリアーノは、
マンチェスターにしろパルマにしろ
貸し出されることを拒否したのでした。

アドリアーノは、もう「皇帝」とは呼ばれません。
それは彼が活躍していたころの呼び名です。
でも彼はまだ25歳で、
インテルのティフォーゾたちのアイドルに彼をのしあげた
サッカー面での偉業の数々を、
また再現するレベルにもどれる印象もあります。

昨年の彼はボロボロでした。
「あれはどう見ても飲み過ぎだよ」
「ディスコで一晩中すごしたまんま
 ぶっ壊れた体で練習に現れたらしいよ」
「ミラノの『甘い生活』に溺れてしまったんだよ」
などと、くちぐちに噂されました。

そういった軽口や陰口がチームを叩き続けました。
そしてついに、7月、バカンスから戻った彼が
公に懺悔しました。

彼はマイクやテレビカメラの前で、
「父の死を忘れるために、
 ぼくはディスコで気を紛らわせ、酒を飲みました。
 でも今は、真面目になって
 真剣に、プロフェッショナルとして
 行動することを約束します。
 ぼくは、以前のようなぼくに戻りたいのです」と、
自暴自棄になっていたことを告白しました。

マンチーニ監督はその言葉を信じ、
マッシモ・モラッティ会長も同様にそれを信じたのですが、
よくあるように、言葉は実行されませんでした。

アドリアーノは練習に遅れ続け、
夜通し踊って明け方に眠りに帰る日々をくりかえし、
とうとうインテルは彼を貸し出すことを決めたのです。
他のチームでなら、他の街、他の国でなら、
立ち直ってくれるかもしれないから試してみよう、
というわけです。

結局、どうにもできませんでした。
アドリアーノが頑として主張したのは、
ACミランへの完全移籍だったのです。
ACミランでプレイする多くのブラジル人選手たちに
説得された彼は、
まさにインテルの最大のライバルである
ACミランに行きたいと言うのです。

マンチーニ監督は、もちろん反対です。
モラッティ会長は口するのもおぞましいというところです。
チームの方針は、インテルに残るか去るか、
ふたつにひとつではありましたが、
去るといっても「移籍」ではなく「貸し出し」でした。

希望が通らない気落ちと、悲嘆と、怒りとが、
アドリアーノの立ち直りをさらに妨げたかもしれません。

カンピオナートの最初の2日間、
彼はベンチにすら呼ばれずに、
ゲームを観客として観戦していました。

プエルタの死を悼む。


こんなふうにインテルが大問題を抱える一方で、
ライバルのACミランは人々に
嬉しい驚きを与え続けています。

ACミランはスーパーカップでセビリアを下し、
ヨーロッパで最も優秀なチームであることを、
新たに証明しなおしました。

それだけではありません。
その試合の数日前のことですが、
ヘタフェとの試合中に心筋梗塞で倒れた
セビリアの若いプエルタ選手が、
入院していた病院で亡くなりました。

それを知ったACミランの選手全員が、
若くして不幸にみまわれたプエルタ選手の名前の書かれた、
赤黒のACミランのユニフォームを着て試合に挑み、
彼の死を悼みました。

この愛情いっぱいの表現は、
ヨーロッパ中の観客を感動させました。


訳者のひとこと
プエルタ選手のことは、
日本でも報道されましたね。
まだ22歳だったそうですが、
これからと言う時に、お気の毒でした。

それと、レコバ選手が貸し出された先のトリノには、
日本の大黒将志選手がいます。
「チームメイト」になったというわけですね。

さて、シーズン開幕です。
今年はどんなびっくりが待っているのでしょう。
楽しみですね〜。
翻訳/イラスト=酒井うらら

2007-09-04-TUE

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