質問:
小説の言葉の使い方を、
どのように考えていますか?
国語の授業では
「この話のテーマは何?」
という問いが出てきますし、
国語の授業でなくとも、世の中は
「結局、あらすじは何?」
という言い方が流通していますよね。
人に小説を勧めるときも
「とにかく読んでみてよ」
とは、なかなか言わないで
「こんな話だったよ」と言うわけじゃない?
勧めた本人も
「これこれこういう話だった」
と小説の筋を言うと
あたかもその小説を理解したとか
きちんと記憶できたと思いがちなんだけど……
そこで伝えられるのは、
小説の中でも論理的な部分だけなんです。
もっとも今ぼくが言ってる
「論理的」というのはけっこう広い意味で、
「整合性があること」全般を
指しているんですけど 、
「論理的」というのは
それだけで純度を高めてしまうんです。

言葉の中でも
いちばん伝わりやすいのは論理的なものですが、
論理的な言葉が伝えられるものは、論理という
「ひとつの狭い範囲の使い方」
の外を出ることができません。
だけど論理的ではない言葉の方が
世の中にはやまほどあって……
たとえば、ひとりの人が
しゃべることを聞いて説得された理由にしても
「話の内容が充分に論理的だった」
というのは、ひとつのしかも
とても薄い可能性にすぎないわけです。
むしろ話す
速度がよかったとか、
声質がよかったとか、
話している時のその人のアクションが
よかったとか、話に関係なく単に
「その人のことが好きだった」
とかいう方が人を動かすんです。
相手のことが好きという以上の
説得の理由ってあんまりないですよね。
ぼくはレゲエのボブ・マーリーのことが
めちゃめちゃ好きで、
二十代のころに読んだ彼のインタビューで
「豚は絶対に食ってはいけない」と言うから、
「ああ、豚は食べてはいけないんだ」
って、単純に信じてしまって(笑)。
その頃は「イスラム教徒は豚を食べない」
ということを知らなかったんです(笑)。
二十数年前、日本ではイスラム教徒のことは、
ほとんど知られていなかったですからね。
  あのときも言葉の意味というよりは
受け手のぼくが
ボブ・マーリーのことを好きだったから
「そっかぁ!」と強く思ったわけで、
言葉のどの部分で感情がわきおこるかどうかは、
論理的な言葉の使い方をしているかぎりは
わからないんですね。
 
  明日に続きます。
 
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感想を送る 友達に知らせる ウインドウを閉じる 2005-07-07
Photo : Yasuo Yamaguchi All rights reserved by Hobo Nikkan Itoi Shinbun 2005