YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson827   書いて、自分になる。


「文章表現力」は、

うまい文章が書けるとか、
相手に伝わることに留まらない。

書くことによって、人は「考える」。

自分の内面を、言葉で深く正しく「理解」する。

そのことにより、
自分の納得のいく「選択」ができるようになり、

「意志」が芽生える。

書くことによって人は、
自分を知り、自分を表現することができる。

静岡の大学で、
3日間の集中講義を終えた時、
サポートしてくださっていた教授が、

「学生が別人になった!」

と心底驚いておられた。

それは、実践的な文章力を育てる授業で、
最後は、学生それぞれが自分のテーマを発見し、
1作書き上げて、発表する。

ひごろ学生たちを見ている、その教授は、

「3日前、集中講義にやってきた学生たちは、
うつろな目で、起きているのか寝ているのか、
わからないような、うすい反応しかなかった。
ところが、帰っていくとき、
目が輝いて、背筋がしゃんと伸びて、
まっすぐ私を見て、御礼の言葉まで自分から言って、
まるで別人!!!」

と興奮しておられた。

以前、各企業のリーダーによる定期的な勉強会の、
そのうち1回に、講師として招かれたときも、
カメラマンの方が、

「私はこれまでずっと、この会を撮影してきましたが、
みなさん、かつてない、いい表情をされてます!
ほんとにみなさん、今まで見たことがない、
生き生きした顔をされています!」

やはり興奮して、わざわざ私に伝えに来てくれた。

私は、書く力は教育しても、人間教育はしない。

私の持ち場は、
生徒が自分の想っていることを書けるように、
相手に響くように伝えられるように、
社会に説得力を持って書けるように、

淡々と淡々と、考える力・書く力の筋トレを
サポートすることだ。

拡大解釈して、人生を変えるだの、
手を広げて、人間教育だの、言わないようつつしんでいる。
そういう越権行為はこれからも決してしない。

「私の持ち場は、りっぱな人間に育てることではない。
本当の意味で面白い文章が書ける人間に育てることだ。」

にも、かかわらず、
書く力をつけた人が、変わる。
就職や転職など、人生が変わる人もいる。
とくに、

「うつろな目に命の輝きが入る」

あれはなんだろう?

たった90分の大学の授業でも、
表現しはじめると、あきらかに、学生たちは生き生きし、
目の中心が、ちゃんと焦点があって、
命が灯ったようにキラキラしはじめる。

かなり広い教室で、教壇に立って学生を見ていても
遠くから瞳がキラキラする。

講義前と後とで、ぜんぜん違う。

そんな授業を終えた学生が、どっと出てくる場で
すれ違った教員の方が、

「どうしたの! 学生たち
人が変わったように生き生きしてる!」

とやはり驚く。

「人を変えるなど大それたところに踏み込まないように、
慎みながら、書く力の教育のみ、やっているにもかかわらず、
どうして受講者は、どんどん変わっていくのだろう?」

考えて気づいた、

「これこそが、書く力の本領ではないか。」

なにもせず、生まれたままが自分だ、
と思っている人は多い、でも、表現教育を通して、

「自分とうらはらな言動をして生きている人、
なんて多いんだろう」! と思う。

自分の想いほど、気づきにくく、見失いやすいものはない。

強い想いがあることほど、もし失ったら、と恐くて、
無自覚にすりかえたり、知らないふりをしたり、
人はよくしてしまう。

私も、友達になりたくてしかたない好意のある人に、
わざと冷たい態度をとったり、
相手とぎくしゃくしたり、とうとうこじらせて、
もとから嫌いだったと
本気で思い込もうとしていた時期がある。

学生たちも、

進路選択にしろ、部活動の選択にしろ、人間関係にしろ、
自分の想いのありかを問うことをせず、
自分の想いに気づけないまま、こじらせてしまった
というような経験を持つ人がとても多い。

そんな、自分を見失っているときに、
親や先生など、周囲が安易にあっちへ行けこっちへ行けと
助言してしまうと、

そこに飛びついたり、
とりあえず目上の人のいう方向へ歩いていけば
まちがいないだろうと、のっかってしまう。

結果、

ぜんぜん自分の想いがついてこず、
ある日突然、失速してしまう。

人には「想い」があり。

自分の想いとそれた道で、
得をしても、ラクしても、成功しても、

「虚しい」。

それはぽっかり穴が開いたごとく、
世界が色をなくすごとく。
想いに反した行いをしたと、一生後悔することだってある。

そんなふうに、自分とはぐれた人が、
やっと気づいて、
自分の想いを聞こうとしたり、自分を取り戻すのに、
どれだけ、コツコツと時間がかかることか。

書くことは、「自分を理解する」、うまい手立てだ。

生まれてこのかた、とりたてて、
自分自身の話を聞いてやることをしなかったという人も、

文章を書くとなったら、いやでも、
自分の内面に聞き耳を立て、言葉にしていかねばならない。

この「言葉にする」という行為が、
深く正しい「理解」を生む。

言葉にしなくても、なんとなく
自分の想いは自分でわかっているよ、というのも
素敵だけれども、

時間をかけて、「これだ!」と
しっくりする言葉にしたものは、
自分の印象に焼きつくし、
容易に見失わない。

人生の岐路で迷った時に道しるべとなる。

日々の仕事の文章でも、
ちょっとした報告メールでも、

最初は人に伝えなければならないから、
しかたなく文章に書く。
しかし、書いているうちに人は、

自分の内面を、言葉で深く正しく「理解」していく。

そのようにして、
面倒でも、書くことを大切にして、
書いて、書いて、生きていると、

自分の納得のいく「選択」ができるようになる。

自分との意思疎通がよく図れるし、
はやく的確に自分の想いのありかがつかめるからだ。

そのようにして、日々の選択から、
おおきな人生の岐路まで、
自分の想いにそった選択をしていくと、

「意志」が芽生える。

「どうしよう」、とことあるたびに、
自分の想いに問いかけていた人が、
そこから、

「こうしよう!」と自分の意志に沿って進んでいける。

このように、

書くことによって人は、
自分を知り、自分を表現することができる。

自分の想いに添った道を歩いているとき、人は、
苦労はあっても楽しく、疲れても満たされていく。

「書くことによって、人は自分になる。」

だから学生たちの瞳に輝きが宿るのだ、
と私は思う。


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2017-05-17-WED

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