YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson683
  報復しない − 2.甘美な毒


「報復しない」
というマイルールを前回書いた。

「嫌なことをされても仕返ししない、
 これは良心ではなく合理。
 もし相手が本当に悪いことをしたなら、
 どこか何かで巡り巡って
 自然の摂理としてふさわしい報いを受ける。
 だから自分で報復しようとする分は全て
 やり過ぎだ。」と。

読者から、たくさんの反響があった。

1回では紹介しきれないので、
今回は、報復の「毒性」に関するおたよりに絞って、
他の視点については、次回紹介しようと思う。

「仕返しするとき、
 自分の威力が倍増するのはなぜか?」

まず、そんな「いい問い」のあるおたよりから。


<報復は、相手を倍傷つける>

子どもの頃、やり返すと
相手を倍傷つけるということに
ふと気がついた事がありました。

こちらに非がないと思われ
周囲も私に味方している時に
私が吐く言葉の威力に
びっくりしたことがありました。

それから、逆に強く言えなくなっていき
今に至ります(笑)。

ちょっと宗教観のようになりますが
何か借りがあれば、生まれ変わっても
その借りはかえさなくてはならないし、
自分自身ではなく、自分の大切な人に
同じようなことが起きたりすると
信じています。

そういうことを本気で思う人が増えれば
世界は変わるとも信じています。

その力が人にあるということも。
(よーぶー)


<甘い毒>

報復したいという気持ちは、
甘い毒のように思えます。

私自身、傷つけられた時、
その相手に報復したいという欲求はありますし、
空想の中では、何度も報復しています。

傷つけられた経験は、
過去のことでも、思い出すと生々しいものです。
今現在傷つけられているならなおさらでしょう。

ですが、生々しい欲求だけに、
麻薬のように人を引きずりこんでしまいます。

だから、自分ではほんのわずかの報復と思っていても、
傍からはやりすぎになってしまうのでしょう。

「正当な」理由でも、
自分で手を下して相手を傷つけようとする行為、
それが報復です。

相手を傷つけることで失うものは、
理由に関係ありません。
失ってからでは遅いのです。
以前、
同僚が、患者さんに私の悪口を言っていたことを、
患者さん本人から聞く機会がありました。

その時、もし自分が患者さんに
その同僚の悪口を言っていたら、どうなっていたか?

聞いてもらえたとしても、自分もまた、
同僚と同じ所に落ちてしまっていたでしょう。
そうなっていたらと思うとぞっとします。

そこで失うものは、同僚に傷つけられて失うものや、
報復して得られる満足の比ではありません。
相手ではなく、自分自身の選択で失うものですから。
そう思うと、報復は割に合わないなと思います。

報復の誘惑はなかなか抗いがたいですが、
そこに引きずられてろくなことはない。
その自覚が私を引き止めてくれています。
(たまふろ)


<反撃力が磨かれて、得られたもの>

「攻撃は最大の防御」が、
私が言い返すときのモットーだ。

攻撃しなかったら誰が私を守ってくれるの?

ズーニーさんが書いているように
「もし相手が本当に悪いことをしたなら、
 どこか何かで巡り巡って
 自然の摂理としてふさわしい報いを受ける。」

なんて全く思わない。

小学生の頃、
度を過ぎたからかいで、私を傷つけた人達は、
きっと今頃、
私を忘れて、のうのうと生活している。

かわいそうじゃないか、私が。

そうでしょ?

と周りに聞いたら、皆肯定も否定もしなかった。

中学生、高校生と年齢を重ねると、
反論するための言葉をいっぱい覚えて、
パンチを貰ったらカウンターをすぐ繰り出せるくらい
頭の回転が速くなり、
「口が達者」「口喧嘩が強い」ような人間になっていた。

でもずっとずっと前から、
口で相手を負かしても、

得られるのは虚しさだけだった。

相手を黙らせても「よっしゃ!」とは思えなかった。

前回の「Lesson682」を読んで、
「言い返す」のが「やりすぎ」ならば、

私がやっていたのは「オーバーキル」に他ならなかった

のだと思った。
「言葉の括約筋が衰える」
という表現をみて、

口喧嘩力(?)を鍛えてきてしまった私もショック

でした。
抑える力を養いたいものです。
(蘇鉄)


<痛痒い快感>

私は教員です.

どれだけ「その子」が酷いことをしたのか
同僚やソーシャルワーカーにも
話をしましたが、

他人には分かってはもらえない事だけがわかりました。
自分の中で消化するしかないとわかりました。

その子に対する私の態度は
その日以来完全に変わりましたが、
もちろん立場上、
報復らしい報復はできませんでしたが、

その子に対するどうしようもない報復の感情は
態度に表れていたとは思います。

その感情は痛痒い快感ではないかと思うくらい、
そこを思い出してはかきむしっていました。
おそらく一生忘れることはできないでしょう。

報復の恐ろしさは
報復について考えるときの気持ちよさ、むづ痒さ、
そして相手を責める時の快感が、
中毒的であることではないでしょうか。

もし、その勢いに任せて行動すると、
自己嫌悪に陥る。
他人には理解されない方が多い。
ズーニーさんが言われるように
その報復が巡り巡って自分に返ってくる。

しかし、この件には差別問題も含まれていると思い
報復になるかもしれませんが、
何も言わないわけにはいかない場合じゃないのか
とも思います。
(てつ)


<しかえしはみにくい>

しかえしをしようと思う気持ちのドス黒さで、
自分の内側から腐っていくような気がします。

私はキヨシローさんの
「何から何まで君がわかっていてくれる」
というフレーズに救われて来ました。

「君」は人ではない時もあります。
神仏だったり、お天道様だったり、
良心だったりすると思うのですが、
いつか誰かがわかってくれる。

5年、10年単位で眺めていると、
しかえししなくても、
それなりの結果になっていくものだと思います。
(ひとそれぞれ)


最初の読者「よーぶーさん」の言うように、
むかし、私もやりかえしたとき、
自分の言葉の破壊力がハンパないことに驚いた。

ふだんは、
言っても言っても相手に届かない
ことだって多いのだ。

けれど、
「誰が見たって、私はちっとも悪くない。
 相手が全面的に悪い。
 私はこんなに傷つけられた。
 だから、すこしくらいやりかえさないと」
とやっているとき、

まるで平手が、バットになったよう。

自分の言葉が、スパーン! スパーン! と
恐るべき破壊力で相手に入っていって、
相手は予想以上にダメージを受けている。

だれが見ても相手が悪いとき、
相手は、罪悪感という良心の傷がパックリあいている。
傷ついてる人を打つようなものだから、
私の言葉は、倍の破壊力になってしまうんだな。

さらに、脳内に染み出てくる甘美な毒。

読者のみなさんの鋭い指摘のように、
ふだん私たちは、
正面切って、人を傷つけようとはしない。
いや、そんなこと、思っても、よぎってもイケない
と想って生きている。

でも、報復のとき、
地下におしこめられた残虐性が、

「その名のもとに」、

蓋が空いて、むくむくと湧きあがる。

ふだん、優しく、
人を害したり傷つけたりしない人ほど、
ひとたび蓋が空いて、
溜め込んできたものが噴き出してきたときの快感は、
自分を見失わせるくらいの毒がある。

「その名」とは?

最後にこの読者のおたよりを紹介して
きょうは、終わろう。
来週もこの問題を追う。


<「その名」のもとに>

「報復する」というのは、
怒りや恨みという感情もありますが、

「正義感」という思考が
大きく関係していると思っています。

だからやりすぎる。

加害者が被害者に攻撃をして、
被害者が加害者に対して報復をする。
その時に

自分が正しい、相手が間違っている。
だから相手を攻撃していいのだ。

という論理が自分の中で正当化されるのです。

そして正義という名のもとに徹底的に攻撃してしまう。

この加害者と被害者の連鎖は
誰かが止めないといけないのです。

誰かといえば自分しかいないんです。

ズーニーさんはマイルールにしているというのは
いいですね。
ついつい無意識に報復をしてしまいます。

この報復の連鎖は、
親子、夫婦、友人、師弟、お店とお客、集団と集団‥‥
関係性の中で必ず起きてしまうことだと思っています。

小さな誤解だったにしても
大きなことになる場合もあります。
雪だるま式に。

まずは報復をやめる。僕もマイテーマにしていきます。
(まぁちゃん)

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2014-05-14-WED
YAMADA
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