YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson717
 弱さのハラスメント



その弱さにふりまわされ、消耗し、従わざるをえない、
「弱さのハラスメント」について書いた
先週のコラムに、たくさん反響をいただきました。

きょうは読者メールを紹介します。


<逆らえないもの>

先週の『暴力的な弱さが支配する』を読んで、
心がザワザワしました。
ずっと抱えていて、うまく言葉にできなかったこと。

『弱い』ものには逆らえない。

『強い』ものに逆らうことは、
勇気がある。かっこいい。頼もしい。
尊敬する対象になる。

でも『弱い』ものに逆らうことは
ひどい。冷たい。思いやりがない。
批判の対象になる。

『弱い』ものに逆らうことは勇気がいる。
(としみ)


<弱さの暴力とは>

始めは強いものの優しさに付け込んで
搾取する弱いものの話かと思いましたが

そんな単純な話ではないと読み返しました。

弱さを努力で補うということも選択できないほどの弱さ、

ひたすらに身を縮めて危険が過ぎ去ることを
願うしかないという状況はあります。
負の変化しか想像できず、外からの影響を一切拒みます。
相手を信用できない、とても寂しい状態です。

自分より強い相手が目の前にいて、
「敵ではない」と言っているのに。
俯き見ず、耳を塞ぎ聞かず、
勇気を出そうともしないことを

「だって自分は弱いのだから」と正当化する。

この正当化が弱さの暴力だと思います。
(九堺)


<嫌な感じの正体>

「弱さに支配された」感覚、
胸の奥に渦巻くいや〜な感じ、

こちらに罪悪感を抱かせるような、
こちらが折れなければいけないように思わせるような、
そんな感覚じゃないですか?

私の中での嫌な感じの正体は
相手の「甘え」じゃないかな。

頼られるのは好きだけど、
依存されるのはいや、

相手は、自分の言葉で表現するとか、
その事柄を自分のこととして引き受けることができない、
本来、その人がやらなければならないことを、
こちらに引き受けさせる、そんな弱さなんじゃないかな。
(潔子)


<手を差し伸べたい弱さとは違って>

被害者意識でしょうか、
本当に守るべき弱さとの違いは。

手を差し伸べたい弱さには自然と、手が出る。
でも、そうじゃないうまく表現できないものには、
手を出してしまった後に
後味の悪さ、操作されてしまった感じが残る。
(クロ助)


<加害者のような風評を受けて>

私は、組織社会の中で、
思いがけず「加害者のような風評」を
受けることがありました。

何故なのか?
自分に問題があるのかもと、悩みもします。
きっと、その発端となった相手が求めるものと
こちらの反応がかけ離れているのでしょう。

私からすれば、
「被害者の顔をした加害だ」という思いです。
弱さゆえに吠える、妄想とも言える攻撃に
振り回されるのはまっぴらだと思います。

ドラマのようなはっきりした勧善懲悪は、
現実にはあり得ません。
弱さを振りかざす相手にも
笑い合う仲間がいて、信頼し得る面もあります。

そして相手を尊重したいと思う自分もいますから、
攻撃されると、私に非があるのかも
と自分が揺らぎます。

でも、そんな他人のマイナスなパワーで
自分を失ってはいけない。
己に対する強い気持ちを養なう時だ 

と気持ちを前に向けています。
この先まだまだ色んな方に出会うのですから‥‥
(Y)


<先週「暴力的な弱さ」という表現に出会い>

自分だって今まで何回も何回も
それと気づかないうちに「マイナスの威圧感」を
ふりかざす側に立ってしまっていたのだ、
ということを実感しました。

コラムの内容と自分のこれまでのことを
照らし合わせてみて

「暴力的な弱さ」というのは、
そのときの事情はどうあれ、

“弱者”というポジションを
みずから積極的に選び取ってしまった時に発現する。

「私は、弱い。ゆえに今、この状況で
 私に出来ることなどないし、
 私より“強い”人が仕切ったほうが
 うまくいくに決まっている」

と考えてしまったときに、
弱さはマイナスの威圧感をはらんだものになる。
と考えるに至りました。

弱者のポジションを先取しておくと、

「弱くて無力な私と違って、
 あなたは強くて人間ができているではないか」

という理屈を使って、

「強い人は正しいことをするべき」
「強い人は弱い人を助けるべき」

という考え方を
(本来は特別強くも弱くもないであろう)相手側に
押し付けてしまえる。

相手を勝手に「強い人」とみなすことで、
決定権と責任を
人に丸投げすることができてしまうんです。

でも、周囲の第三者からは
「謙虚な人が相手を立てている」ように見え、
弱者のふりをした自分も
「相手の実力を認めて権利を譲った」
つもりになってしまうんです。

「弱さ」を口実にして決定権と責任を
(ほんとうは特別に強いわけでも弱いわけでもない)
他人に肩代わりしてもらうということは

「どのように考えれば
 今この状況で悔いのない
 判断・選択・行動ができるか?」

という問いと、

「わたしは、悔いのない
 判断・選択・行動をとることができるし、
 自分の命や心や自我や人生を活かし満足させる方向に、
 自分の意思で進んでいける」

という確信を放棄することでもあるのだ、
ということがわかってきました。

そうなると、弱者として生きていくことを
積極的に選ぶということは、
自分が幸せかどうかが他人次第で決まるような生き方を
選ぶこと、ともいえます。
それは、きっと思いのほか生きづらいことですね。

暴力的な弱さに関しては、
人を2種類のタイプに分けて考えるわけにはいかない、

一方に

「マイナスの威圧感や暴力的な弱さを
 ふりかざすことによって
 うまいこと生きている人」

が居て、
反対側に

「そういう“暴力的に弱い人”に
 屈するしかないような立場に
 常に追いやられてしまって苦労する一方の、いい人」

が居る‥‥

ということでは、ないのだと思います。
誰でも、いつでも、
どっちの立場にもなりえるんだろうな、と思います。
(あみ)


<負の威圧感>

自分は無意識に振りかざしてはいないか?
意識的にやっていたら卑怯です
(ちえぞう)


<常に助けてーと言っている>

私の両親は、暴力的な強さと弱さで
お互いを補完しているような夫婦でした。
どちらも、心の奥の小さな自分が助けてー! って
言っているようでした。

私は長い間二人の仲介役を担っていました。

ずっと、弱い母を不憫に思い、
苦しんでいる様子が辛くてたまりませんでした。

しかしある時から、
それは母が自ら選択している事だと気付くようになり、
私自身、救われた気がしました。

母の弱さは、「暴力的な弱さ」、
そしてそれは、父の方にもありました。
暴力的な強さは暴力的な弱さだと思います。

私はその弱さに屈し続けてきた。
進路を変え、夢を諦め、
様々な選択の機会に、母の事を優先事項にしてきました。
それでも、そこから学んだことは山のようにあり、
人の弱さも、優しさも、
深く感じられるようになってきました。

暴力的な強さも弱さも、
表し方が違うだけで、本質は同じで

「寂しさ」、「孤独感」、「不安」でいっぱいで、
自信がなく、
ずっと助けてー! って
心の奥が叫んでいるような状態です。

もちろん、それをうめられるのは、
結局自分なのだと思うのですが。

先日、母が亡くなり、
これからは私自身の人生を、歩んでいこうと思います。
誰かの弱さに引きずられないような、
強さと優しさをもって。
(あなぐま)



この問題、さいしょ私は「弱ハラ」と呼んだのですが、
パワハラの権力側に加担しやしないかとの指摘もあり、
この言葉をつかいあぐねていました。が、
パワハラに対しては、
すでに「逆パワハラ」という言葉があり、
浸透していることを考え、その構造にとどまらない
弱さの脅威と捉え直し、今週タイトルにしました。

読者の意見を読み、再度強く思ったのが、
自分自身、どんなに弱ったときも、
自暴自棄にならず、
ちゃんと生きなければということです。

弱っても、悲愴感で周囲を威圧する行き方と、
むしろ、小さくても希望の灯で周囲を照らす行き方が
ある。

その意味で、この読者の体験を紹介して
きょうは終わります。


<希望の灯>

先週のコラムを読んで、
20歳の時母親が脳卒中で
倒れた時のことをおもいだしました。

救急車で運ばれて、
病院の廊下で呼吸が止まり、
その廊下で気管切開して呼吸器をつけました。

意識不明が2か月続きました。
父と交代で病院に泊まりました。

そのときの私にとっての希望は、父でした。

一緒に生活しながら、
高血圧に気づけなかった後悔や、
長年苦労を共にした妻をなくすかもしれない恐怖や不安、
そんな複雑な思いを一言も口にしないで

ひたすら看病して、
3日でできた褥瘡を2時間毎の体位変換で、
2時間毎に小さな枕みたいなものを体の下にいれて
場所をかえるのです。
夜中も、2時間毎に位置をかえるんです。

そうしたらなおりました。

今目の前にあることに一生懸命に取り組むこと、
明日死ぬかもしれない母を、
いつ心臓がとまるかもしれない、
ただ体が温かいだけで、何もできない母を、
夫婦の愛情という言葉だけでは説明のつかないような
もっと大きなもので看病しました。

意識がもどり、とうとうあるけませんでしたが、
孫6人にあえ、15年後になくなりました。
私の結婚式には車椅子ででてくれました。

父もなくなり、
今年は私にも孫がうまれました。
夫に恵まれ、
子供に恵まれ、

どんなにとほうにくれても、
目の前の事にまずはとりくむ、何ができるか考える。
わたしはそうやって生きていこうとおもいます。
(57歳専業主婦 のりちゃん)

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2015-01-14-WED
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