フランコさんのイタリア通信。
アズーリにいちばん近いイタリア人の生活と意見。

フィオレンティーナ、ボジノフを買う。


この冬のカルチョ・メルカートは、
最後の大商いで幕をとじました。
大金をはたいたのはフィオレンティーナで、
購入されたのは若き大物です。

この大物がセリエAにデビューした時、
場違いなほど若かった彼はうろたえて、
チームの仲間たちの顔を、
まるでテレビでも見るかのように
じっと見つめてしまった、ということです。
自分がその日の試合でプレイできるとは
思っていなかったのでしょう。
そして、お前がプレイするのだと言われた彼は、
自分に何が起きつつあるのかを考えないようにしよう、
という感じで、素早くピッチに入りました。

2002年1月27日のことです。
その大物バレリ・ボジノフは
セリエAへのデビューを
レッチェのシャツで果たしました。
1986年2月15日生まれの彼は、その時、
まだ15才と11ヶ月と12日でした。

イタリアのサッカーでは、
若さは必ずしも優先されません。
でも、とても若いボジノフの、このデビューは、
運命のなせる技として祝福されたのです。



デッラ・ヴァッレの飽くなき投資。

それから3年後の2005年1月31日、
バレリ・ボジノフは冬のメルカートで
大衝撃の主役となりました。
フィオレンティーナは彼を
レッチェから1400万ユーロの現金で買い、
かわりにバルダス選手をレッチェに贈りました。
合計で2000万ユーロほどの計算になるでしょう。
これは彼ほどの年少の若者のために支払った額としては、
完璧な新記録です。

フィオレンティーナのオーナーである
ディエゴ・デッラ・ヴァッレは、もう1年以上前から
将来にむけた立派なチームを作りたがっており、
そのためには、いくら費用がかかってもかまわない
という勢いでした。


彼は、みなさんも良くご存じのように、
昨年の夏には中田英寿を買いました
デッラ・ヴァッレが靴とウエアの製造業者であることから、
宣伝のために中田を買ったのではないかと
多くの人たちが思いました。
デッラ・ヴァッレは東京の一等地のひとつである表参道に
自社の擁するブランド、Tod'sの
巨大な店をオープンしたばかりでしたから、
中田は彼にとっては広告塔だろうという見かたです。



実際に中田が日本でのTod'sの靴の売り上げを
伸ばしたかどうか、ぼくは知りませんが、
デッラ・ヴァッレの野心が
底なしであることは確かです。
フィオレンティーナをイタリアサッカーの
強豪に仲間入りさせるためなら、
彼は金に糸目をつけないのです。
バレリ・ボジノフは彼にとって将来への投資なのです。

デッラ・ヴァッレは、企業家である上に
スポーツにも明るいというイメージを広めようと、
2004〜2005年のシーズン中に
監督を3人も使いました。
良い結果を出さなかったので解雇されたのは
モンドニコとブーゾで、
3番目の監督として雇われたのが
イタリアサッカーではとても人気のある
ディーノ・ゾフです。


最初の3戦で3敗と出鼻はくじかれましたが、
ゾフはきっとフィオレンティーナを
イタリアの、そして世界の
偉大なスターチームにしてくれるだろうと
デッラ・ヴァッレは信じているようです。

中田とミッコリを夏に購入し、
今度は「黄金の子ども」バレリ・ボジノフです。
豪勢なことです。

イタリアサッカーは相変わらず借金まみれで、
多くの組織が破産の危機にあり、
その中で費用を考えずに「買い」に出られるのは
ベルルスコーニ首相のACミランと、
石油業者モラッティのインテルと、
フィアットのオーナーのアニェッリ一族が
うしろに控えているユベントス、
この3チームだけです。

そんな中、デッラ・ヴァッレは
イタリアサッカーの第4勢力の座をねらっています。
それも、日本人のお金の力も導入して。
どうやら表参道のTod'sのビルは彼にとって、
どんどんお金を作ってくれる工場らしいですよ。

彼の野心は、第4勢力の次には
第3番めをねらうでしょう。
さて、その後は‥‥
たぶん、もっともっと上、でしょうねえ。



訳者のひとこと
フィオレンティーナのファンのみなさん、
Tod'sで靴を買いましょう!
という話ではありませんね。
デッラ・ヴァッレさん、素敵な靴を
どんどん作ってください‥‥でもないか??
本当に日本人はお金持ちなんでしょうか。
ああ、もうよく分からないから、
とりあえず、ニッポン、ドイツへ行こう!!
翻訳/イラスト=酒井うらら


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2005-02-07-MON

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