YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson686
  「人見知り」をのりこえる


「人見知り」から抜けるには、
やっぱり「話す」ことだ。

それができないから人見知りだ
と、ツッこまれそうだが、

見知らぬヒトの中で、人間は緊張する。

「アイツは何を考えているヒトかわからない」
というとき、「なんとなくコワい」と、
ヒトに対する恐怖心を抱えやすい。

この「恐怖心」こそ、
誤解・擦れ違い・衝突、
あらゆる人間関係のトラブルの元凶
だと私は思う。

雑談でもいい、
心がつながらなくてもいい
ほんの少しだけ勇気を出して話してみて、

「なんだアイツも自分とかわらぬ人間じゃないか」

と実感するだけで、
恐怖心はずいぶん緩和される。

実は私も、「人見知り」で悩んでいたが、
さいきん、ようやく、脱したような気がする。

もともとは人見知りではなかった。

人が大好きだった。
会社で編集者をしていたころ、
初対面だろうと、有名人だろうと、
私がどんどん話しかけていくのを、
見ていて、部長がつくづく、
「いいなあ! ものおじしない人は‥‥」
と、うらやましがった。

おかしいのだが、

フリーランスになって、
初対面の人の前へバンバン出るようになって、
何百人、いや、多いとき1000人を超える人前で、
話したりするようになって、

私は、人見知りになった。

もちろん仕事のときは、
トップギアに入れてやりきる。
でも素は人見知り。

いずれ慣れるだろうとおもってた。
転職して環境も立場もガラリと変わったのだからと。

でも、年々! ひどくなる。

やがて、「こりゃ、ほっといてもよくならないぞ」
と気づいた。

芸能人に、ごろごろいるからだ。

アメトークと言う番組では、
お笑い芸人の「人見知り」ばかりたくさん集めて
特集が組まれる。

映画でどんな役でもこなす俳優が、
バラエティ番組に出ると、
人と目もあわせられない。

いまやテレビで見ない日はないくらい、
いくつもの番組をもっているMCが、
自ら「人見知り」だと豪語する。

彼らは、日々、初対面と接している。
大勢の人前やカメラが回っている前で、
堂々と、人と話したり表現したりしている。
でも、素に戻ると、
あっけにとられるほどの「人見知り」だ。

なんといっても私がいちばん衝撃を受けたのが、
タモリさんと宮根誠司さんの対談だ。

二人とも大物らしく、
いきなり本番で、
あうんの呼吸で番組をもりあげる。

ところが、OK! が出て素に戻ったら、
二人とも、まったく目を合わせないのだ!

もちろん仲が悪いわけでは決してない。
そこに私は二人の、
隠れた小さな「人見知り」の側面を見た。

カメラが回っていて、
本番となると、
それは職人芸のようにして
話芸もコミュニケーションも輝くけれど、
芸と素は別。

「ほっといても人見知りはなおらない、
 自分でなんとかしなきゃ。」

やっとこさ自覚して考え始め、
わかったことがある。

「人がコワイ」

これが私の人見知りの原因だ。

にわかには認めたくなかった。

自分は人への恐さを払拭してきたはずだった。
会社で編集者をしていたときには考えられないような、
勇気を振り絞ってきた。
1000人の前で講演もしたし、
何万人に向けて、自分の恥をも文章に書いた。

でも尊敬するタモリさんと宮根さんを見て

「ヒトが恐くない人間などいない。
 それぞれの立場にふさわしい恐さがあるだけで。」

と気づいた。

たとえば、

目も合わせられないほど人見知りの人が、
ちいさなライブハウスで、3人の前でライブができたら、
自信になる。

でも、つぎは、300人の前でと言われたら?
また、新たな恐怖が生まれる。

それも克服して、自信がついて、

次は、3000人の前でと言われたら?
次は、武道館でとなったら?
次は、6万人の前でとなったら?

こんなふうにステージが進むにつれて、
向かう人の規模も、難度もかわり、
それにふさわしい、新たな人への恐怖が生まれる。

タモリさんのようになるともう、
何百万人、何千万人ものヒトを相手にすることになる。

集団は、想いが通じる回路にまわっているときは
多ければ多いほど素晴らしいが、
ひとたび、反感を買うと
多ければ多いほど脅威に変わる。

大物たちの対峙する「人がコワい」は、
昔私が「物怖じしない」と言い切れたものとは、
規模も、尺度も、カタチも、ちがうのかもしれない。

私は、フリーランスになってから、
つねに1人で集団に対峙してきた。
先に進めば進むほど、規模も難度も変わって行く。

「人がコワい」と思ってもムリはない。
そしてそれは恥ずかしいことでもなんでもない。

「びびってた。私。」

なのに年々払拭してきてるはずと認めなかった。
そこに人見知りという名のすりかえがあった。

自分はヒトがコワいのだ。

編集者をしてた時の自分とは、
また新たなカタチ、新たな規模で、新たな有りようで
人がコワい。

そう認めてしまったら、もうやることは自明だった。

恐さを緩和するには、
対象とコミュニケーションをとるしかない。

つまり、「話す」ことだ。

何を考えているか、どんな人かわからないからコワイ。

恐さはどこにある?

自分の中にある。

もっと言えば、自分の中だけの幻想だ。
現実に相手の内面を知るには、
話してみることだ。

そう気づいた矢先、初対面の人と
協同作業をしなくてはいけなくなり、
それがまた、わたしの苦手な、ツンとした感じの、
心の通わなさそうな見た目の人で、

勇気を出して、空き時間にお茶に誘った。

以前の私なら考えられないが、
自分がビビってるから、それを緩和するため、
話す必要があるからだ。

案の定、茶飲み話をしても、おたがい息があわない。
でも、話してみると、見た目とは意外な面が次々と、
おもしろいように見つかった。

都会の出身とおもっていたのが、
私とおなじように地方の出身者だった。
髪の毛に寝ぐせが見つかった。
人間的な可愛げが見えた。

小一時間、たわいのない話をして、
そのまま作業にもどったら、

全然ちがう。

自分の恐怖心は格段に緩和されている。
だけど、それだけじゃない。
相手のリアクションがまるでちがう。

「そうか、自分が相手をコワイと想っているとき、
 相手もこっちを恐かったんだ!」

それから、仕事でも、プライベートでも、
なんかビビってるな自分と想ったら、
相手と話したり、お茶したりして、
話すと必ず、ビビリは緩和された。
緩和どころか、おもしろいほど消え去ることも多く、
トップギアに入れなくても、自然と話せてる自分がいた。

こうして私は、年々ひどくなっていた人見知りから、
あっけないほどあっさり抜けた。

恐怖心、もっと言えば、「バクゼンとヒトがコワい」、
という気持ちが、あちこちで
コミュニケーションをさまたげる
元凶になっているように思う。

自分に合った方法でいい、
恐さを和らげる小さな実践をしたい。

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2014-06-04-WED
YAMADA
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