YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson721 文章にできること
          −3.書く仕事のみらい


私には、バクゼンと憧れてきた
もう亡くなった文豪の女性がいる。

先日、出張先でぐうぜん!
この人の回顧展をやっているのを知り、
運命! とばかり出かけていった。

「きっと凄いヒントを得るに違いない」

と、想い入れて、
作品や展示を見ていった。
生前に使っていたペンや、着用していた服まである。

「この人のまねっこしてスーツでもつくろうか」

そう思って、
しげしげと展示された洋服をみるも、
なぜか気分があがらない。

「柄だけでもまねようよ、
 ベルトとか細部を取り入れるだけでもいいじゃない、
 文豪にあやかって、私もいい文章が書けるかもよ」
と自分に言い聞かすも、

「ひと言で言って趣味じゃない。」

上質じゃなくても、自分がこだわり選び組み合わせ、
きょう着ている服のほうが、ときめく。

そう悟ったとき、
こんな心の声がした。

「自分はほんとにこの人みたいになりたいの?」

そこから作品を見るにつけ、
いままで無意識に見ないように避けてきた
「古めかしさ」が鼻についた。

この時代には新しかったんだろう、
でも今見ると全然新しくない。

はたして、この文豪がインターネットのある今に
生きていたとして、こういうものを書いたかな。
作風にしても、働き方にしても、肩書きにしても、
違うものになったんじゃないかな。
いや新しいかどうかは別として、

「こんなの私が目指すものとは全然違う。」

いかに自分が文筆家の古いステレオタイプ
にとらわれてきたか、いまさらながら気づいた。

文筆家の究極の姿は、
文芸作品を書きあげ、賞をとって、
文筆一筋に生涯専念し、後世に名作を残す。

こういう典型に、自分がどっかであこがれ、
どっかで現実がツラいときの逃避幻想とし、
どっかでとらわれていたな、と。

でも、いま、
あこがれの文豪の偉業を目の前にしながら、
私の心を強くとらえているのは、

「学生たちの表現」なのだ。

ちょうど大学の発表会が終わったばかりで、
プレゼンテーションの授業では、
学生が4分間、言葉によるプレゼンテーションをする。

ことしは「思考のひらめき」が冴えわたった。

とても新しい、見たことも聞いたこともない
独自の「考え方」。

「こどもは未来からの留学生」という言葉があるが、
この大学の学生は20年も30年も未来から
やってきたように思う瞬間がある。

ライティングの授業のほうの発表会は、
学生が自分の文章作品を、
4分間の想い想いの自由なスタイルで伝える。

ストレートな朗読や、制作過程を解説する者もいるが、
作品のエッセンスを、
作曲してきて音で表現する者、
4分間の映画に撮って表現する者、
ひとり芝居で魅せる者、多様だ。

今年は、ダンスで表現した学生がいた。

観たこともない芸術的なダンスで、
私には、「日本の樹」が踊っているように感じられた。

樹齢何百年と根をはる、桜などの日本の樹。

その学生は、老舗の旅館の息子として生まれ、
アメリカで学んで日本に戻ってきた、
日本文化を伝えていくことを志している。
作品に込めたその想いを、5時間かけて考え、
ダンスにした。
言語化不可能な想いまでが、
身体表現として伝わってくる。

アメリカで学んだダンスなのに
強く「和」が伝わってきた。

あこがれの文豪の回顧展で、

いま、「言葉の産婆」として
私がふれている文章のほうが、
わたし的には、ずっと面白く、ずっとわくわく
することに気づかされた。

そこから何か決別式のようになった。

だれもいない美術館で私は
ずっとあこがれてきた文豪に敬意をこめて心で言った。

「私はもうあなたを目指さない。
 あなたに学ばない。
 あなたに似ていると言われても歓ばない。」

だれにも似ない。

文章を書く人間の新しいカタチ、
いや、新しくなくとも私のあり方を行く!

14年間書き続けて、
やっと書くことへの幻想が取れたのかよ、
文豪をまえにたいそうな決意表明だな、
と自嘲もしたが、

表現教育者であり、みずからも表現して生きる。

真冬の美術館を1歩出たとき、
少しも寒くなかった。

なんか人気映画のセリフみたいだけど、
真冬の風に向かってぐんぐん歩いているのに、
ほんとにちっとも寒くない。

風がきもちいい。

この感覚こそが「自由」なんだと思った。

ある女子学生の就職が決まり、
「春から私は書く人です。」
とおしえてくれた。
葬儀で、亡き人を送るご家族の気持ちをお聞きし、
それを家族に代わって文章にする仕事が、
彼女の春からの持ち場だ。
葬儀で読み上げる文章は、
亡き人にとっても、ご家族にとっても抜き差しならない。
ちいさな体にプレッシャーをひしひし受けとめていた。

文章にできること。

まだまだ多様な可能性がある。
書く人の職業も、固定観念にあるものだけじゃない、
まだまだ可能性がある。

あなたは文章で何をしたいですか?

さいごに、
先週分に寄せられた読者メールを紹介して
きょうは終わろう。
おふたりとも、みごとに「書き時」だ。


<いちばん近い読み手>

先週の「書き時」を読んで、
そうなんだよ! と。

カウンセリングなどの情報で
「嫌なことや不満なことを
 とりとめなく紙に書いてみると、
 気持ちが楽になりますよ」
と目にしたことがありますが、

自分もやってみようとすると
まあ書けないこと。

「吐き出せばすっきりする」
という前に、
「愚痴をとりとめもなく書く」
ということができませんでした。

文章は他人が見ることがなくても、自分は見ている。

「書いている自分」と「見ている自分」は
異なっている様に思います。

自分に対してでも、伝えようと思ったら
文章をちゃんと書かないといけないんだ
と思いました。

自分の手帳の中身が変わるかもしれません。
これからは、書く自分と見る自分の往復書簡です。
(蘇鉄)


<自分の目で見えたもの>

ライターとなって3年半。
実力はないのに、仕事は山ほどあります。
締め切りに追われて、先輩に怒られて、
最近は後輩も出来て。

趣味の読書も、
自分の文章に対するダメ出しのような気がして、
全く楽しくありません。

「自分の器以上のことはかけない。」

先週のこの言葉を読んで、
なんだかほっとしました。

今まで、取材相手になりきろう、なりきろうとしていた
ような気がします。
自分の目から見てどうなのか、
素直にそれを書けばいいのかな、と思いました。

久しぶりに自分の思いを文章にしました。
こうやって自分の現状や気持ちを、
自分で受け止めてあげることも
必要なのかもしれませんね。

頑張れそうな気がします!
(Yuuki)

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2015-02-11-WED
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