YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson711
 自分で社会に居場所つくる
     −4.ずれ



「居場所がなくても、大丈夫!
 まずは死にはしないと、落ち着いて。」

という私に、

「いや、居場所がなかったら大丈夫じゃないだろ。」

という読者もいて、
読んでみると私もその言い分に納得・共感なのだ。

では何が「ずれ」ているのか?

と考えてみたら、
「居場所」の話をするとき、
すでに居場所がある大多数の人が、

「よりよい居場所を得るにはどうしたらいいか?」

の話をしているのに対して、
自分はどうも、「生きるか死ぬか?」
のような次元で話してるな、
と気づいた。

「より良く生きる」の話に対して、「死活問題」の話。

これでは、うまくかみ合わないのはあたりまえ、
と気づいて、はっとした。

「このズレこそ、問題をこじらせているんじゃないか?」

定年退職後、
再放送のドラマばかり見てるお父さんは、
家族からは、

ただ、脱力しているように見える。

介護のため内定先への就職を取消し、
落ち着いたから就活をはじめたものの、
10社落ち続けたからといって
それで何もせず引きこもってしまった娘は、
両親からは、

ただ、なまけているように見える。

「死活問題」が起こっているようには見えない。
だからこう思ってしまう。

「なまけるな! 動け! はたらけ!」

家族やまわりと「ずれ」ている分には、
まだいい。

本人の中でもこの「ずれ」が起きていて、
そのほうがやっかいなんじゃないか?

本人さえも、
自分の中で死活問題が起こっていると認識できず、
ただ「なまけているだけ」と思ってしまい、
自分にこう言う。

「自分はもっと動けるはずだ、どうした自分?」

自分に不信、
さらに自分の生き方はまちがっていたのかと
揺らぎだす。

私は学者でも何でもないが、
いままでの日本で多数派の人にとって、

「アイデンティティは、自然に形成されるもの」

ではなかったかと思う。
小中高大学、就職と、するっ、と
多数派の行く王道を進めた人は、
自らどうこうしようとしなくても、
所属し・まわりから見られ・順応していくうちに、
関係性の中に自然にできていく。

一方で、私は仕事柄、
帰国子女やハーフ、日本生まれの外国人の
文章も多数読むが、
幼いころから、自分が日本人であるということで
疎外されたり、
あるいは「自分は何人なのか?」で悩んだり、

彼や彼女らにとって、
アイデンティティは、疑ったり葛藤したり喪失したりを
余儀なくされ、そこから自分で意識して
確立してきたものだ。

私自身は、大学までするっと行ったくちで、
おとなになって「アイデンティティ」という言葉を
読解はできても、
かなり長い間、ピンとこなかったのを覚えている。

私にとって、アイデンティティは、
疑ったり葛藤したり喪失したり組み替えたり
自ら確立しようと画策せずとも、いつのまにか、
まわりとの関係性の中に「自然に」できたものだった。

自然につくられたものには、自然なりのよさ、
人工でつくられたものには、人工のよさがある。

日本人が災害時も秩序を乱さず、
周囲との調和をもって行動し、海外から称賛されたのは、
自然につくられた美しさが発揮されたと思う。

でも、自分でつくろうとして確立したものでなく、
周囲との関係性の中に
時間をかけて自然にできてきたものだからこそ、

ふいに存在理由が揺らいだとき、弱い。

「就活」や「定年退職後の人生」の問題は、
たんなる試験合否や安定の問題でない、

その人の「アイデンティティの問題」である。

自他が思うよりずっと苦しんだり消沈するのは当然で。
小中高大・会社と王道を生きて
存在理由が揺らぐことなく来た人にとって、
人生初めて「尊厳が傷つく」経験だ。

「就職」や、「学校」や、「趣味」の案内は、
しかるべき機関がサポートできるだろうし、
孤立して何もしない期間が長引くより、
アルバイトでもいい、ささやかなものでもいいから、
何か行く場所を見つけて、とだれしも思うだろうし、
私もそうすべきだと思う。

でも自分で意識して頑張って存在理由をつくりあげた
というわけではない人にとって、

次に自分が属する、
趣味なり、アルバイトなり、学校なりが、
「自分のアイデンティティになってしまいそうで恐い」
のだ。

以前、ここで紹介した
「女性のひきこもり」の実例、
介護後の新卒就職活動に挫折して
そのままひきこもってしまった若い娘さんに、
親が、「仕事を」ではなく、
資格を取る「学校を」紹介し、
うまく社会復帰につなげた例。

これが成功したのも、
「仕事」を希求する娘に、「学校」をあてがったからこそ
うまくいったのではないかと私は思う。

娘さんにしてみれば、
「はやく仕事を」「一日もはやく働かなければ」
「せっかく大学までだしてもらったんだから」
「介護は落ち着いたとはいえ、
 親もそんなに丈夫じゃないんだから」
「私が一人前になって何としても親を支えなければ」
と思いつめれば詰めるほど、

仕事は、自分の次なる存在理由。

下手に動けないし、
そこで挫折・否定されれば、存在理由が消されると、
身がすくんでしまう。

「仕事を、仕事を」と思いつめて
動けなくなってしまった娘さんに
「学校」をすすめるのは、
すすめる方も、すすめられる方にとっても、決断が要る。
時間的にも金銭的にも余裕のないときに、
時間とお金の「まわり道」をするからだ。

でも、「まわり道です」と、
自分も周囲も認識しているからこそ、
「それが自分の
 次なるアイデンティティになってしまうわけじゃなし」
と、お試しで動いてみることができたのだ。

医療系の資格を取る学校で、
出口が手堅く職業と連携していたところも大切だ。

傷ついているのは「尊厳」だ。

仕事や学校は、親や機関が斡旋してくれても、
傷ついた尊厳をだれが直してくれるのか?

これといってそんなことをやってこなかったし
考えても来なかった、やりかたさえもわからない‥‥。

だからこそ、やってみるチャンスなのだと思う。

箱や周囲の関係性の中で
守られ、形成されてきた尊厳を、
今度は内側から、回復し、形作っていくチャンス。

尊厳は、その人の選択の積み重ねでできている。

日々の小さな言葉・行動・選択、
自分の内側から出た、その積み重ねで、
自己発で、存在理由をつくっていくチャンスなのだ
と私は思う。

まずは、自分の言葉をとり戻すことから。

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2014-11-26-WED
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