おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

受験のテクニックとして、小論文の書き方を勉強した?
その後は、ナイスなテキストを書いていますか?
考えること伝えることの愉快を、ここで味わいましょう。

ありがたいことに、小論文というものを
考えたり、たのしんだり、たくさん読んできた
カジュアルで優しい先生がいるんです。

さぁ、山田ズーニー先生、お願いしまーす。



129  新春のごあいさつ

年明け早々,人間ドックにいってきました。
会社を辞めて、この春で3年がきます。
それまでと180度ちがう生活で、
そうとう体に、無理がきているのでは、と思っていました。

ところが、結果は、
バリバリの、ノリノリの、健康そのもの。

さまざまな数値や、
レントゲン、
スキャンを診た先生から、
「きれい!」を連発されました。

肺もきれい!
肝臓もきれい!
おしっこもきれい!
コレステロールも善玉!
驚いたことに、いつも上が80ない低血圧さえ、
きれいさっぱりと治っていました。
ほぼ完璧にきらきらと輝くような結果用紙を渡され、ほめられ、
その意外さに、ぼーっとしました。

なんと、不安とプレッシャーの日々が、
私を前より元気にしていたのでした。

会社を辞めて、
固定給なし、固定職なし。
人生かつてない不安定さ。

上司なし、部下なし、同僚なし。
人間好きな私が、何日も人に会えず、独り仕事。
人に会わないと、自分の中に言葉がたまってしまう。
かつてない孤独さ。

書くことで、自分の正体を見て苦しみ、
言葉にできなくて苦しみ、
言葉にして人目にさらすことに苦しみ、
身ひとつで稼ぎだす痛み。

先は、どうかするとすぐ見えなくなり、
つねに「自分とは何なのか?」
存在の危機にさらされ、
不安に足を救われ、
絶望に、首ねっこを押さえ込まれる、

そんな日々のひとつひとつが、
私をこんなに元気にしてくれていたのでした。

「生命力」というのは不思議だなあ、

不安も孤独も、体にいい、
存在の危機だって、健康にいいことを、
どんなに私の頭が受け入れなくても、
少なくとも、私の体は3年間で、
コツコツと、正直に、証明してくれていたのでした。

状況が自分をおしつぶそうとすれば、
それだけ、自分は「生きよう!」と強く思う。

「自分の身ひとつが頼りなんだぞ」
と、言い聞かすと、体の方も、
「あら、あたしだけが頼り?」
と喜んでがんばるし、
気力や、知恵も、つくして体をいたわろうとする。

自然に自分の能力を生かせる環境がなければ、
どっか、なにかで、「自分を活かそう、活かそう」と
強く思う。
瞬間を逃さず、ひらめきや、経験が、
道をつくろうとがんばる。

企業にいたときは、
ほっといても、降るほどの情報が日々入ってきたけれど、
いまは、何もしなければ情報から遮断される。
だから、どうにかして、何かつかんでこようとがんばる。
読者からいただく、1通のメールを、
おしいただくように、そして、貪欲に、読み込んでいます。
その、まだ混沌とした情報から、
何か、時代との接点を、
不確かな、人間というものを、
つかもう、つかもう、としていたように思います。
気がついてみれば、
それこそが、他の人がもたない情報であり、
マスにのらない独自の情報ソースを持つこと、
につながっていました。

情報や、人や、仕事から、自分を干すことを
こわがってはいけない。

いままでのやり方では太刀打ちできない生活に、
なにも持たず、挑んでいかなければならないとき、
もう、
自分の中で眠ってたものに、
起きてもらってがんばってもらうしかない。
だから、一見、八方ふさがりのような生活こそ、
潜在力は生きる。
生命力も強まる。

いままでの生活の延長にないものを、
早々と、体によくないと決め付けることのほうが、
むしろ、体によくないのだと気づきました。

もうすぐ3年がきたら、
会社でやっていたように、
自分のこの3年間を検証しようと思っています。
何ができて、何はできなかったか、
客観的な数字を見たり、
経済的な収支とか、
仕事の意義とか、
面白さとか、手ごたえのような主観的な部分ももちろん。

でも少なくとも、健康管理面では、
早々とA評価が出せそうです。
3年でやっと、会社員ではない生活ができてきた。
本当の意味で、やっと脱サラができた。
ここから始まる、という気持ちです。

本年もどうぞ、よろしくお願いいたします。


Lesson130 SKILLとWILL


東大生の主催する座談会にいったときのことだ。

キョーレツな一人のおじさんのために、
私たちの班は、ぜんぜん本題に入れなかった。

あのおじさんは何をしに来たのか? 今もわからない。

とにかく、学生たちに、
東大出身者であることが、いかに社会に出て厚遇されるか、
息子が東大に入っただけで、親が昇進した話とか、
そういう学歴がないことで自分がいかに冷遇されたかとか、
とうとうと話すのだ。

でも、その現実は、
私が見てきた現実とはすごく違うものだった。

少なくとも、私がもといた企業では、
実力競争主義、その点ではとても平等で、
出身大学で何か決まるなんてありえなかった。
学歴でなく、結果が厳しく問われ、
望まれた結果をだせなければ、
高学歴だろうが、何だろうが、ポジションは交替だ。

東大といえば、
四の五の説明しなくても信頼してくれる人間は多いから、
コミュニケーションの入り口は
ショートカットできることがある。
それは、便利なことだ。
でも、その先は、実力がないとどうにもならないのだ、
というようなことを、私は言った。

間にはさまれた格好になった学生さんたちは、
自分たちの位置付けが、
ほんとのところ社会に出てどうなのか
まだ、働いて試してない。
経験を振りかざす大人2人に対して、経験がないから、
何か言いたくても、何も言えないという感じだった。
その中の一人の学生さんが、私に、

「よく、スキルが問題にされますが、
 ぼくは、ウィルも見てほしいと思います。」
とだけ、しずかに言った。

SKILL と WILL

このとき聴いた、
“WILL” という言葉の響きがとてもきれいで、
新鮮な印象だった。
以来、私はずっと、このとき受けた
「スキルとウィル」の印象を、
わかりやすく説明できるものはないかな、と探していた。

「スキル」は、会社ではよく使う。
「わたしのスキルが活かせる仕事だ」とは、
「わたしが経験でつちかってきた腕と技が活かせる仕事だ」
ほどの意味になる。
SKILL = 熟練、技量、腕、(特殊な)技術、技能

じゃ、“WILL”は?

暮れにテレビを見ていたら、うってつけの例があって、
うれしくなった。知っている人も多いだろう。
アルピニストの野口健さんが、
亜細亜大の一芸入試を受けたときの話だ。

受験生が次々と、自分の「一芸」をアピールする。
「私は、インターハイで優勝しました!」
「私は、国際コンクールで優秀賞を受賞しました!」

やっぱり「一芸」で大学に受かろうとするだけあって、
輝かしい経歴の持ち主がそろっている。

野口さんは、はじめ、びびった。
このとき、まだ2つ大きな山を
ようやっと登った、というだけで、
登山家として誇れるような実績も技量も、なにもなかった。
「こんなすごい受験生の中で、
 自分は何を言えばいいのか?」

ところが、えんえん、
輝かしい「一芸アピール」を聴かされているうち
うんざりしてきた。

「これは自慢だな。」

みんな過去の輝かしい実績を自慢しているだけだ。
過去がすごいからどうなんだ。
自慢もえんえんと聞かされると、お腹いっぱいになってくる。
「試験官は?」と見ると、
やっぱり、自慢にあきている。

野口さんの番が来た。
野口さんは、「これまで」でなく、
「これから」のことを書いた。
自分が大学に入れたらこうなる、と。

1992年 9月 オーストラリア、コジアスコ登頂
1992年12月 南アメリカ、アコンカグア登頂
1993年 6月 北アメリカ、マッキンリー登頂
1994年12月 南極、ウィンソンマッシーブ登頂
1996年 1月 ロシア、エルブルース登頂……

実績がないから、それしかしようがなかったのもあるけど、
明らかに、他の受験生とはちがうプレゼンに、
試験官もくいついた!

野口さんは、見事合格!
その予告どおり、
亜細亜大入学後に、
史上最年少で7大陸の最高峰を制覇した。

野口さんの話だと、このとき「自慢」組は試験に落ちた。
試験官は、受験生たちの輝かしいSKILLではなく、
野口さんのWILLに賭けた。

これぞ、まさに“WILL” !

野口さんは高校まで、
勉強はすごい落ちこぼれだったと言ったが、
私は、野口さんの頭のよさにまいってしまった。
小論文という視点から見ても、
すばらしいプレゼンだ。

まず、他の受験生の「根本思想」を、
「自慢」と適確に押さえている。
見事なひと言要約だ。「要約おかん」だ。

そして、試験官に対する印象を変えるには、
「根本思想」を変えなければいけないことに気づいている。
まったくそのとおりなのだ。

どんな言い方をしようと、自慢は自慢。
聞き手の印象をガラリと変えるためには、
話の内容とか、言い方くらいを変えてもだめで、
「根本思想」を変えなければならない。

「根本思想」、つまり、話し手の根っこにある想いは、
どんな言い方をしても、色濃く聞き手に伝わってしまう。
「根本思想」は言葉の製造元だ。
ここにメスを入れることで、聞き手に与える印象は、
ガラリと変わる。

「ぼくの“WILL”を買ってください。」

これが、「僕の夢を聞いてください」
ではなかったところがミソだ。
いかにでっかい夢を語ったとしても、
単なる夢物語として受け取られたら、
説得力がない。

「ぼくの夢は、7大陸の最高峰を制覇することです。」
「へぇー、すごいね。」で終わってしまう。

野口さんのプレゼンには、
夢 と “WILL” を分けたポイントがある。
それは、「時間」を刻んだことだ。

時間の「決め」はおっくうだ。

たとえば、時間を入れなければ
私たちはわりと自由に願望を語れる。
「わたし、絶対自分史を出すわ!」
「両親をヨーロッパに連れていくぞ!」

では、それに日付を入れてください、というと、
大抵の人は無口になる。

企業にいたとき、
「事業計画とは、夢に日付を刻むことだ」
と教えられた。
最初はこの意味がわからなかったが、
自分で企画を立てる段になって、
アイデアをスケジュールに落としていくところで
本当に苦悩した。そのかわり、日程が組みあがっただけで、
ほぼ、仕事の全容が見えた気がした。

日時の決定がおっくうなのも、
日程が見えれば全体が見えるのも、
それだけ、時間の決定には、
さまざまな要素が絡んでくるからだ。
さまざまの小さな「決め」をしないと、
適切な時間の「決め」ができない。

また、人生の中で、時間という資源は限られている。
時間は、まるで命の単位だ。
だから「決め」には勇気がいる。

だからこそ、時間を刻んだ
野口さんの “WILL” は、
どんな人にもわかりやすく、ブレがなく、説得力がある。

私もひとつだけ、夢に日付を刻むとしよう。
わたしの“WILL”。

あの座談会の席で、
学生さんは、こう言いたかったのではないだろうか?
「学歴があるからどうの、まだ経験がないからどうの、
実力があるかどうか、なんて、そんなの知ったこっちゃあないよ。
自分が未来に何をしたいか、
何ができるかを見てくれ」と。

2003年、あなたの“WILL”は?


(注:上記、野口さんのが入試のとき書いたという登頂年月の資料は、
 野口さんの談話をもとに山田が再構成したもので、実際のものとは違います。)



Lesson131  1人称がいない


さきおととい。

観ていたビデオを止めたら、
自動的にテレビ画面にきりかわった。
そこには、
「モーニング娘。」の
新メンバーを決める番組がうつっていた。

オーディションで最終候補に残ったという
3人の女の子に、
女の先生が、ダンス・レッスンをしている。

先生は、3人の女の子と、
まったく、
まったく、
いったいぜんたいどうしたことだ、
というほど、コミュニケーションがとれないことに
絶望している。

女の子たちは、
ななめ下を見て、
表情がない。

女の子たちの身体は、
まるで、弾力のないゴムと鉛(なまり)でこねられ、
そこに置かれたかのように、
反応が鈍く、重い。

先生が、厳しく言っても、
さとすように言っても、
励ましても、
声がとどかない。

女の子たちは、ときたま、判断を迫られてこまったときだけ、
自分以外の2人のようすを探るように、
目だけを左右へ泳がす。
でも、先生を見ない。
ふたたび、ななめ下へ目を落としてしまう。

先生は、とにかく自分の言ったことに反応させようとする。
「返事をしよう」、それだけのことを
なんどもさとす。
女の子に復唱させる。でも、

「わかった?」

ときくと、返事をしない。
ひどく遅れた、タイミングで、
ほんのわずかに、身体が、
返事をするかのように気色ばむ。

先生が、「返事は?」と促すと、
引いて、ふたたび鉛の人形になってしまう。

再度、つよくうながされ、
鈍いタイミングで、
腹に力のない、気のない「はい」が、
だれからともなく、もれてくる。

3人のうち、だれが「モー娘」になれるかは、
このあとのダンスと歌で決まる。
それで、
プロの振付師と、ボイストレーナーが、じきじきに、
彼女たちをサポートするためにやってきた、
という場面だった。

3人の女の子たちは、
自分で「モー娘」になりたくて応募したのだし、
レッスンに、必死にくいついていくしかないし、
プロにレッスンをつけてもらえるのは、
めったにない、ありがたいことだから、
先生たちには、感謝、感謝だし、
はたから見れば、そういうひたむきな展開を期待する場面だ。

ところが、すべて上記の調子で、
レッスンどころではない。
あきれたダンスの先生は、荷物をまとめて帰ろうとするし、
歌の、男の先生は、
どうして、わからないんだ!? と、
先生の方が泣き出してしまった。

ダンスの先生は、「わかったら返事をして、
わからなかったら、この場で言って」と確認する。

「わかった人?」と呼びかけると、
だれも手をあげない。では、
「わからない人?」と呼びかけると、
これまた、手をあげない。
いったいどっちなんだ? 
怒りをとおりこした先生が、

「ここには“人”がいない」と言った。

「そうそう、この感じ!」と、私は、
次ぎ観るビデオもそっちのけで、
画面に食い入ってしまった。

私は先日、人に頼まれて
高校生の書いた文章を大量に読んだ。

読んでいてなんとも、はがゆい、息苦しい、腹立たしい、
不思議なストレスがたまる。
同じ作業をした文章のプロ4人のうち、2人に感想を聞いたが、
やはり、強いストレスを感じていた。

その、なんともやるせない感じが、
ダンスの先生の、「ここには“人”がいない」という感じに、
ピッタリ、共感したのだ。

文章が下手くそでも、バカなことを書いていても、
文章のなかにちゃんと、書いたその人がいる、というのはいい。
読んでいて、ヘンなストレスはたまらない。

だけど、そのうちの何人か、
無視できない数の人の文章が、
「書いた人がいない」という感じなのだ。

「おーい! あなたはだれですか? 
あなたそこにいますか?」
と原稿用紙に呼びかけたくなる感じ、
原稿用紙にそんなことをしても無駄なのに、
両肩つかんで、ゆすりたくなる感じ。

その様子を、同じ作業をした1人が、
「あなたの足はどこに立ってるの? って感じ」と言った。

彼らはもちろん、「自分」に立脚して文章を書いてはいない。
だから1人称は、「私は…」ではない。
また、「いまどきの若者は……」というような目線で、
平気でいまの若者のことを書くから、
「私たち若者は…」という意識でもない。
ましてや「われわれ日本人は…」ではない。
「おろかな現代人たちよ……」みたいな目線でも書くから、
この時代の人でもない。

かと言って、
空とぶ鳥の目で、俯瞰(ふかん)しているのでもない。
そうするための知識が足りない。

地面からも、時代からも、ナナメに浮き上がって、
人がいない虚空に向けて、何か言っている感じ。

書いた人がいない文章というものは、読み手もいないのだ。
読んでいても、文章が、こっちを見てくれない。
「その言葉、だれに向かって言っているの? どこを見てるの?」
と言いたくなる。

ちゃんと、その人がその人として、そこにいてくれない。

「1人称が“私”でない、というだけじゃなく、
1人称そのものが、文章にいない。
思春期の子は、まだ自分になれない、
というようなことが言われる。
でも、言い過ぎで誤解されるかも知れないけど、
この文章の1人称は、
まだ、人間になれない、という感じなの」

私は、同じ作業をしたもう一人に、
やるせない気持ちをぶつけた。すると、その人が、

「そうそうそう。
まだ人間になれない感じって、よく、わかりますよ。
でも、この子たち、
ふだんの生活では、私は…、私は…、って、
よく言いますよね。」

わたしは、
ミスタードーナツなんかで、高校生を見つけると、
会話に耳を傾ける。

たしかに、「私は…、あたしは…」とよく言っている。
その人が夏美という名前なら、自分で自分のことを、
「夏美はねえ…、夏美は…」とよく言っている。
会話の中に、1人称は、ちゃんといる。

テレビのシーンが切り替わり、
モー娘候補の女の子たちにレッスンの感想をたずねている。
女の子は、さっきとは変わってよくしゃべる。
ただ、その言葉づかいは、カメラ向けのものではなく、
なまりも、口調も、友だちとだべっている感じ。
一気にくだけてしまう。
さっきの、先生との距離を1万キロとすると、
今度は、相手との距離が、10センチくらい、
急に近い。

自分がないわけじゃない、
事実、日を追ってレッスンは進んだ。
彼女たちが特別問題児というわけではない。
どこにでもいる、いや、むしろ大勢の中から選ばれたのだから、
なにか持った子たちなのだろう。

では、あのレッスンのとき、
幽体離脱でもあるまいし、「自分」はどこにいったのだろう?
あのとき、彼女たちの中で、なにが起こっていたのか?

この状況を、ある人は、
「いまどきの若い子は、
あいさつができない、
返事もろくにしない、
人の目をみて話ができない。
そういうしつけしらずなこどもに、
プロが、芸能界のきびしさを教えていた。」

というんだろう。でも、そうではない。

あいさつができない子どもに、
「あいさつ」を教えていたのではない。
返事ができない子どもに、
「返事」を教えていたのではない。
ことがそんなに単純なら、
教えることのプロである先生は、
いとも簡単に教えたろう。

3人の女の子たちは、あがっていた、とか、
恥ずかしがっていた、というだけでもない。

どんなにあがっていても、
はずかしがっていても、
あがっているその人、恥ずかしがっているその人がいれば、
コミュニケーションは成立する。

小さいこどもが、はずかしがっている姿を想像するとわかる。
小さいこどもに、ニッコリ、笑いかけると
照れくさそうに、お母さんのうしろにかくれてしまう。
かげからこっちをのぞく。
「恥ずかしいのね」とお母さんが言う。
「恥ずかしがってんだ」と自分も思う。
恥ずかしがっている相手がそこにいて、
恥ずかしがってる、と思う自分がいて、
これはこれで、それなりのコミュニケーションになっている。

私は、講演のときなどに、すごくあがる。
「ズーニーさん、あがってましたね」と言われる。
「うん、あがってた」と答える。
あがっている自分がたしかにいて、
あがっているんだと思うまわりがいて、
これはこれでコミュニケーションになっている。

そうではなく、このときの3人の女の子とは、あきらかに、
コミュニケーションが成立していない。

相手の心が読めないのではなく、
そこに「その人」が居るのか居ないのか、
そこから疑わなければいけない、ひどく疲れる感じなのだ。

いったいこれはなんだ?

それにもまして、不思議なのは、
ちゃんと、その人が、その人として、そこにいてくれないと、
どうして、こんなにまわりは
はがゆい、消耗する、腹立たしい感じになるんだろう?
ということだ。

私は、たくさんたくさん文章を読んできて、
なのに、なぜ、
その人がその人として、ちゃんとそこにいない文章に出会うと、
そのたびに、また、新たに、
こんなにも、腹立たしいのだろう? 消耗するのだろう?

ダンスの先生も、歌の先生も、
あの涙や怒りは、ポーズなどではなかった。
もう、何人も若者は相手にし、教えてきたプロだ。
なぜ、憤りはつきることがなく、
涙は、あらたに湧き上がってくるのだろう?

ちゃんと、その人が、その人として、そこにいてくれないこと、
そこに新鮮な憤りを感じつづけられるかどうかは、
もしかしたら、
その人の教育力とかかわっているのかもしれない。

そこに憤ることがない人は、
教える力もないんじゃないんだろうか? 

同じ番組を見た人、
あるいは、似たような経験をした人は、
何を感じたか、ぜひ、きかせてください。


美容院。

カット以外のシャンプーやカラーリングは、
見習いの若い子たちがやる。
この子たちとコミュニケーションをとるのがなかなか難しい。

たとえば、シャンプーするときに、
いきなり熱いお湯で洗われたので、
「熱いんですけど」というと、
「すみません」じゃなくて、

「あ、そうですか?」

といって湯温を低くする。
次にすすぐときに、
またむちゃくちゃ熱いお湯をいきなりかけるので、
再度「熱いんですけど」と言わなくてはならない。

接客業を職業に選んだ子たちであるはずなのに、
彼らの中に客と結びつくような「接点」が感じられないのは
どういう訳なんだろう。

「若者との感覚のずれ」が自分にあるのかと思ったり、
「気が利かないのは経験が浅いからだろう」と思ったり、
「まだ若いから自分の意思をうまく伝えられるだけの語彙を
持ち合わせていないんだろう」と思ったり、

美容院のイスに座っている間中、悶々としていました。

(読者Pさんからのメール)


Lesson132 1人称がいない(2)


こんにちは、ズーニーです。

先週のコラムには、ひきつけられるメールがたくさんきました。
まず、こんな光景に、目が釘付けになりました。

<フリーズする子ども>

ボクは家庭教師をしています。
相手は中学校3年生。

ときどき彼は「フリーズ」します。

パソコン用語をあてはめるのもどうかと思いますが、
前からこう呼んでいます。
目が動かず、視線が分散?していて
どこをみているのかわからない。
体も特に動かない。
質問しても答えない。
うなずくことも首を横に振ることさえもない。

どうしたの?
むずかしかった?
頭痛いの?
トイレ?
ちょっと大丈夫?
おい…返事しろ返事…?
おーい○○くん? ちょっと…?

やっと彼は動き出します。

が、それまでのボクの質問がまるでなかったかのように
消しゴムをいじりだしたり、つめをいじりだしたり…
これにはかなりまいってしまいます。ん〜…

(読者、シンジさんからのメール)


…………………………

この感じ。

もちろん、相手はそこにいる。
なのに「いない」。

まだ、こどもだから、
うまくできなかったり、困ったり、
緊張でコチコチになったり、
はずかしくって逆に怒ったり、黙りこくったり、
ということはある。

でも、それは、
困っている子が、困りながらそこに居るんだな、
緊張でコチコチになった子がそこに居るんだな、
という感じなのだ。

そうではなく、この、「いない」感じは何だろう?

私も、高校生の文章で、
これと重なる現象に出くわしていた。

ちゃんと自分の意見を確立していない、とか、
言いたいことがわからない、とかいう次元ではない。
書き手そのものが「いない」、感じなのだ。

そういう文章にでくわすと、
私の中から、なにか、
はがゆいような、腹立たしいような感じがわきあがってくる。
もちろん、冷静にならないと指導はできないから、
「まだ、書きなれてないだけだ」
など、いろいろに考えて忍耐する。
場合によっては、スニーカーをはいて、
外をグングンあるいて気分転換する。
気をとりなおして、ナビゲーションを書く。

でも、また、そういう文章に出くわす。
また、同じような気持ちがわきあがり、
また、同じように忍耐し、気をとりなおして向き合い…
を繰り返すうち、私は、とても消耗していく。

そういうとき、
ヘタでも、少々はずれたことを書いていても、
ちゃんと書いた人が感じられる文章、
まるで、書いたその子の
声が聞こえてきそうな文章に出会うと、
一発で、身体もスカッ!と元気になる。

なぜなんだろう。
自分は、たくさん文章を読んできて、
もっと、ひどく文章が書けない子は見てきた。
「年寄りはきたない」のようなひどいことを書く子もいた。
それでも、怒ったりはしなかった。それに、
これらの文章は人がいないだけで、悪意はないのだ。

うまく説明できないのだけど、そのざらつきは、
最初にあげた美容院の例と、私の中で重なる。
わたしも、Pさんと同じような経験をした。

見習いの人が、
髪をあらってくれても、「はい」と言っても、話をしても、
どっか遠い、「接点」のない感じ。
それを、肯定的にとらえようとして、
でも、違和感が波紋のようにひろがるばかりで、
でも、悪くとるまいとして…、をやっているうちに疲れていく。

いつもの美容師さんが、
「おまたせ! 山田さん、今日はどんな感じにする?」
とあらわれると、気持ちが一気に晴れる。

家庭教師をしているシンジさんも、やはり、
その中学生に、イライラしたり、
いらだった自分がイヤになったりしたと言う。
でも、辛抱と、工夫の結果、
いまでは、教え子とのコミュニケーションは
ずいぶんラクになってきたそうだ。

この、「いない」感じは何なのか?

日ごろ、友だちとは、
「私は…」「ぼくは…」とよく言っている十代なのに。
彼らの、「私」「ぼく」はどこへ消えちゃうのだろう?

そして、私はなぜ、こんなにざらついているのか?

読者の「はるみ」さんからのメールに、
謎を解くヒントが、つまっていた。
それは、こんな書き出しではじまる。

<都市に人がいなくなる>

私は人類学を勉強している学生です。

私が興味を持っているのは、
「都市に人がいなくなる」という話しです。

こんなに人口過密な現代都市に、
「人がいなくなる」とはどういうことかといいますと、
例をあげると、
地下鉄の座席に座ったままお化粧している女性を
見かけたりしませんか?

お化粧は本来、だれかに会う前にする身繕いですから、
地下鉄に乗り合わせている私たちには、
彼女は「会っていない」ことになります。
また、私たちは彼女のお化粧の様子を見ていますが、
彼女にとっては「見られていない」ことになります。
まるで彼女の部屋のつづきのよう。

彼女にとって地下鉄は、
自宅から誰かに会う場所までの
単なる移動中の「通過点」で、
彼女の「存在」する場所ではないのです。

彼女のこれから行く、会社か、学校か、
あるいはサークルの仲間かも知れない。
その人間関係においてのみ、彼女は「存在」するのです。

反面、昔の街といえば、
だれもがお互いの存在を知っていました。
「どこどこの誰々ちゃん」と。
そして会えば挨拶をする。
「どこに行くの?」などとひとことふたこと、声をかける。

身体と身体、眼と眼の会った人とコミュニケートする、
それが身体的「場」です。

昔の街とは、
人間同士の身体コミュニケーションがつくる
「場」であったのです。

現在は、それに比べてどこもかしこも「通過点」
なのかもしれません。

(はるみさんのメールより)

…………………………

と、ここまでを読んで、私は、
「人間になれないのは、私?!」と、まず、思った。

私は、1人称がいない文章を読んで、
「まだ、人間になれないような感じ」
と感想をもらしていた。

文章の中で、もし、
この「地下鉄でお化粧」と似たことが起こっているとすれば、
書き手にとって、私は、「いない」ことになっている。
つまり、私は、人間というより、
電車のつり革とか、中吊り広告に近い存在だ。

読者の「悠花」さんは、
「コミュニケーションとは、自分が発したサインに対して、
 対象から、何らかの反応があって成立するもの。
 ズーニーさんが感じた消耗の裏には、
 私が人として認められていないという悲しみと憤りを
 含んでいるのではないか」と言った。

同じような指摘を他の方からもいただき、
ざらつきの1番目の要素は、
相手がそこに「いない」ことより、
ここにいる私を「見ていない」ことへの
「寂しさ」だと気づいた。

わたしは、寂しかった。

この問題に、とくに敏感になりはじめたのは、
ちょうど会社を辞めたころからだ。

自分が、その場に「いる」、とはどういうことだろう?

自分の中だけで何か「想って」いても、
まだ自分は、その場にいることにはならない。

そこで、自己表現することが必要になってくる。
自己表現は、言葉だけでなく、
行動とか、着る服とか、表情とか、
からだ全体を通してできるのだと、はるみさんは言う。

そうやって表現して、はじめて、まわりの人が、
「あ、山田さん、あんな面白い服着てる」
「あ、山田さん、あんなえらそうなこと言った」
「あ、山田さん、ずっこけた。おかしーい!」
と、私を見て、反応を返してくれる。

私は、そういう人の反応で、
自分を客観的に見る。
「自分はえらそうに見えちゃった。
 でも、ほんとはちがうぞ、こんなこと考えてるんだ」
とまた、自己表現をする

また、それに反応が返ってくる。
それで自分を認識して、また、自己表現する。

この繰り返しによって、
しだいに、自分という存在が、
その「場」に立ち上がってくる。
まわりの存在も、自分にとって人として立ち上がってくる。

そうしてできた場には、
疑いようなく「自分」がいるし、人が「いる」。
相手が無反応では、決して「場」は成立しない。

私は、15年以上を費やし、
そうやってつくった、会社という「場」を離れた。

つぎ、そういう場を立ち上げるまで、
目と目で通じ合い、身体と身体でコミュニケートできる
「場」はないのだ。

わたしが、日常の大半をすごす、
東京の仕事部屋に「人はいない」。
そして、みんなにとって、通過点に過ぎない
電車の中、都市、が私の行動範囲だとすれば、
そこには、「人がいない」ことになる。

その上、文章の中にも、
私を感動させたり、てこずらせたりする「人」がいない、
というケースにでくわせば、
「寂しさ」を感じても自然である。

私は、やっぱり人と通じ合いたい。
そして、住みたい街は、こうではないという想いがある。

「寂しさ」は、確かにある。
でも、私がざらつくのは、それだけではない気がする。
相手が、まだこれからの「若い人」であることなど、
何か、いままでずっと教育にたずさわってきてこその
ざらつきだ、と感じる部分がある。それは何だろう?

はるみさんは、さらに、
いまの都市は「隠れる」ことができるのだ、という。

地下鉄の化粧のように、
自分をその場に「いないこと」にする。

そして、十代の人も、
気詰まりになったときに、自分をその場から
消し去る方法を知っているのだと。

その方法とは何か?
彼らは、どこへいっちゃうのか?
そして、おとなでなく、こどもがこれをやると
どうして危険なのか?

次週、いただいたメールを手がかりにさらに考えてみようと思う。

(次週水曜日へつづく)

読んで、なにか、感じることがあったら、
どんな小さなことでも、関係あるかどうかわからないことでも
かまいません。手がかりを必要としています。
どうか、メールをください。          


1人称がいない「暖簾に腕押し、糠に釘」。
これが一番疲れます。

かつて「仕込んでくれ」と
上司から依頼されたヤツがこれでした。
入社2年目、なのにまったく戦力になっていない。
新人プログラマのレベルにも届いていない。
おとなしい性格、でも「とりえ」はそれだけ。

まずビックリしたのがメモを取ろうとしない事。
マンツーマンなのに質問をしない事。
そして、次の日にはすべて(!)忘れている。
やる気があるのか?、それが見えてこない。
この仕事が向いてないならさっさと辞めたら?、辞めない。

この状況が2ヶ月も続くと僕がストレスを感じるようになり
僕の一生懸命さ(?)が
指導する声をしだいに大きくしていき、
しまいに周囲の人は
僕が「怒鳴ってる」か「苛めてる」と
思うようになってしまった。

いまだに、どうすればよかったのか僕にはわかりません。

(読者 ケビンさんからのメール)



ハンドルネーム・鬼瓦 権助と申します。
僕は、3年前に人間関係のストレスから退職をしました。

「フリーズする子供」を読んで、
会社に勤めていた時の自分と、
とても似ていると思いました。
僕が上司や先輩から、よく言われたセリフは、

「鬼瓦君、耳から煙が出てるよ。ショートしちゃった?」
「鬼瓦君、黙るのはズルイよ」
「鬼瓦君、何で訊かないの?」
「鬼瓦君、全然違うよ!」の4つでした。

また、中学三年生の彼は、
それまでのボクの質問がまるでなかったかのように
消しゴムをいじりだしたり、つめをいじりだしたり
という行動を取ったそうですが、
僕の場合は、とにかく相手が困っている様子なので謝りました。

しかし、謝っているにも関わらず
相手は落胆の表情をみせるのです。

落胆の理由は、今になってやっと分かります。
上司や先輩は、僕の中に上司や先輩が「いる」のだけど
「いないことを」感じたのでしょう。
そこに、冗談を一言・・・。
せめて、皮肉や弱音でも良いのです。
少しでも「本音」を付け加えれれば、
そこからコミュニケーションがとれたのでしょうが・・・。

今、僕は、「自分を大切に出来ない人間は、人も大切にできない」
と思っています。

他人とコミュニケーションをとっていて、
自分を大切に思うと、他人からの攻撃を避けようとします。
攻撃を受けると心が痛いですからね。
その「攻撃を受けて痛い部分」が「他人にもある」と思うと、
他人も大切に思うことが出来ると思うのです。

逆に、「自分を大切にすること」を知らない場合、
「他人の痛さ」に鈍感です。
「自分の大切な部分」がはっきりしないので、
相手の「痛みの部分」も、判断し辛いのです。
また、他人が「居て」も「居ないもの」とすることができます。
大切にするべき自分も「居ない」からです。

更に、「自分を大切にすること」が出来ないと、
他人の態度に対して上手く反応ができません。
「自分の大切な部分」の「守備範囲」があいまいだと
相手の態度に含まれるものを計れないからです。

結果、悪意であれ、善意であれ、
無条件に受け入れてしまいます。もしくは、無条件で拒絶します。

彼の「フリーズ」は、
相手の態度の種類が判断できないことへの
ジレンマだと思います。
固まる感じ、良くわかります。

(読者 鬼瓦権助さんからのメール)



Lesson133 1人称がいない(3)

こんにちは、ズーニーです。
先週のコラムには、ものすごくたくさんの、
読者の方々の体験や想い、思索が寄せられました。

なんといっていいか、
ほんとうにありがとうございます。

衆知を集める、ということの力を、思い知りました。

メールには、
相手の1人称不在の感じに苛立ち悲しむ立場、
鬼瓦さんのように、自分がうまく出せず苦しむ立場、
仕事や学問経験を通じて、このジレンマを超えようとする立場、

どの立場にも切実さがあり、
これらをシャッフルして、シャッフルして、
ひとつに溶け合わせられたら、
なにも悲しいことはないのに、
複雑で、あたたかく、ひろがる世界であるのに。

この世界から、小さな断片としてちぎれ、
一人でものを考えるのは、なんと痛く、
なんと尊いことなのだろうと想いました。

いただいたメールを、いったいどう生かし、
どう読者の方々に返していったらいいのだろう。

あまりに様々なメールを、
「あんな見方もある」「こんな見方も」と、
総花的にあつかうのも、
公約数・公倍数をだすのも、
なにか自分を安全なところに置いていて
「違うな」と思います。

いただいたメールは、
このコラムの先の展開で、
直接・間接的に活かしていくことは、
言うまでもないのですが、

まず、いまの私の考えを恐れず出してみようと思います。

企業に、文章コミュニケーションの講師でいくと、
意外に喜ばれるのが、
「私たちは…」「田中さんは…」のように、
できるだけ主語を人間にして書く技術です。とりわけ、

1人称、「私は…」で文章を書く

というアドバイスが大好評です。
社会人の書く文章には、1人称「私」がほとんど出てきません。
結果、こんなあやしい「受動態」が出現するのです。

「通常、点検は2人体制とされています。
 それが、実行されなかったため、
 起こったミスと見られます。」


え? だれがミスを起こしたの? 
「見られます」って、あるけど、見ているのはだれ?

そこで、主語を人間にして書くとこうなります。

「土木2班の私たちは、
 点検は2人体制というルールを決めています。
 私は、それを守らず1人で点検をしました。
 また点検そのものも甘かったため、
 ミスを起こしてしまいました。」

これで、ずいぶん分かりやすくなります。
ある企業の5年目社員の男性は、
私にこう言いました。

「学生のころは、文芸部にいたせいもあって、
 私は…、僕は…、で文章を書いていたんですね。
 ところが会社に入ってみると、
 みんな主語‘私は’で書いてない。
 おかしい、と、ずっと違和感がありました。

 ところが、2年3年するうちに、だんだん主語‘私は’
 で書かなくなりました。
 5年目のいま、まったく書かなくなりました。

 今日の研修で、それを思い出しました。
 また、主語‘私は’で、
 ものを書いてみようと思います。」

社会人の人は、
たった一日の研修でも、おそるべき文章の上達をみせます。
とくに要所に、主語「私は」を入れると、
すっきり伝わる文章になるだけでなく、
「責任感」や「主体性」がぐっと前に出てきます。

会社は、どう考えるか?
私は、どう考えるか?
私と会社はどうかかわるか?

そういう関係性が、
「私」を核に、はっきりと秩序を持つからです。
社歴の若い、ある女性は、こう言いました。

「電車でケータイを使わないようにするための
 提案文を書いたんですが、
 読み手はだれなのか、
 最初、ほとんど考えてなかったんです。
 おそらくこれを書いたときの私は、
 私鉄の社長さんとか、上の人に読んでもらって、
 上の人になんとかしてもらおう、
 という気だったんだと思います。

 でも、それで状況は変わるか?

 なぜ、電車でケータイを使う人がいるかというと、
 その人たちは、心臓のペースメーカーに与える影響とか、
 ほんとうのところ、よく‘知らない’んです。

 まず、そういう人に知ってもらって、
 意識を変えてもらうことが先だな、と気づいたんです。」

この女性の場合、
読み手は、最初もやもやしていて、なんとなく「上の人」。
それが、最後には、
「携帯の知識が不足している乗客に、ひとりでも多く」
だと、はっきりします。

このように、おとなの場合、主語「私」を入れて書くと、
「読み手」もはっきりします。
「私」の立脚点が見つかるのと、
「読み手」を発見するのは、ほぼ同時です。

社員としての私は、世の中に何をしたいか?
私は、会社の人たちに何ができるか?
個人としての私は、社会とどうかかわるか?

といった、かなり複雑な人間関係も整理できます。

社会に出て働く私、
趣味に熱中する私、
一家のお父さんである私、
上司としての私、部下としての私、
かつて子どもであった私、学生であった私。

社会人は、すでに世に出て、
いろんな人間関係を結んでいて、経験知も高い。
ただ、それらが、ばらばらなのが問題なだけですから、

要(かなめ)のパーツ、主語「私」を入れることで、

一気に、自分と自分をとりまく世界の関係を押さえた
アウトプットができるようになります。

ところが、ごくまれですが、こんなケースもあります。
仮名で、用司(ようじ)さん、26歳。
自分がいちばん言いたいこと「意見」の欄に、

「埼玉局は、活性化する。」

と書いています。主張がわかりにくいですよね。
それで、主語「私は」で、
この文を書いてみるよう勧めました。
他の人はたいがいすぐ、入れられます。

ところが、用司さんは、しばらく考えて、
「できません」と言いました。
慣れていないだけだと思ってわたしは、

「私は、埼玉局の一員として、局を活性化させたい。」

のですね? と質問しました。
用司さんは、「ちがう、埼玉局の人間ではない」
と言います。そこで、

「私は、埼玉局を活性化したい。」
「私は、埼玉局の人たちに、局を活性化してもらいたい。」
「私は、上の人に、埼玉局を活性化してもらいたい。」
「私は、ただ単に、埼玉局は活性化すると思う。」

など、いくつかの選択肢をあげて、
じっくり考えていただきました。
しかし、用司さんは、
自分のいちばん言いたいこと=意見の欄に、
自分自身で書いた文の中に、どうしても
主語「私」を、入れることができませんでした。

用司さんは、「関係把握力」に
基礎的なつまずきがあるのではないか、
高校生にやってもらっているような、
「関係をつかむワーク」
を、優しいものから、順順に、複雑なものへと
やり直してもらったほうがいいのではないか、と思いました。

十代には、
「関係把握力」につまずきを抱えた人も多くいます。

で、そういう子は、
おとなのように主語「私は」を入れたら、
飛躍的に解決、とはいかないのです。

おとななら、
「昨日、みのもんたさんが、
 タマネギの皮で血がサラサラになると言っていた。
 私は、これはいい、
 おばあちゃんにすすめてみようと思った。」
と書くところを、

「タマネギの皮が血をサラサラになる」

のように書きます。
これ、単純なテニヲハではなく、関係がつかめないんです。

そもそも、みのもんたさんの意見と、自分の意見の
区別がつきません。だから、悪気なく、
みのもんたさんの発言を
自分の言葉のように書いてしまいます。
そして、タマネギの皮で血がサラサラになることが、
自分にどういう関係があるのか、
なにか想っているから書くんだけど整理して語れません。
そして、とどめに、今それを書くことが、
自分とどういう関係があるかわからない。

結果、唐突に「タマネギの皮が」って何が言いたいの?
だれに向かって言ってるの?
十代にしては少々中年っぽい話題だけど、
あなたの足はどこに立っているの?

そもそも、あなたはだれ?

という印象になります。
でも、こういう子も、他人の文章を読んで、
自分の違和感、反発、共感、発見を
洗い出すワークをすると、
他人の意見と自分の意見の区別がついてきます。
地道に基礎をかさねることで、関係がつかめてきます。

1人称がいない文章を書く子は、
年齢のわりに、
関係をとらえる力が育っていないのではないか、
あくまで、これが私の仮説です。

すでに社会に足が立っているおとなが、
「うちの会社が…」「上司が…」といった1人称に、
ちょっと「私」の影をひそめるのとは違い、

十代には、これから世に出て、
社会という大海原と、「自分」を関係づける、
一大事業が待っています。
基礎的な関係づけができないままになるのは危険です。

なぜ、十代でも関係づけのうまい人と、
おとなになっても関係づけられない人がいるのか?
周囲の感じる苛立ちはなにか?

さらに、次週につづきます。


Lesson134 1人称がいない(4)


今回もまず、読者のメール、
こんな「現場の声」から、おききください。


<からだを消し去る>

私は都内の鍼灸師です。

「1人称がいない」の中の、
自分を消し去る、という話を読んで
ちょっと感じたことをメールします。

彼らは、自分を、もしくは周りの人間を
消し去るのと同様に
「自分の身体をも」消しているんじゃないかな、
と思いました。
別の言い方をしてみると、

まるで五感と脳だけで存在しているというか。

私は鍼灸師をしていますので、
時々自分の身体に対する感覚の薄い患者さんと
出会っています。

端から見ると、
思いっきり体が斜めになっているんだけど、
本人はちゃんとまっすぐ立っていると思っている。


「これで今まで変だと思わなかったの?」と聞いても、
「いいえ全然、何か変ですか?」
と聞き返されたりもする。

または、電車のシートにお尻ではなく、
背中で座って足を投げ出している男の子なんてのも、
もしかしたら体のフィードバックに対して
鈍かったりするのかもしれません。

身体は様々なサインを出しているんだけど、
脳の方でそのサインをカットしてしまって
鈍感になっている人って、
老若男女問わず、
結構いるんじゃないかなって気がします。

そしてそのことに対する対処法として私が考えるのは、
次のようなものです。
それは、自分の身体を思い出してみること。

すなわち、例えば運動することで
体と脳とのリンクを
太くすることなんじゃないかなあと思います。

(鍼灸師harryさんからのメール)

………………………………………………………………………

あともう1通、高校生から届いた、
やはり、「現場の声」をおききください。


<教室の風景>

僕は岡山の高校に通っている者です。

僕もクラスの中で「ひとがいない」状態を感じます。

例えば、クラスの1人が風邪で欠席したとき、
中学の頃は授業が始まる前に
「あれ? ○○が来ない……、何かあったのかな?」
とすぐに気が付いたのですが、
高校では、授業の始めに
教師が出欠を取るときに初めて分かるんです。
「あ、この人来てないんだ。」って。
ひとつ席が空いているのに違和感がないんです。

中学校時代は、クラスの全員が見える範囲に
一人一人にそれぞれの居場所があって、
その居場所から主が出入りすると
クラスの風景が少し変わって見えました。

でも今は、居場所が見える範囲に無い様に思えます。
幾つかのグループに分かれて壁をつくり、
特定の相手としか関わらない様な…。
そんな感じです。

つまり
「いてもいなくても同じ」
「どうでもいい」
と思っているのです。

だからそんな人は背景とおんなじ。
喋り声もBGM扱い。
かなり勿体無い事をしている気がしてなりません。
 
(茂くんからのメール)

………………………………………………………………………

1人称がいない文章を書く子は、
関係をつかむ力が育っていないのではないか、
と、先週私は、書きました。

関係をつかむ、関係づける、
という力は、ただそれだけのようですが、
一事が万事、さまざまなところに影響します。

関係をとらえる力が、
ほんの1ミリズレている、とか、
歳のわりにちょっとだけ未発達、という場合、
その1ミリ、そのちょっとが、
いろいろな場面に関わってきます。

人が、ものを書くとき、じつは、
無意識に、かなり高度な、関係づけを
やってのけています。

書くことがうっとうしい理由のひとつはここにあります。

はじめての人にメールを書くとき、
ひどく骨が折れるのは、
未知の相手にとって、このメールは何か?
自分は何者か? 相手は何者か?
相手との関係を発見しているからです。
接点の取り方、
距離の取り方、すべてトライアルです。

たとえば、
入試で小論文を書く、という場面でも、
人との関係をつかむことが必要です。

「え? 紙に向かって1人で小論文を書くだけでしょ、
 どこに人間関係があるの?」

と言われそうですが、
登場人物は、たいてい3人以上はいます。

自分、
資料文の筆者、
文章の読み手である大学の採点官

資料として出された文章を読みとった上で、
自分の考えを書く、という入試スタイルが多いのですが。

たとえば、資料文に、「いまどきの若者は……」
など、痛烈な批判が書いてあった場合、
腹を立てて、本気で筆者とケンカをはじめる子がいます。

しかし、ほんとうの読み手は、「大学の採点官」なのです。

それがもし、公正さや論理性を求める法学部の入試なら、
感情的になって筆者とケンカしている場合ではありません。
ちゃんと読み手の大学の方を向いて、
自分の筋道立てた考えを伝えなくてはなりません。

また、だれかの意見を「引用」して書けば、
その「だれかが言った意見」と自分の考えの区別や、
関係もはっきりさせる必要があります。

そうこうしているうちに、引用にのっとられたり、
資料文のなぞりになってしまったり、
という人も出てきます。

それ以前に、読み手はだれか、
なんのために小論文を書いているか、
自分が言いたいことは何か、未整理なまま、
虚空にむけてつぶやくように文章を書いて帰る子もいます。

一方、文章がずば抜けてよくて、受かった子に話を聞くと、
関係をつかむ能力のすごさに驚きます。

例えば、タカコさんの入試の資料文は、
A.B.Cの3人の鼎談でした。
タカコさんは、すばやくA.B.Cの筆者それぞれの意見を
正確に読みとります。
そして、3者の関係を整理します。

「3人のうち、
 BとCの立場は同じだ。
 Aはこの2人と対立している。
 つまり2対1だ」

そして、会場にいるたくさんの受験生と
自分との関係を考えます。

「2対1だから、ほとんどの受験生は、
 B,Cに賛成する意見を書くだろう。
 Aにだけ反論すればいいからだ。
 でも、だからこそ、私は、Aの立場で書いてみよう」
と、自分の立脚点を定めます。

資料文にでてくるAさん、Bさん、Cさんと自分の関係、
読み手である大学と、書き手である自分の関係、
他の受験生と自分の関係を、
限られた時間内に、整理して、つかんで
自分の立場をつかんでいるのです。

それは合格するだろう、と私は思いました。

では、同じ高校生でも、
関係把握に非常にすぐれた子と、
未発達の子と、どこが、ちがうのでしょう?

驚くのは、タカコさんをはじめ、
関係把握にすぐれた人が、
基礎をコツコツ、コツコツ積み上げた、
努力の人だということです。

素晴らしい関係づけの能力を発揮する子も、
特別なことはやっていないのです。
「読む→考える→書く」
これを第三者から見て批評してもらって、また、
「読む→考える→書く」
これだけです。
しかし、数多く、自分なりに
工夫しながら続け、積み上げている。

関係把握にすぐれた子は、
まず、読む力がすごくあるのに驚きます。
人の意見を、聞く・読む・理解する、
というのは、外界との接触の第一歩のような気がします。

そして、絶対に、長い難しい複雑な話を
一発でポン!と読める、聞けるようにはなりません。

まず、易しいものから難しいものへ、
単純なものから複雑なものへ、
具体的なものから抽象度の高いものへ、
とコツコツ積み上げた結果、長い文章を、
すばやく、正しく読めるようになっています。

こうした積み上げがあるからこそ、
未知の大人に出会っても、
その発言を正しく、核心をはずさず聞けるのです。

理解・読解が深く、正しければ、
まったく未知の状況に置かれても、
自分をとりまく人間が言っていることは理解できます。
正確な理解をつみあげれば、
まわりは、しだいに見えてきます。

次に、考える。
理解した相手の意見に対して、
自分の違和感、反発、連想したことなどを
洗い出すことからはじまって、
徐々に、自分に問いかけ、
相手とは、ちがう、自分の考えを引き出していきます。
これも、単純な思いつきレベルから、
しだいに、深い、複雑なことも、
考えられるようになります。

そして、それを書いて、表現し、
評価や反応を受けることで、
少しづつ、自分の想いと言葉のブレをなくし、
相手との関係のズレ、
自分の立場を修正します。
徐々に、自分の考えを伝える術を身につけていきます。

勉強の席で、
「読む→考える→書く」をあらたまってやるか、
日常生活の中で、
「聞く→考える→話す」を自然にやるか、
どちらにしても、
コツコツやりつづける生活があって、
はじめて、人は、自分の身近なものから、
しだいに自分と距離のある人や問題に対しても、
「リンク」をはれるようになっていきます。

そして、未知の相手や、未知の状況の中で、
「理解する→考える→表現する」術を、
試し、磨き、工夫する機会は、
学校でも、日常生活でも、だれにでもおとずれています。

年のわりに関係把握が弱い人は、
なんとなくその機会をのがしてきてしまったのではないか、
やった人と、なんとなくやらずにきてしまった人の差、
ではないかと、今、私は考えています。

この問題、来週もさらに考えていきますが、
最後に、以前紹介した人類学をまなぶ学生の
「はるみ」さんのメールを紹介しておきます。
あなたは、どう考えますか?


<城>

現在の都市は「隠れる」ことができます。
自分の「身体」がその空間に存在しても、
地下鉄でお化粧をしている人のように、

「自己」は「いないことにする」ことができます。

それはコミュニケーションの
「場」を形成しないことによってです。
(会話しない、視線をあわせないなど。)

また、逆に、自分のしたいコミュニケーションは、
Emailや携帯などで、身体を移動しなくても、
とりたい時にとれます。

たとえば、一人で喫茶店にいても寂しくない、
友達と携帯でつながっているから。
Emailも、自分の好きな時に出し、
返事をしたくなければ無視できる。
面と向かってはいえないことも、
メイルだったらいえることもありますよね。
うそもつけるかもしれない。
理想の人間関係を築けるかもしれない。

つまり、「自己」というものを、
自分の身体的、社会的存在から一時的に切り離し、
「自分の好きな居場所をつくって存在させることができる」、
のだと思います。

自己の存在に悩む若者が、
一番逃げ込みやすい自分の「城」
(例えば、自分を説明しなくても、
 完全に受け入れてくれる、
 ごく親しい気楽な人間関係など。
 それはひとつとは限りません)
をつくり、そこにちゃっちゃと
自己を形成してしまおうとすることは、
簡単だけれど危険だとは、彼らは気付いていません。

だからこそ、自分のユートピアに住んでいる若者達は、
「私は〜」という言葉を多用して、
自分の「城」で羽をのばします。
でも自分のつくり出したお城以外での「私」という言葉を、
彼等は使えないのです。

この問題の根本は、子供達にだけあるわけでもないし、
emailや携帯、テレビなどの
コミュニケーションツールの問題でもない、と思います。
少し断定的にいってしまうと、
人々が「自分が望む自分」と「現在の自分」というものに、
大きなギャップを抱いているからではないか、と思います。


Lesson135 1人称がいない(5)


こんにちは、ズーニーです。
今回もまず、「教える現場」のこんな声からお聞きください。


<忘れもの>
2年間ほどインテリアデザインの講師をしていました。
生徒は18、19才。

忘れ物をした生徒がいました。

ぼーーーとしているので、
聞いたら教科書忘れたっていうんです。

「となりの子に見せてもらい。すぐ作業するし」
「ううん……。先生の、コピーさして……」
「……。(驚)」
「なあみんな、教科書わすれたから
 コピーしてくるって……。ほかにいるの?」

18人手をあげました。

他にも私の意見を
そのままコンセプトにする子やいろいろいて
切りはありませんでした。

最近、久々に卒業生の一人から、
突然携帯メールが来ました。
私が少しだけ雑誌にのったので見た、という内容でした。
その2ヶ月後、その子からまた携帯にメールが来ました。
有名なインテリア事務所を紹介してほしい、
という内容だけ……。
3年間会ってもいないし、電話もしていません。
少し怒り気味に
「今のあなたの実力も知らないのに紹介できない」
と返しましたが、
何も返事は言ってきませんでした。

わたしは I-modeかっ?
かなしかったです

(読者 Iさんからのメール)


<口コミでやってくる生徒たち>

わたしも、若い子たちに教えることが多い立場にいます。
「あそこに行くと、いいことが起きるらしい」という、
口コミで人が集まるところで、
人生がどうやったら楽しくなるのか、
わたしの人生経験をふまえて教える仕事をしています。
でも、伝わらないときは悔しい。
例のオーディション番組は見てないので、
よくわかりませんが。
文章から、先生たちの悔しさは、とても伝わってきました。

「なんで、自分から来ているのに、つかもうとしないの?」

よく恋愛相談に今の人たちはやってきます。
そんな子たちに言うのは、愛されたい、と言っても、
愛されるにも、つかむことが必要なんだ、ということ。
つまり、自分の手を自分でのばさなければ、
どんなに相手が何かを差し出しても、
受け取れないんだよ、ということ。

これさえも、教えられなければ
わからなくなってしまっている。

(読者 あねちゃんからのメール)

………………………………………………………………………

2つ、先生側の声を紹介しました。
あとひとつだけ、こんどは、生徒の声をお聞きください。


<お前は宇宙人か?>

今、大学卒業後、大学の再受験をしています。

大学では、
教官の方々にかわいがっていただいたこともあり、
いろいろと論文などの指導を受けてきました。

その中で、「問い」をたてるのと同程度に、
「論拠」の確かさについて、しつこいほど求められました。

教授の方々は「常識を疑う」のが仕事です。
ニュースひとつ見ても、
その「裏の意味」を読もうとします。
彼らに対して、ニュースやワイドショーのような、
「問い」と「答え」が
1対1のものを持ち出して書こうものなら、
ひどく怒られます。
かくいう私も、何度も怒られました。

「お前は宇宙人か? どこから声出してんだ?
 分からないなら、分からないなりに書いてこい。
 いいか、分からないってのは大事なんだぞ。
 それをきちんと把握することによって、
 お前独自の視点ができてくるわけだ。
 研究ってのは、
 分からない溝を埋めるためにあるんだろ?」

今も深く心に残っています。

また、一般の科学論文を見る限りでも、
審査を通ったものでさえも、
「わからない」と言っても許されています。
ただ、それらの論文には、
何が、どうわからないのか、とても明瞭に書かれています。
また、それが次の「問いの方向」にきちんとなっています。

そのような教官が、小論文の問いを作り、審査するのです。
私にはどうしても、
宇宙人のような、どこか他人事の小論文が
受験に通るとは思えないのです。

(読者 一人さんからのメール)

………………………………………………………………………

この、1人称がいないシリーズを考えていくうち、
早い段階から、私の中に、
わきあがってきた「問い」があります。
それは、2番目のメールにもあった、

「なぜ、つかみにいかない!?」

です。例えば、自分から強く望んで受けたオーディションで、
最終選考に残る、というような場面です。

何千、何万という人の頂点に立った。
もう、客観的にみて、可能性があるかないかとか、
自信があるとか、ないとか悩むような段階ではありません。

可能性があるからこそ、その場に立てた。

すべてのお膳立てはそろった。
あとは、自分で手を出してつかむだけ。

この先何十年生きても、
2度とこないかもしれないような人生一度のチャンスです。

そういう状況がわかっていて、
わざと自分の不利になるようにふるまう
人などいるでしょうか?

あの、「モーニング娘。」
最終審査前のレッスン1日目、
女の子たちは、「つかみに行かなかった」
のではなく、「つかみに行けなかった」、
と考える方が自然です。

それは、
自分をとりまく関係性が見えていなかったからです。

では、なぜ、ダンスや唄の先生、
私をはじめ、見ている人の多くは、ジリジリ気を
揉んだのでしょうか?

彼女たちをとりまく、
関係性がはっきり見えていたからです。

岡目八目、ただでさえ、当事者は状況が見えにくく、
はたで見ているほうが、前後や人物の関係がとらえやすい。
とくにテレビでは、視聴者は、時系列を追って整理され、
人物関係も、字幕とナレーションで、
わかりやすく説明されたものを見ているから、
彼女たちをとりまく関係性、
彼女たちが最優先でやるべきことが、
一発でわかるのです。

関係性がわかった人から観ると、
とんでもないことが起きようとしている。
可能性ある若者が、1度きりのチャンスを
みすみすドブに捨てるかもしれないのです。
そこで、多くの視聴者は思いました。

「なぜ、つかみにいかない!?」

では、私はどうか、と考えました。
私は、自分が置かれた状況を、ちゃんとわかっているか?
私は、日々、
訪れては消えるチャンスを生かしきれているのか?
そう考えると、実にもったいないことをしています。

もし、自分のこれまでの人生と、
いま置かれている状況を、整理・編集して
ドキュメンタリーにして放映されたなら、
見ていて苛立つ人は、いっぱいいると思います。

「山田さん、どうしてそこでつかみにいかないの?!」
「山田さん、大事にするのは、その人じゃない、こっち!」
「そんなとこで、そんなことしてる場合じゃないでしょ!」

つかみにいかないのではなく、
自分の置かれた状況がつかめていないために、
自分の前に横たわっているチャンスも、
そこで生かせる自分の可能性も、見過ごしてしまい、
それゆえに「つかみにいけない」、のだと私は、思います。

わたしたちは、
自分をとりまく関係性を、
思い出し、つかむことが必要です。
人によって、いろいろな方法で考えていいのですが、
ただひとつ言えるのは、
決して「空気を読む」というような漠然とした作業では、
ない、ということです。

わたしは、まわりが見えなくなったとき、
ときどき、こうやります。
状況把握は、自分をとりまく人物との関係の把握、
だと思っています。

自分に関わっている主な人物を、
1人1人、思い出し、
「自分に何をしてくれたか?」頭を使って考えるのです。

例えば、クライアントは、何をしてくれたか?
編集者は、何をしてくれたか?
家族は、何をしてくれたか?

このときのコツは、形容詞など、
いっさいの修飾語を省いて考えることです。
修飾語に頼ると、どうしても事実関係が甘くなるからです。
例えば、ある会社員の女性が、自分のまわりの
人を、このように洗い出したとします。

父は、うざい。
母は、うるさい。
部長は、えらそうだ。
カレシは、優しい。
先生は恐い。

これでは、すべて主観で、事実関係がわかりません。
修飾語禁止で、
「いつ? だれが? 何を? どうした?」
で考えてみると……、

父は、4年間、大学の学費を出してくれた。
父は、アパートの保証人欄にハンコを押してくれた。
母は、今日、洗面所のタオルを取り替えてくれた。
母は、昨日、頼んだテレビ番組を録画してくれた。
部長は、今期、希望のポストに異動させてくれた。
部長は、昨日から、
うちの課のバイトを1人増やしてくれた。
カレシは、1年前から、私に、金を借りている(?)
カレシは、私の誕生日に、私に、金を借りている(?)
先生は、この6年で、私にピアノを教えてくれた。
先生は、進路に悩んだとき、私に、大学を紹介してくれた。

修飾語を取ることで、好き、きらい、感じがいい、悪い、
ではなく、事実をキーにした関係が見えてきます。

さらに、これに、
「なぜ?」をくわえてもいいと思います。
部長は、なぜ、今期、
希望のポストに異動させてくれたのか?
というように。

こうして、1人1人と、自分の関係を見ていくと、
次第に、自分に与えられている、大小さまざまな機会、
自分に求められていることなど、
自分をとりまく、周囲の事実関係が見えてきます。
直接、何が求められ、何が期待されているのか、
相手に聞いてみるのもいいと思います。

1人1人との間の
事実確認を別個にしていくと、
不思議なことに、頭の中の整理では、終わらず、
「気持ち」に落ちてきます。
周囲の事実関係が、あるまとまりを持ったときに、
何らかの気持ちがわきあがってくるのです。

さきに紹介した一人さんのメールでは、教官の
「お前は宇宙人か? どこから声出してんだ?
 分からないなら、分からないなりに書いてこい。
 いいか、分からないってのは大事なんだぞ。
 それをきちんと把握することによって、
 お前独自の視点ができてくるわけだ。
 研究ってのは、
 分からない溝を埋めるためにあるんだろ?」
という言葉が、頭ではなく、
今も一人さんの「心に」、深く残っているとあります。

小論文の読者は、大学教授です。
その読者から、直接、「宇宙人!」と怒鳴られるほど、
関係性が読めない状態からスタートし、
長い論文指導のはてに、
一人さんと、読者、そしてものを書くことの関係が、
まとまりを持って、心に落ちた瞬間だったと思います。

自分の本当の考えを言ったら、点数は低く、
社会に、打たれるのではないか、と恐れる人は大勢います。
しかし、自分をとりまく人物一人一人を把握していったとき、
自己表現を阻むモンスターなど、どこにいるのでしょうか?
問題は、別のところにあるのではないか、
まわりはきっとこう思っています。

「なぜ、つかみにいかない!」


Lesson136 1人称がいない(6)

こんにちは、ズーニーです。
まず、この読者のメールからお読みください。


<存在を完全に消すテクニック>

今回の「一人称がいない」というテーマは、
子供の頃からずっと無意識に、
だれかにその核心を言い当てて欲しかったテーマ
だったように思います。

なるべくなら「自分で答えを出したいテーマ」です。

私は今21歳の大学生ですが、
小、中、高と、つねに学校のクラスの中に
その感覚を感じていたように思います。

例えばクラスの誰もしたくない委員を決めるときなど、

先生が挙手を求める時がありますよね。
そういう時、彼ら(「彼ら」なんて言い方は嫌ですが、
その時の彼らは「彼ら」としか言いようが無いのです)は、
個人を完全に消します。
一人一人はただの「生徒」という記号になって、
その集まりでまた「集団」という
記号を作り出そうとしている感じがします。

一人一人の個性は、
例えばその委員を決める取っ掛かりになるわけですが、
そういうものを全て消す事によって、
例えば30人クラスなら完全な「30分の1」となって、
ランダム性で身を守るという、
自分の身を守る迷彩服のような
「テクニック」なんだろうなあと。

本当に、みんな何故そこまでと思うほど、
完全に気配を消すんです。
純粋に、そのテクニックが熟練されているのです。
しゃべりませんし表情も出しませんが、
表情がないだけではなくて、
そこでは「何も考えない」ことが一番有効だ
ということを熟知して、実行している感じがしました。

「○分の一」の存在であることが
どれだけ便利かということについて、
皆知りすぎているのではないかという気がします。

結局精神的に追い詰められた自分が、
「や、やります!」とか言ってしまう事が何度も。
そう決まると、途端に皆深呼吸して
いつもの友達としての人間に戻るんですよね。

(読者 21歳の大学生さんからのメール)

………………………………………………………………………

このメールで、存在を消すことを、
サバイバルテクニックと見ているのが新鮮でした。

若い人は、どっかで敏感に時代を嗅ぎとっている。

今までの世の中、
やっぱり「○分の一」の存在として生きるのが、
ラクだったのではないでしょうか。

私自身、80年代に
会社員という、
千何百分の1の存在になることを選びました。
企業も右肩あがり、
安定した収入があり、すみずみまで保障され、
仕事の規模は大きく、やりがいもある。仲間も多い。
そのくせ、自分がとるリスクはものすごく小さい。
当時、残業はきつくとも、どこかで
「サラリーマン天国」であることを感じとっていました。

20代のとき、私が、千何百分の1の存在を選んだのは、
まだ経験もなく、
突出した能力もない、弱い自分を守りつつ、
極力楽に、極力おおきく、
「自分を生かす知恵」だったのではないかと思います。

だから、おとなが、どんなきれいゴトを言っても、
こどもは、その敏感な臭覚で、
「○分の一」の存在になることのうまみをかぎとっていて、
日々、それようの訓練を積んできたのではないか、
という見方も成り立ちます。

そして、いま、ものすごく変わっていく時代の中で、
敏感な子どもは、
「これまでのやり方じゃだめなんだ」ということも、
とっくに、どっかでちゃんとかぎ分けていて、
着着と、次なる時代にサバイバルする術を、
磨いているのかもしれません。

サバイバルという視点で、
20代をニューヨークですごした「きりん」さんのメールを
見てみましょう。


<サヴァイヴァルするための武器>

私は20代をニューヨークで過ごしました。

東京という大都会で生まれ育った私にも
ニューヨークは本当に何もかもがものすごく刺激的でした。
暮らし始めた頃は、地面からエネルギー
が吸い取られていくような気がしました。

そこで私は自分を守るために
「セレクティブ・ヴィジョン」を身につけました。

簡単に言ってしまえば、
「見たいモノだけ見る」ということ。
自分の視界に入ってくるモノを
無意識のうちに都合のいいものだけにセレクトする機能。

そうでもしなければ、
自分がパンクしてしまいそうなくらい
色々なことや色々なものが一緒くたに起こっていて、
すべてをきちんと理解しようとか対処しようとかしていたら
何のために自分がそこにいるのか
判らなくなってしまいそうなくらい消耗してしまう……。
自分がこの町の餌食になってしまうような不安感。
まさにサヴァイヴァル。

成功者と脱落者が同居し、
美しいものと醜いものが溢れ、
多様な価値観がぶつかり合いながらも共存するしかない。
そんなところに、
自分自身の価値観も自分自身が誰なのかも
はっきりと判っていない者が飛び込んで、
とりあえずは自分をニュートラルなポジションに
キープすることで精一杯だったような気がします。

だから、今の若い子たちが意識及び無意識のレベルに
勝手に飛び込んでくるあらゆるインフォメーションで
オーヴァーロード状態になって
突然フリーズしてしまうというのも
有り得るかなとも思うのです。
何に対してもどうしていいのか判らないし、
とりあえず自分を必死に守るのが精一杯な感じが
「透明人間」みたいだったり、
他人の存在を無視するような
行動に出たりするのでしょうか…。

でも、私にとって、サヴァイヴァルするためには
コミュニケーションが最大の武器である、
ということを身を持って感じるようになったのも
またニューヨークでありました。

(読者 きりんさんからのメール)

………………………………………………………………………

「見る」ということに関連して、
もう1通、このメールを見てください。


<見ることでわき起こる感情>

前回のコラムにあった、
「自分をとりまく周囲の事実関係を見つめると
何らかの気持ちがわきあがってくる」
という部分を、何度も何度も読み返しました。

何故なら、今の私の仕事のやり方と同じだったからです。

企画会社を経営しているのですが、
仕事の多くを「マーケティングリサーチ」が占めています。
以前、企業に所属していた時代から通算すると
その手の仕事は15年以上やっていることになります。

昔はいわゆる「マーケティング手法」なるものに当てはめて
アウトプットしていた時代がありましたが、
独立をきっかけに、
これまでのやり方を疑ってみる作業をしました。

今、私がこの仕事をしていく上で、
とても重要だと思っていることは「リアリティ」です。

それを使っている人、いない人。
それを使う場面。それがない生活。
それを売っている人。売られている現場。

実際に、見に行き、会いに行き、
その事実を自分の中にとりこむと、それこそ
ムズムズやらワクワクやらザワザワやらの感情が生まれます。

自分自身を「人間リトマス試験紙」にして、
反応したことを核に、
ことばや形にしてクライアントに提案する。
そんなやり方で仕事を続けています。

(読者 SEVENさんからのメール)

………………………………………………………………………

わたしには、ちょっと都合がわるくなったときや、
ちょっと面倒くさくなったときに、

相手を見なくなる

ことがあります。
とくに対立したとき、相手の顔も見たくない、
声も聞きたくない、心境になることがあります。
そういうとき、相手から目をそらし、
心の中で相手とのコミュニケーションを遮断します。

そして、私が、今とこれからを生きていく上で、
このやり方は間違っている、と、
最近、はっきり思うようになりました。

いまの私にとって、サバイバルとは、
問題が起こったとき、どうやって状況をただしく判断して、
自分を生かす道を選ぶか、だと思います。

目をそらせば、相手からの視覚情報がなくなります。
話をいいかげんに聞いていると、
聞きまちがいが多くなります。

相手から入ってくる情報が減ると、
増えるのは「思い込み」です。
目をそらしているうちに、自分の中で、
相手はどんどん醜くふくれあがり、
本来、いもしないモンスターになっていきます。

自分を生かす判断をするためには、
やっぱり、相手に関する情報は多いほどいいし、
そのためには、コミュニケーションをとるしかないのです。

わたしは、そういうときは、
無理やりにでも顔をあげて、まず、相手を「見」ます。
みたくないという気持ちがあるので、かなりむりやりです。

見ると、視覚から、相手の情報が入ってきはじめます。
「あ、シャツのボタンがひとつとれてるな、
急いできたのかな」とか、
「目のあたり、疲れてるな、寝不足かな」とか、
「悪気でいってるんじゃないな」とか、
自分の思い込みとのブレが出てきます。

すると、すこしずつ相手の言葉を聞く余裕がでてきます。

そこで
「なんとか、聴こう。
 この人がほんとうに言いたいことは何なのかを、
 とにかく聴くだけ、さいごまで聴こう。」
と念じます。ききたくないので、これも祈るような気持ちです。

そして、瑣末なところに反応せず、
「相手がいちばん言いたいことは何か」、にだけ注意して、
最後まで聴き終わったとき、意外に問題は、
自分の思い込みの外にあることがわかったりします。

百歩ゆずって、「見ざる・聞かざる」で、
その場をのりきれたとしても、
私の場合、そのツケは、「相手への興味・意欲がなくなる」
という形でまわってきます。

相手からの新鮮で正確な情報を遮断して、
自分の思い込みでつくった相手に、
あらたな「興味」などわくはずがありません。

また、コミュニケーションをとらなかった、
ということは、自分にとって問題がある環境に対して、
何一つ、自分の「想い」をまぜることができなかった、
ということです。
自分の想いで何一つ関わることができない環境に、
意欲をわかせろ、というのもまた、無理な話です。
厳しい環境では、生きる意欲を失えば、自分でつぶれます。

コミュニケーションは最大の武器である。

サバイバルのために、
セレクティブ・ヴィジョンを身につけた
「きりんさん」が、
その果てに、究極のサバイバル術として
コミュニケーションに至ったのもうなずけます。

そして、SEVENさんの、
「実際に、見に行き、会いに行き、
 その事実を自分の中にとりこむと、
 それこそムズムズやらワクワクやら
 ザワザワやらの感情が生まれます。」
に、私はとても共感するのです。

私は、編集の仕事を10年ほどしたころ、
仕事も広がっていく気がしない、
自分も伸びていく気がしない、
いいようのない閉塞感にとらわれたことがあります。
そのとき、自分の小さな殻を打ち破る引き金になったのが、
読者に会いに行くことでした。

自分が編集したものが、実際に、
どんな人の、どんな生活で、どう読まれているか、
淡々と、「見る」ことでした。
このとき、見ることが私なりの限界突破のキーになり、
外界への意欲(=生命線)の着火点になったのです。

(つづく)


Lesson137 1人称がいない(7)


「1人称がいない」感じの文章を書く子は、
関係づける能力が育っていないのではないかという仮説で、
ここまできた。

自分とテーマの関係がつかめれば、興味がわく。
自分の想いと、書くことの関係がつかめれば、
想いを文章にあらわせる。
読み手と自分の関係がつかめれば、
人にわかる説明ができる。
そうやって、一つひとつのリンクがはれて、
はじめて、自分は外とつながっていく。

しかし、キソ的な関係づけに、つまずいたままでは、
せっかくなにか「想い」はあっても、
「テーマと自分は関係ない」
「書く意味はよくわからない」
「読み手はいない」、と
自分の存在まで宙に浮いてしまう。

結局、あるまとまりをもって、
自分を外とつなげられないから、
読む方も、そこに「人」の存在を嗅ぎ取ることは難しい。

日常生活でも、
関係性がうまくとれない、
どこかズレていると思う人と接するとき。
徒労感とか、消耗感を感じると、
読者から、すごくたくさんのメールをいただいている。
そのひとつを見てみよう。

………………………………………………………………………
<インターンに来た大学生>

私は28才の大学院生です。
とあるNPOでアルバイトをしています。

この夏、大学生のインターンを4人受け入れ、
私が作業のお手伝いをしました。
仕事は資料の目録取りをさせたのですが、
3人は苦心しながらも
なんとか形になるものを作り上げました。

しかし1人は、説明しても、実演しても、校正しても、
のれんに腕押し状態で、ちっとも形になりません。
形にならないばかりか、目録は全面的にやり直しです。
私の説明が悪かったのかな……と思いつつ、
あとでこの仕事について提出されたレポートを見て
腰を抜かしました。

私が必死で説明した言葉が、
そのままレポートになっているではありませんか!

この説明が理解できていたならば、
なぜ目録が出来ないのか……?

自分のしてきたことが、
賽の河原に石を積んでいたように思えて、
呆然とした記憶があります。

(ももりんさんからのメール)

………………………………………………………………………

ぎゃああああああ!
と、叫んでしまったメールだった。
これなどは、
「関係づけられない」ことの典型ではないだろうか。

ももりんさんの説明を、
この大学生は、すべて聞き取って、
完璧に記憶していた、ということだ。
はじめての仕事となれば、
知らない言葉も多数出てきただろうから、
この大学生は、
そうとう難度の高い、長い、口頭説明を聞き取る能力と、
記憶力に優れていたということになる。

そして、自分で聞き取り、記憶した説明と、
自分がやっている仕事とが、
まったく結び付かないことも、ある意味、すごすぎる。

こういう人いたなあ。

ものすごい量の、ものすごい難しい本を読むのだけれど、
ずっこけるほど、仕事ができないのだ。
視野が狭いと言うか。
(こういう言い方をするのは、失礼で気が引けるのだけど)
あの古今東西、読んだ本から得た、
ものすごい量の人の考えや、
知恵や、情報は、いったいどこへいくのだろう?

その人は、
本から得たお宝を、
目の前の仕事に関係づけることができなかった。

できなかったのか?
しなかったのか?

たぶん、自分にとって「無理めの状況」に、
自分を関係づけることを、
「しない」うちに、「できない」、になったんだろう。

その人の場合は、
「自尊心」とか「優越感」が、
「本から得た知識」と「自分」と「目の前の仕事」を
関係づけることを阻んでいたように思う。

自分にとって、「無理めの状況」ってなんだろう?

どっからどこまでが、自分と簡単に関係づけられることで、
どっからが「無理め」で、
どっからが「ありえないこと」になってしまうのか?

なにか、よりレベルの高い、より強い、
より素晴らしい方向にいくにしたがって、
自分との関係づけは、難しくなっていくと、
そう考える人は多いのではないだろうか?

例えば、男の人は、
どこからが自分にとって「無理め」の女か?

先ほどの、より美しい、で考えていくと、

近所の眉毛のつながったみよちゃんはリンクの範囲で、
街一番の美人の貴子ちゃんは「無理め」、
そして、女優の米倉涼子さんに至っては、
自分との関係づけなんて「ありえない」。
になるのだろうか???

わたしは、どうも、
そういう図式じゃないような気がする。

あの「本の君」にとって、
自分が読んでいる
ものすごく難しい本とのリンクは簡単で、
目の前にあった、
「そうたいしたこともなさそうな仕事」こそ、
自分との関係づけが「無理め」で、
「ありえなかった」のではないだろうか?

私たちの関係づけの能力は、
たしかに、距離の近いものから、
より遠いものを関係づけられるように、
易しいものから、より難しいものを関係づけられるように、
単純なものから、より複雑な関係づけができるように、
鍛えれば、鍛えた分だけ伸びていく。

自分の関係づけの力が高まれば、
自分がつながる「外」はグングン広がっていく。

しかし、自分の能力の高まりに応じて
自分の「外」が広がっていくということは、
自分が高度な関係づけが
できるようになっていくということは、
自分の能力に正比例して、
世に言う「ワンランク上」の仕事や、人や、物事とばかり
(ああ、「ワンランク上」って書くのもいやな言葉だ)
関われるようになっていく、ということとは、
ちがうのではないだろうか?

ももりんさんは、さらに言う。

………………………………………………………………………
人間がそこにいなくなってしまう現象は、
理解能力の範疇を越えてしまった目の前の世界を
「なかったこと」にしているのではないだろうか。

かれらに共通しているのがガードが堅いということ。
自分の土俵から出ていかないこと。

自分が理解不能の場面に陥ったときにどう対応するか?

私なら、たぶん他者に意見を求めて、
とりあえずやってみるだろうと思います。

(ももりん)

………………………………………………………………………


わたしは、これを読んで、
以前、紹介した、はるみさんのことば、

「この問題の根本は、子供達にだけあるわけでもないし、
 emailや携帯、テレビなどの
 コミュニケーションツールの問題でもない、と思います。
 少し断定的にいってしまうと、
 人々が‘自分が望む自分’と‘現在の自分’というものに、
 大きなギャップを抱いているからではないか、と思います」


という言葉のなぞが、少しだけとけたような気がした。

あなたにとって、
「無理めな状況」とは何だろう?
無理めでも、ありえなくても、
しっかりリンクをはらねばならないものはなんだろう?

これまで、
あなたが、理解不能の場面に陥ったとき、
そこを越えて、手を突き出して、
つかんだものは何だったろう?


Lesson138 いま、ここにいないあなたへ
     ――「1人称がいない」シリーズ8回



「1人称がいない」文章を読んだとき、つまり、
「あなたがあなたとして、そこにいない」
と感じるとき、わきあがってくる
苦しい、苛立つような感覚は、なんだろう?

去年の暮れ、わたしは、たくさんの高校生の文章を読んだ。

とても素晴らしい文章を書く子たちもいたというのに、
私が、想いの中で一緒に年越ししたのは、
「1人称がいない」文章を書く子たちだった。

年が明けても、その「ざらつき」は消えなかった。

その中で、モー娘。新メンバー最終選考番組に出くわした。
画面では、3人の女の子が、
インストラクターの呼びかけに
何も反応できなくなっている。
インストラクターが、ここには、「人がいない」と言った。

番組を見ていた読者の方々からも、
「ほんとうにどうしたのかくぎ付けになったように、
 画面から目が離せなくなっていた」
「見ていられなくて、チャンネルをまわした」
と、メールをたくさんいただいた。

「ざらつく」のはよくないと、
最初、追い払うことばかり考えた。

でも、自分からわきあがってくる気持ちを、
「なぜか?」と問う前に、
わるいと決めつけることこそよくない。
もしかしたら、「人を生かす」
教育のシーンには必要なものかもしれない。

私は、「ざらつき」の正体をみようと思った。

そこで生まれた「1人称がいない」シリーズでは、
コラム連載初の体験をいくつかした。

連載始まって以来の数の読者メール。

ここには、高校生もいる。
針灸師、デザイナー、経営者……と、
さまざまな社会人もいる。

学問の現場から、問題を体系立てて見て、
発信してくれる大学生や院生もいる。

人を教えている人も、教えられている人もいる。

日本にいる人、
海外から帰ってきた人、
いま海外にいる人もいる。

教室から、仕事の現場から、街から、
「人が消える」とき、
実際のところ、なにが、どうなっているのか?
現場の、からだを通った考えを寄せてくれた。

これこそ、わたしが、
インターネットに想い描いた夢だと思った。

さまざまな立場の人が、1つのテーマに共鳴しあい、
知恵や体験を出し合い、
乱反射して、さらに考えが深まっていく。
いまの、現場の、からだを通った考えが、
同時に、即時に、多様に、あつまるからこそできる
テーマへのアプローチ。
そういうインタラクションを起こすことこそ、
わたしが、ネットでやりたかったことだ。

ネットにコラムを書いて3年、
もう、ネットへの幻想などどこにもない。
だからこそ、逆に、いま、
インターネットの夢が追えると思っている。

生まれてはじめて、インターネットの門をくぐったとき、
生まれてはじめて、電子メールを書いたとき、
そこに、自分がこめた期待は、なんだったろう?

そのときの自分の想いだけを、
忘れず、ひとつずつ実現していこうと思う。

そのひとつが、このシリーズで叶った。

これまで
「どうか、メールをください」のひと言が言えなかった。
それは、こぶし一つ分の勇気だが、でなかった。

オーディションの女の子をみて、思ったのだ。
「なぜ、つかみにいかない!」
その言葉は、そのまま、わたしに向かっていた。
自分は、インターネットにこういう場を与えられ、
毎週、これだけの読み手に逢わせてもらっている。
それなのに、自分は、
これくらいのインタラクションしかつくれないのか?

そして、こぶし一つ分、手を突き出してみたとき、
こたえてくれる「あなた」が、いた。

このシリーズで、自らつかみにいくという感覚や、
ネットの歓びの雛型を、私自身がいちばん教えられた。

そこで、わたしは考えた。

いったいだれとの付き合いが、
わたしを突き動かし、
現実の中で私を変えたか?

昨年暮れから、ずっとともにいて
私を導いたのは、
「1人称がいない」文章を書く子たちであり、
現実に、このシリーズへと突き動かしたのは、
モーニング娘。オーディションの3人の女の子だった。

その間、素晴らしい人の、素晴らしい言葉を聞いて、
体から力があふれるような瞬間があった。
言葉を、ノートにも書きとめたが、
どうしてか、それは時間とともに体の外へ消え去っていた。

1人称を失った若者から受ける「ざらつき」こそが、
いつまでも体から引かず、わたしを育てた。

つい先日、こんなことがあった。

原稿が書けない。
それは私が、もっとも得意とする小論文の原稿だった。
16年も、半端でなく取り組んできた分野だから、
これだけは、着実にできる。

ところが、書けない。

書けないのだ。
こんなことが、あろうはずは、
と書いては消し、書いては消し、
1日たち、2日たち、3日たち…、
背中と目がやけるように痛くなった。

フリーランスになってから、
健康管理にはひどく気をつかっていた。
だから、ここまでからだを酷使したということは、
よほど「われを失って」いたのだ。

わたしは、「ばか」になってきたんだろうか?
いま、最も働き盛りのはずが、
個人差で、がくっ、と
「脳の老化」がはじまったんだろうか?

途中なんども、われ、と我が頭を疑った。

時間が来て、できた原稿は、
いちばん好意的に言っても、
「小さな完成品でなく、大きな未完成品」という感じ。
そう思おうとしても、自尊心は、ズタボロだった。

その日は、ラフアップで、
ほんとうの原稿をあげるのは、
まだ2週間先だったからよかったものの、
本番の締め切りで、そんなものをあげたら、
少なくとも私は、私を許さなかったろう。
でも、原稿を送ろうとした瞬間、
やっとあることに気がついた。

私がしていたのは、原稿書きじゃない。

そう、わたしがしていたのは原稿書きではなかった。
「商品開発」だ。
企業で編集をしていたとき、何ヶ月もかけて、
社会とお客さんを読み、コンセプトをつくり、
それを形にする方法を考え、企画を立て、
それから先生をさがして原稿を書いていただいた。
その何ヶ月分を、たった一人、数日でやろうとしていた。

まったく新しいものをつくろうとしていたのだ。

このところ、高校と大学、大学生と企業、そして社会、と
つなぐ仕事の依頼がおおく、
じぶんなりに、視野がひろがっていたんだろう。

そういう目で原稿をみると、
今までなかったまったく新しい発想が、
2つだけ生まれていた。

新しいものをつくるとき、
かならず、空中分解のような、
自分が不安定な状態を通過する。
なぜなら、いままでのやり方、経験が、
まったく生きない領域に、自分は「いる」からだ。
当然、ゆきづまりになり、どんづまりになる。
そこでは、たった1メートルの距離が歩けず、
自分は、自分かと疑い、
なにをやっているか、
どこにいるのかもわからなくなってくる。

ゆきづまらなかったら、
いままでの延長線上でものをつくっているということだし、
まったく新しい領域に足を踏み入れたいなら、
かならず、ゆきづまらなければならない。
これはあたりまえのことだ。

「限界突破」と人は、ひと口に言うが、
自分の「限界」がくることと、
それを「突破」することの間には、
ながい、長い、空中分解期間がある。

「よく逃げなかったなあ。」

「1人称がいない」文章を書いた子たちに、
わたしは、あらためて、そう思った。
この子たちにとって、20枚の文章を書くことは、
生まれてはじめての未体験ゾーンだった。

この子たちは、
マスコミ受け売りパッチワークで済ます「要領」はない。
インターネットから丸写しするほど「悪」ではない。
でも、書かない、途中で止める、ということはしなかった。
文章には、書き手の根っこにある想い、
つまり「根本思想」がつよくあらわれる。

彼らの根本思想は、いまはっきりと、
「不自由」なのだ、と私にはわかる。

不便と不幸と、「不自由」は少しずつ違う。

ヘレンケラーや乙武くんに、私が感じるのは「自由」だ。
彼らは、手足のサイズや、聴覚・視覚の障碍は、
自分を表現し人と通じ合うのに、
なんの障害にもならないのだ、ということを教えてくれる。

でも、自分を、まとまりをもって語れないとき、
想いを外にだせないとき、
人は、「不自由」だと思う。

「1人称がいない」文章を書いているとき、
本人はさぞ、つまらなかったろう。苦しかったろう。
自分の言いたいことはこれではない。
この紙の上で、自分は自分になれない。
ここでは、たった1メートルの距離さえ歩けない。

その苦悩が読む人までを不自由にする。

文は人なり、というが、
かならず、書いた本人の根っこの思いが伝わってくる。
書いて、伝えてくれてありがとう。
最後まで、書いてくれたからこそ、
わたしはその「不自由」というメッセージを
受け取ることができた。
そのメッセージは、
わたしに、もう一度文章指導への意志を固めさせた。

なにが「限界」か、
なにが「無理め」の状況か、
人によってレベルはずいぶん違う。
そして、レベルは関係ないのだと思う。

たった1枚を書くのが恐い、という人も、
これまで何万枚も書いてきて、賞ももらって、
この次、まったくあたらしいものを書くのが恐い、
という人も、1歩踏み出して、
迎える、空中分解の感覚は同じだからだ。

1歩踏み出して、進むに進めず、引くに引けず、
という人は、無意識にも、
「不自由」という強いメッセージを発している。
自己表現ができないというときほど、
逆に、自己を言葉で語りたい、
表現したいという無言のメッセージを発している。

そのメッセージをうけとれば、
だれもがそこにいた自分を思い出す。
自分もかつて、そこにいた。
そこで、自分を疑うような、もっとも醜い姿を見た。
自分の潜在力を生かしつづける生き方を選んだ人にとって、
それは決して過ぎ去った問題にはならない。

だから、限界状態にある人に、人はざらつくのだ。

「教育効果」ということを言えば、
どんな場面のどんな人であろうと、限界状態にある
ただそれだけで、
人をかきたてる、強いメッセージを発している。

いま、「ここ」にいないあなたへ。

あなたは、後退しているのではない。
あなたは、荒廃しているのではない。

あなたは解体して、「そこ」にいる。

体内の細胞をばらばらにして宙に浮かせ、
前後不覚になって、そこにいる。

「そこ」は未来だ。

自分で自分を信じてやれなくなってもいい、
ばらばらのままでいいから、
そこまでいこう。


Lesson139  
どんなことを言えば、人は歓んでくれますか?



先日、ライブの帰り。
ともだちと、アジアごはんを食べた。

いつも元気な、そのともだちも、
その日は、いろいろなことが重なり、
さすがにトーンが暗かった。

そういう状況はいやじゃない。
私たちは、そのトーンの中に身を置いて、しばらく
まったり……………………していた。

ところが、

そこに遅れて、もう一人の友だちが来て、
彼女の様子はころっ! と変わった。 あれ?!
ひざを打って、
手をたたいて、
大声でわらいはじめたのだ。
目とか、イキイキしている。

もう一人の友だちは、話がうまかった。

あちゃー、もしかして、私がつまんなかった?
ごめんよー……。
わたしも、まじめ一辺倒ではなくて、
もっとエンターテイメントというか、
場を盛り上げる、こう、はじけるような、
話をした方がいいんじゃないか。ちょっと落ち込んだ。

でも、それって、何を話せばいいのだろう?

自分の数少ないレパートリーの中で
ああいう話をしようか、こういう話題はどうか……、
とシュミレーションしてみた。

どれもつまんない。話してて、こっちが持ちそうにない。


小論文でたまに聞かれるのが、
点の取れるものを書くためにどうするか、
こんな質問だ。

「国際問題について書けって言われたって、
まさか、僕はわかんないし、関心ないし……、
なんて書けるわけないですよね。
自分の意見なんてきれいごとを言っても
ある程度ウケる方向って決まってるんじゃないですか。

で、どんなことを書けばいいんですか?」

なんか、違うなあ……。
もやもやしていたある日、頭にふと、
こんな言葉が浮かんだ。


ああ言おうか、こう言おうか、ではない。
ほんとうのことを言うために、どうしようかだ。


先日、ある編集学校の生徒さんと、
「取材して記事を書く」ことの難しさの話になった。

「なかなか、自分が取材して面白い、と思ったことと、
読者から見て、面白いことが違いますからね。」

わたしが、取材ものを書きはじめたときを想いだした。

編集の仕事をしているおかげで、
いろいろ面白い人に取材で会えた。
でも、それは、たくさんの読者を代表して、
会わせてもらっているのである。

読者が、その人について知りたいことと。
わたしが取材のために、その人のことをいろいろ調べ、
現場に行って、その人に会ってこそ、感じた面白さには、
温度差がある。
読者は何を求めているのだろうか?
どういう軸で記事を立てていったらいいのか? 

でも、いま、私は、そこで悩むまいと思う。
わたしが本当に面白いと想ったことを、
読者に伝えるためにどうしようか、だ。

そこから先は、すっごい悩むと思う。

わたしが感じた面白さを伝えるには、
読者とは、温度差とか、
手続きとか、
共有しなくてはいけない情報とかいっぱいあるから。
その先は、これからもずっと悩みつづけると思うけど、

前提のところは、もう悩まないでおこう。

スポーツ選手にしろ、俳優さんにしろ、
多くの人が、その人に聞きたいであろう、
もっとも一般的な質問をし、
最も典型的なテーマでまとめるなら、
私でなくとも、
きっとだれかが、もっと上手にやってくれる。

その日、私しか、
つかめなかった本当に面白いと想ったことを、
読者に伝える方法について、考えぬこう。

小論文は、暗記に頼らず、
まったく未知のテーマを与えられて、
その場で、堂々と自分の頭を動かして考えることに
面白さがある。
その日その時、
ほんとうに自分が考えたことを伝えるために、
それで相手を説得するためにどうしようか、それだけだ。

場を盛り上げる話なんて、まだまだ十年早い私だけど、
たぶん次の問いを手放して場に迎合しようとしたとき、
すべてを失うのだろう。
話がすべっても、場を引き潮のようにひかせても、
私は、この問いから先だけを、悩んでいこうと思う。

「本当に想っていることを言うために、どうしようか?」


Lesson140  おめでとう

おめでとう。

と、あからさまに言うことが
気に触る人がいたらごめんなさい。
それでも春から、
自分の立場に「新」がつく人を想うと、
やっぱり、腹からこの言葉がこみあげてくる。

新一年生、おめでとう。
新社会人、おめでとう。

春からポストが変わった人、
住む場所が変わった人も、
新しい環境で踏み出す人に、わたしはやっぱり、
おめでとうを言いたい。

新しい環境は、新しい自分の潜在力を引き出す。

就職浪人になった人、新人になれなかった人、
わたしも19年前の春、同じだった。
そこから企業に入るまで、
バイトと編集アシスタントをして3年かかった。

バイトとはいえ、
記念すべき初出勤の日、緊張して、
おかんに買ってもらったスーツで決めていった。

そしたら、ゴザをぽん!と渡され
花見の場所とりを言い渡された。
これがわたしの社会に出て最初の仕事だ。

ほかの社員の方々が来られるまで、
大きな大きな
青いビニールシートの真ん中にぽつんと座って、
4時間くらい、どんよりした空を見ていた。

「いったいこれから自分は、
どうやって社会に入っていけるのだろう?」

小さな身体が、春風にすくわれないよう、
じっと身を硬くしていた。

その3年間があってほんとうによかったと思う。
企業に勤めている間も、
辞めたいまも、
ずっと私を支えつづけてくれているのは、

成功体験に顔を輝かせている私、ではなくて、
どうしてか、あの満開の桜のもと、
どでかい青いシートの真ん中で、
リクルートスーツでふんばっていた小さな私なのだ。

もし、タイムマシンで帰って、
花見客を装って、ひと言だけ、
あのときの私に声をかけられるとしたら、
心をこめて言いたい。

「社会人スタート、おめでとう!」

あのときの私は、ちっともわかってないだろうから、
きみが社会に出てきてくれて、
どんなにうれしいか、私は言ってやりたい。

毎年この時期、新入生の気持ちを考える。

来月、新大学生に向けて講演をするから、
今は新大学生の気持ちを、
去年は、「もうすぐ中学生」になる人と親御さんへ
メッセージを送ったから、
「もうすぐ中学生」の気持ちを考えていた。
新入生の気持ちと言えば、
主催者や、マーケティングをした人から、
必ず言われるのが

「新入生の気持ちと言えば、とにかく不安ですから。」

ということだ。私もそうだろうな、と思う。
去年も、いろいろ切ない事件がいっぱいあったときで、
不安な時代だし、いじめとかあるし、
私だって、新社会人のスタートはビニールシートだったし、
「不安」という共通項から、
新入生へのメッセージを
起こしていくのはやりやすいはずだ。

ところが、やってみたら、なんか違う。

「もうすぐ中学生」って、実質小学生。
ヒアリングにも行って、何人もの声を聞いた。
でも、どうしても、新中学生の気持ちと、
新社会人を踏み出した、
あの時の私の気持ちがつながらない。
自分でも驚いたが、共感のキーは「不安」じゃないのだ。

じゃなんなんだろう?

期限がきてもいっこうに言葉がみつからないので、
ずっとネットサーフィンで、小学生の日記を読んでいた。
その果てに、
ある小学6年生の日記に、次の言葉をみつけたとき、
これだ…、と思った。

「もうすぐ中学一年生。
 ほんとは、すっごく楽しみにしてるんだ。」

新入生たちは、口に出して言わなかった。
わたしも青いシートの上、
不安ばかりに気をとられていたけれど、
身体の奥に、小さな灯がともっていた。
新一年生と、ビニールシートの私は、
その「灯」でつながった。

大事なのは不安にどう打ち勝つか、じゃない。
自分のこの灯を、自分でどう裏切らないかだ。

新一年生、心からおめでとう。

親も、先生も、社会も、
あなたが、心からほんっとうに
「面白い!」と想うことを、
想う瞬間を、つかんでくれと願っています。
それが学生の仕事だからです。正真正銘、立派な仕事です。
だれに遠慮も要らないし、だれも邪魔できません。

手を伸ばして存分に、
自分の「面白い」をつかんでください!

2003年 春 吉日 山田ズーニー


Lesson141 はじめての人に自分を説明する

時期がら、「自己紹介」ラッシュなのだろうか。

はじめての人に自分を説明するって、おっくうだ。
何を言えばいいんだろうか?
わたしも、つい、お茶を濁してしまいたくなる。

自己紹介に決まりなんてないわけだから、
思うように、自由にやればいいのだ。
だがもし、何を言えばいいか、わからなくなってしまったら、
ちょっとだけ、今日の話を思い出してほしい。

あれこれやってみて、わたしが今、
一番いいんじゃないかと思っている手がある。それは、

「今から未来に向けて、自分は何をやりたいか?」

という「意志」を、はっきり言っておく、という手だ。
自分を「意志」で説明する、とでも言うのかな。

自分を「趣味」や「特技」で説明する、
というのは、わりとよく見かける。
たとえば、会社で新人が自己紹介するときに、

「4月から、営業課に配属になりました田中です。
特技はスポーツで、
学生時代は、水球で全国大会までいきました。」

とか、初対面の人が多い飲み会などで、

「えっと、鈴木と言います。
えーと、趣味はぁ……なんだろう、えっと、映画鑑賞です。」

というような感じのものだ。
これで、自分がしっくりすれば、まったく問題ない。
だが、これじゃどうも、自分の説明になっていないんじゃないか、
と自分で思うとき、なにが、違うんだろうか?

もしかしたら、その趣味は、
自分にとって、あくまでも「趣味ていど」のものに過ぎなかったり、
特技は、「過去のもの」で、今はもう、やってなかったり
しないだろうか?

だったら、自分の「主旋律」ではなくて、
プラスアルファの部分で説明していることになる。
ちょっともったいない。

「自己紹介」の言葉は、意外に印象が強いものだ。
そこをきっかけに、あとで話かけてもらったり、
何年もたって、本人さえ忘れた自己紹介の言葉を、
人がおぼえていることさえある。

自分と初対面のだれかとの、
関係のはじまりにくる言葉だからだろう。
自分と相手の、つながりの「種」。

だから、自分のこれまでで、
いちばん「栄光ある」部分にスポットを当て、
「水球で全国大会…」と言いたい気持ちはわかる。
そして、自分の「主旋律」が、今も水球にあるのなら問題ない。

ところが、「田中くんと言えば、水球で全国大会の人よね。」
と人におぼえてもらえたとしても、
自分にとって、それは過ぎたことで、
今はもう、スポ―ツはやっていない。
興味や関心は他にうつってしまっている、というならば、
「種」の置き方として、少しもったいない気がする。

同僚に「水球で全国大会ってすごいねえ、いまもやってるの?」
と話し掛けられても、「いや、今はもう…」
と話がとぎれるかもしれないし、
たとえ話がはずんでも、いまの自分の問題関心とはそれた、
「過去の自分」で関わることになるから、活気がちがう。

「趣味は映画…」も、もし、
「これといって他に趣味がないからしかたなく言った」としたら、
なら、今、自分の世界の大部分を占めているものは何か?
たとえ地味なものでも、そっちを言った方がいい気がする。

自分の「主旋律」はなにか?

理想を言えば、「過去→現在→未来」とつづく時のなかで、
自分は何者か、が語れればいい。
「過去から現在まで、私は、このような経験をしてきて、
そこから今、このようなことを想っています。
だから、未来に向けてこういうことをやりたいです。」
というように、自分の主旋律が、きちんと説明できるといい。

でも、これを語りきるのは大人でも難しいし、
第一、説明が長い。

そこで、自分が何者か、まだつかめない人でも、
人に言うほどの、特技も、趣味も、栄光も、歴史もない人でも、
「いまから未来、自分はどうしたいか?」で、
自分を端的に説明することができると思う。

初対面のとき、わたしの友人は、
「小説が書きたい」という「意志」で自分を証明した。
それに向けて、いま何をしているかを説明した。

私は、友人の過去を総集編で見せてもらうより、
肩書きや資格をくどくど説明されるより、
ずっと速く、はっきり、彼女という人間を認識できた。

「自分の意志にまだ自信がない」、という人でも
うそや、はったりは、よくないが、
自分が本当に想っていることなら、
言い散らかしていいんだと私は思う。

そこを「種」につながる人も、寄せられる情報も、
きっと、あなたを引き上げてくれる。
「今→未来」の最大の関心事だからあなたの向かう勢いが違う。

今から未来に向けて、どうしたいか、
自分を「意志」で説明する。

自分と相手との関係は、「いま」はじまったばかり。
そして、「未来」につなげるものだから。


Lesson142 「ちゃんと読めよ!」の落とし穴

ネットやメールの、コミュニケーショントラブルは、
「読解力」の不足からくることが多いのではないだろうか?

サイトやメルマガで、
自分の文章を公開している人は、
寄せられる批判メールに、

「くそっ、ちゃんと読めよ!」

と、くやしい想いをしたことはないだろうか。
文章全体をちゃんと読めばわかることを、
ちゃんと読まず、
言葉尻だけとらえて、誤解して、
「批判メール」をしてくる人。

(この教室の読者には、
 これまでそんな人はいない。念のため)

そういう人に、思わず、
こんなメールを返したくなる人はいないだろうか。

「失礼ですが、あなたは、
 私の文章をよくお読みにならないで、
 批判なさっているようです。
 もう一度、文章をちゃんと読んでください。

 わたしが、どこにそんなことを書いていますか?

 あなたは、私が、これこれを、
 これこれしかじかと言った、と誤解しているようですが、
 私は、そんなことを書いていないし、思ってもいません。
 私は、これこれについては、
 かくかくしかじかという考えを持っています。
 それが証拠に、本文に、ほれほれこうだと
 書いているではありませんか……」

と、つい、長い釈明をしたくなる気持ち、わかる、ワカル。

でも、「ちゃんと読めよ!」には落とし穴がある。

ほとんどの人が読めばわかることを、
その相手はわかっていない。
ということは……、

相手は、文章をよく読む習慣がないか、
思い込みで文章を読んでしまうクセがあるか、
自分の反応したい部分だけを読んでしまうクセがあるか、
トレーニング不足か、なにか、
とにかく「読解力」に問題がある可能性が高い。

読解力によって生じた問題を、もう一度相手に読ませること、
つまり、「相手の読解力に頼るカタチ」で
解決しようとするのは、得策だろうか?

かりに相手が、すなおに読み直したとしても、
また同じような読み方をするかもしれない。
一回目とは、また別の部分に反応し
別の部分につっかかってくるかもしれない。

それに、釈明をとうとうと述べた、自分の反撃メールも、
最初の文章が読めていない相手に、
正確に理解される保証がどこにある???

「ちゃんと読め」では、
なかなか問題が解決しないのは、こういう理由だ。

こういうケースでは、そこから先、
もう、メールで解決するのはやめて、会って話すとか、
文章以外の手段で解決するのが堅実、とわたしは思う。

それでも、なにかの事情で、どうしても、どーーーしても、
メールで解決しなければならないときは、
どうするか?

もう一度、相手のメールを、じっくりと、
「この人が本当に言おうとしていることは何か?」
理解しようとつとめて、よく読むのだ、

そう、「相手にもう一度読め」ではなく、
「自分の方がもう一度読む」のだ。

いやだろうけど、わかるけど、
相手の読解力に頼るより、自分の読解力に頼る方が確実だ。

「結局、相手が本当に言いたいことは何か」を、
正しく、深く、読み取ったら、それをできるだけ、
適確に、短く、ひらたい言葉で要約して、
返信メールの頭に置き、
あとは、「私もそう思う」と伝えるといい。

つまり、

「あなたは、私が、黒いカラスを白いと言ったと
 誤解しているようですが、
 私は、そんなことを書いていないし、思ってもいません。
 私は、カラスついては、
 黒いという考えを持っています。
 それが証拠に、本文のここに、黒いと言う意味のことを
 書いているではありませんか……」

のような、長い説明は、
相手がちゃんと読まないか、誤読のおそれもあるので。
短く、やさしく、てっとりばやく、

「カラスって黒いですよね。わたしもそう思います。」

と、共通項を柱に文章を組んでいくと、案外、うまくいく。
だって、もともと「誤解」なんだから。

相手への批判も、自分の釈明も、ことをややこしくするだけだ。
誤解されたら、まず冷静に、

誤解のもとになっている「問い」は何か?
(→カラスの色は何色か?)
それついて結局、相手はどうだと言っているか?(→黒だ)
自分は結局どう思うのか?(→黒だ)

を整理して、
ストレートに「カラスは黒い」で文章を立ててみよう!


Lesson143 水準

ものづくりをしているときって、
途中で一度くらい、
絶望的にならないだろうか?

先日も、講演の原稿をつくっていて、
どかん!と大きな絶望感に襲われた。

わたしの場合、
いいイメージがわいてきて、
「さあ、これからつくるぞ!」というひとときが、幸せだ。

新しい面白いものができるぞ!
という予感が、自分の中からわきあがって、
部屋中に満ち満ちてくる。未来がぱあっとひらける。

ところが、途中で、どうしてか
どんづまる。
書いては、消し。
書いては、消し。

それでも、書いて書いて、書いて書いて、
無理して、書き重ねていくと、
最初のイメージからどんどん遠く、
どんどん、原稿がつまんなくなっていく、
だけではない。
それを書いてる自分が、どんどん、
つまらない人間になっていく。

それで、無理して書いた1日分、
ざさぁ〜〜と消去して、

落ち込む。

そこへ、あらゆるネガティブな気持ちが押し寄せる。
まず、できない原因を探す。
日ごろの努力を怠っていたせいではないか、とか、
新しいつきあいや、新しい情報を求めず、
視野を狭めてきてしまったせいではないか、とか。
ひとしきり、原因探しにつかれると、

今度は、無能感がどっと押し寄せる。
自分はもともと無能なのではないか、という気持ちが
すべてをさらっていく。

これではぜんぜんだめだ。

そう思った瞬間、待てよ、と思った。
「だれが、自分にダメ出ししてるんだろう?」

たった一人で仕事をしてるんだから、自分しかいない。

いまここに、
思う仕事ができなくてどんづまっている自分がいる。
でも、その自分は、どこかで、
聴く人の心に届く原稿の水準をちゃんとわかっていて、
ちゃんと自分に「ダメ出し」をしている。

ささげても、
ささげても、
まだ足りない。

戯曲を書いている友達が、
もう、これ以上に、自分がこの作品にできることはない
というほどに、書いて書いて、
これ以上に、この作品を伸ばすには、
もう、自分自身が成長するしかない、
と思うまで書いたとき、
ため息のように、上の言葉をもらした。

新しいイメージにつき動かされて
仕事をすすめ、隘路にゆきあたったとき、
わたしはよく、この言葉を思い出す。

でも、何にささげているか、というと、
そのイメージをつくりだし、
「ここまで来い!」と、その水準を見て、
距離を測っているのも、ちゃんと自分なのだ。

自分がいま、この手で紡ぎ出せないものを、
自分には、ちゃんとイメージする力がある。

私は、どんづまりの中で、そこに希望を見た。

いま、この手には絶望しても、
自分のこのイメージは信じられるな、と思う。

つくれないものをイメージできる。
イメージはどこからくるのだろうか?

たくさん
いい映画とか、芝居とか、音楽に触れたらできるのか?
先輩たちのいい仕事や、人間性に触れたからだろうか?

でも、「あの人のあれ」をイメージしているのではない。
自分を駆り立てているのは、やっぱり、自分独自のものだ。
「あの人のあれ」なら既知だから、
それほど自分を駆り立てない。
未知で、独特で、自分でつくりだすしかないから、
こんなに駆り立てられるのだろう。
自分でできないと「無い」ものだから絶望するのだろう。
他人の水準なら、できなくてもそっちを見ればいい。

自分にダメ出しする自分に、まいる、という声をよく聞く。
とくに私のように編集者をやってから、
書き手にまわった人は、原稿を見る目の厳しさと、
自分の書くもののギャップに、まずやられる。
でもそう言った友人の歩みは今、着実だ。
「ここまでおいで」と
手招きする方の目が鍛えられているからだ。
ある人は、「おいでおいで」をする自分の域に
自分が行けないと気づいて、
人生最大の絶望を味わったという。

でも、わたしは、
決してその水準に行けないと絶望するときも、
いまの自分とそれほどまでに距離のあ