YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson684
  報復しない − 3.自浄するチカラ


「報復が、やりすぎになるのは、
 正義感という思考が大きく関係している」

という先週、読者まあちゃんの指摘。

報復は残虐性を正当化する。

私たちは、ひごろ
残虐性が出てこないよう
ずーっと押さえつけているからこそ、
正面切って出せたときの快感は、
中毒になるくらい凄い。

私も、強くもなければ聖人でもない、
残虐性を持つ弱い人間のひとりだからこそ、
わざわざ「報復しない」をマイ・ルールにして、
課す必要があるのだ。

では、かりに「報復しない」として
やり場のない気持ちは
どこに向かわせたらいいんだろう?

読者のおたよりからみていこう!


<年長さんのころの娘の言葉>

おっとりしていてマイペースな娘は、
我の強いお友達に振り回されることも多く、
親としてはそれが歯がゆく、

「黙ってたらバカにされるよ」
「いやって自分で言い返さなきゃ」
とアドバイスするほうが、楽でした。

ある日、
バルコニーで上履きに履き替えなかった娘を
しっかり者のクラスメイトが、
とがめ、娘の上履きを園庭に放り投げたのを
目にした私は、黙っていられず、
怒りの言葉を口にしてしまいました。

その時、娘が

「ママ、いやな言葉にいやな言葉を返したら、
 いやな言葉ばっかりになって、
 保育園もいやになっちゃうよ」と。

その言葉を聞いて、私の胸に風が吹き、
心が凪いでいくのが分かりました。
そして、争うことの虚しさの本質を幼いなりに感じ、
抑えられる娘を、私に教えてくれる娘を、
誇りに思いました。
(ユリ)


<言葉で気持ちを伝える>

うちは親子でよく刑事ドラマを見るのですが、
殺人の動機が「復讐」というのはよくあるパターンです。
犯人が捕まった時、刑事のセリフは、
あなたがやり返した結果、
あなたのような思いをする人を作ることになる、
つまり、復讐が繰り返されるということです。

「やられたらやりかえせ」という言葉は
子どもが小さいときに、
特に、男の子の親からよく聴く言葉です。

でも、私はずっとその言葉に違和感を持っていました。
刑事ドラマにあるように、
やられたらやり返せを繰り返しても、
出口は見えないからです。

やり返す、のではなく、
やられた結果、自分がどう感じたのかを
嫌だった気持ちを言葉で伝えられることが
大事だと思っています。

誰かを責める時には、
主語は相手になることが多い。
だから、相手を責める時には、自分には責任がない。

でも、自分がどう感じたかを言うときには、
主語が自分になるから、
その発言は自分の責任なのだ。
(潔子)


<自分のためにエネルギーを使う>

人に報復するエネルギーがあるなら
如何に自分が可愛くなるかに
エネルギーを注いだ方が何倍も幸せです。

ただ、嫌だった気持ちを相手に伝えることは
大切だと思っています。
何も言わずにただ我慢するのも早死にしそうなので(笑)
(K)


<傷を癒すもの>

報復しないでこの場を立ち去るなんてできない、
そんなことしたらこの心の傷が広がるだけだって、
とても立ち直れないって、
声にならない声が言い返します。
報復を正当化し
報復して出血が止まり、
やはり正しかったと思ったこともありました。

だけど正当化するということは、
されたからしたのだと、
自分に言い訳をしているのだと思います。

自分を正当化し続けるには、
自分で自分に言い訳し続けなくてはならず、
それが心の自由を奪います。
自分の言い訳に束縛されてしまいます。

実は出血は、しばらくすれば自然に止まります。
そして傷の治癒に最も有効なのは、
報復しなかったという自信だと、
気が付いています。
(Sarah)


<エネルギーを向ける先>

嫌なことをしたり、
配慮のない行為をしたり、
大人げない行動をとったりする人は、

そのような行為を誰かに見られた、知られた時点で、
すでに信用や品位には傷がつき、印象を悪くしています。

人から仕返しを受けずとも、
「もっとひどい目に合えばいいのに」とか
「いつか報いが来るはずだ」と、
誰かに思われている時点で
十分な社会的制裁ではないでしょうか。

人は常に社会の中に存在し
社会との関わりの中で生きる生き物だと考えると、
本人が自覚するしないに関わらず、
いつの間にか社会から仕返しを受けているはずです。

仕返しをして心がEvenになる人もいるのかもしれません。

でも私は、
他人の心無い行為に対して、
自分自身の貴重な時間やパワーや感情を
消耗するのは嫌です。

自分の性格から言って、
絶対に負の何かを抱え込んでしまうとわかっているので、
そうであれば、
早く忘れる方にエネルギーを使いたいと思うのです。
(とっぴー)


<不思議に報復しようとは思わなかった>

中学生のころ、いじめにあいました。

多分いじめとは相手は思っていなかったと思います。
嫌がらせ、くらいかなあ〜。
からかって楽しんでたのか。

「汚い」といわれて近くに行くと飛びのかれたり、
席替えで隣になった男子には
ものすごい嫌な顔をされて叫ばれたり、
家に電話が来て偽の告白みたいのをされたり
(もちろん、すぐに嫌がらせとはわかっていましたが)。

当時、自分が生きている価値のない人間のように
思えました。
死のうとか思ったわけではないけれど、
とにかく自分が無力であることを実感した日々でした。

親にもいえなかったし、ひたすら耐えた学生時代。
数は少なくともずっと寄り添っていてくれる
友人たちがいたからこそ乗り越えられた。

当時、私をいじめた子達のことは忘れられないですが、
でも不思議と報復しようと思ったことは
一度もないのですよね。

まだ受けた傷が新しかったころは、
自分を嘲笑していた彼らに直接ではなく、
間接に「今に見てろ、見返してやる!」
という気持ちはどこかであったとは思うんですが。

でもそれは優しさとかではなんでもなくて、
私の中では彼らに報復しようと思うことすら、
時間とエネルギーの無駄だと思うから、なのです。

彼らは、直接私に面と向かって
何か言うということがほとんどなかったんです。
私の中で、それが彼らの弱さのように
映っていたのかもしれません。

そういえばジャンケンをして負けた罰ゲームで
私に触る、とか
そんなことをずいぶんされて、

ある時私はそうやった子にしっかりと
「やめて」と言いました。

それ以後、その罰ゲームはなくなったなあ〜。
中学生男子数名でよってたかって、
一人の女子に面と向かって対峙できないなんて、
情けない、とそう思ってきました。

でも、傷つきやすい中学生という時期に受けた傷は
大きく、ずいぶん引きずりもしました。
もうあれから20年近くたったいまでも、
完全に克服しているわけではないと思います。

彼らを哀れむような気持ちになることはあっても、
何か言ってやりたいとか
そういう気持ちにもならなかったのです。

自分の心のどこかで
人の気持ちを汲み取れない残酷な彼らが、
自分のした事を悔やんだりすることも
期待していなかったからかもしれません。

私は今日本を離れた外国の地に住んでいます。
こちらに住んでもう10年以上になります。
だから同窓会に出席することもないですし、
地元に帰って彼らに会う、ということも、ありません。

あれから彼らのことを思うたびに、
私が思うのは
「もう他の人をいじめたりしてないといいなあ〜」
というくらい。

だって彼らももう大人になって、
自分の子供がいるような年です。
会社で、昔私にしたようなことを
繰り返していませんように。
そしてそんな姿を子供に見せたり、
受け継がせたりしていませんように。
そう思うんですね。

いじめを食い止めるために、彼らに、
私がどれだけ傷ついて、
彼らがいかにひどいことをしたのかをわからせるのも、
もしかしたら必要なことなのかもしれません。

でもやっぱり、それは違うような気がするのは、
ネガティビティをまたネガティビティで
広げていってしまう気がするからかもしれません。

お互いがもし自分だったら、
という気持ちで接することができたら、
いろんなことがもっとうまくいくのになあ、
と思うのでした。
(hana)


<自浄するチカラ>

結婚するとき、
夫と付き合おうと思っていた女性
(わたしは知らない人)から
匿名による脅迫と恐喝をされました。

その女性の澱みを、ダイレクトに目にして
こりゃあ行動として本気でだめだ!
とシンプルに理解でき
この汚れに法律を入れて正しく制することさえも
近付くことになって
結局は自分の心をもっと汚すと感じられ
自分を制する方を選んでました。

しかし、度を超えて自分を制することは、
けっこう毒を残し
人が傷つくということは、
未来までもなんて侵すのだろうと
つくづく思ったものです。

それでも時間が経つと

人を真っ向に傷つけることを選ばなかった過去の毒は
良き薬の成分に変わり
毒として留まっていた場所に、
良きもの(新しい思考や思いやり)が
少し増えるようにも感じられました。

報復は出す行為のように見えて
背景に随分と余分を持っていて
その行為を体現できた時点で
新しい良い成分をはね返す程
毒で一杯なんじゃないかと。

批判や傷や恨みの毒は
自然に浄化するのを待っていれば
時間はかかるけど消えて
案外新しい良き成分を得られやすいのではないかと
今はそんな風に感じられます。

報復の発生源であり余分なものが
劣等感と欲なんだろうと。

逆に自分の劣等感と欲さえ見なければ、
案外色んなことがスルーできる
ようにも思いました。
(ねもゆか)



報復されて、やるせない気持ちを
どこへ向かわすか?

正解はない問題で、
この「おとなの小論文教室。」は、
みんなで一つの答えではなく、

「それぞれ自分に合った答え」を見つける場だ。

読者には、
気持ちを伝える人、
自分のためにエネルギーを使う人、
忘れる方向に向ける人、
自浄力を信じる人、
いろいろいて、それぞれわかるなあと思い、

自分は出口をどこに向けるか?

と考えたとき、
先週の読者の蘇鉄さんの、
「反撃力をつけ、相手を口で言い負かしても
 得られるものは、虚しさだけだった。」
という言葉が思い返された。

自己が表現されないとき人は虚しい。

傷つけられたとき、
たしかに何も表現しないのは体に悪い。

では私は、「何を」表現したいか?

と考えたときに、
少なくとも、「傷ついた辛さ」ではない。

辛い気持ちを表現して反芻すればするほどに、
恨みが増幅していくというのが、
自分のやっかいな性分だ。

だとすると、
やはり、傷つけられたことに無関係の、
本来自分の好きな、やりたいことを
表現したいのだと気づいた。

恨みの気持ちはなかなか去らないが、
私の場合、そこに気持ちを向けて解決しようと
思えば思うほど、傷が反芻され、恨みが濃くなり、
記憶に書き込まれ、
忘れるまでに時間がかかることになる。

「忘れるチカラ・自浄するチカラ」

自分にあると信じて、
できるだけ、本来の自分が好きな・やりたいことに
意識を向けていきたい。

「気がついたら忘れていた」というのが
実行は難しいけれど、
いまの私の理想だ。

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
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2014-05-21-WED
YAMADA
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