YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson666
   意志が産まれるとき−4女性の選択


17歳の意志について書いた
先週のコラムには、17歳の読者からも
おたよりをいただいた。
のちほど紹介しよう。

きょうは、

「女性の意志が産まれるとき」

について、ワークショップで印象深かったことを
プライバシー保護の改変を加えてお伝えしたい。

Aさんは、
女性の支援活動をしている女性だ。

テーマを決める担当になったとき、
「妊娠」を選んだ。

とくに深い思い入れがあったわけではない。
女性に役立つテーマだったら何にしようかと
無心に選んだ。

取材を進めていく過程で
協力してくれたお医者さんに、Aさんは、

「いまからでも私、こども産めますかね?」

と、なにげなく聞いた。
その場の流れで聞いてみただけ、だった。

医師は、しばらく押し黙り、
そして、こう言った。

「あと3年はやく相談に来てくれていたらね。」

その言葉にふれた瞬間から、
Aさんは自分でもわけがわからず
哀しくてたまらなくなった。

哀しくて、哀しくて、哀しくて、
家に帰って泣いた。
泣いて、泣いて、泣いて、

2週間泣き通したという。
そしてわかった。哀しみの正体は、

「女性として生まれてきたのに、
 自分は女性に生まれた意味や、
 体の機能と向き合うことを、
 しないで来てしまった」

ということだった。
立ち直ったAさんに、いま新たな意志が産まれている。

より多くの女性たちが、
女性に生まれた意味に気づいたり、考えたりできるよう、
心からのサポートをしたいということだ。

Bさんは、

10歳年下の恋人と、
とてもいいお付き合いを長くつづけてきた女性だ。

結婚こそしていないが、
ほんとうにいい関係で、
おたがいがおたがいのことを好きで、大切で、
一緒にいると幸せだった。

「このままでもいい」とBさんはずっと
思ってきた。

しかし、あるとき、
これから先の人生をどうするか、
自分は結婚はするのか、したくないのか、
その先に子どもはどうするか、
と自分の胸に問うてみて、

あまりにも明確な意志が
突き上げてきた。

「彼と結婚したい。家族を持ちたい。」

Bさんは、勇気を出して
自分の意志を彼に告げた。

彼の答えは、

「自分はBさんと結婚することはできない」

だった。
聞いている私には、Bさんの彼は
とても悪い人には思えなかった。
遊びだったとか、他に好きな人がいるとか、
ぜんぜんそういうことではない。
たぶん彼は、普通に恋をし、
心からのお付き合いを続けてきたのだろう。
「この関係がいつまでも続けばいい」と、
彼も強く願っていたのだろう。
でも、彼の育ってきた環境と、価値観の限界として、
彼は結婚に踏み切れなかったのだろう。

Bさんに「選択の時」がきた。

このまま結婚を諦めて彼と一緒にいるか、
それとも別れて新たな道を歩み始めるか。

Bさんは「別れ」を選択した。

ただし、いきなりでは生木を裂くようなもので、
痛みも哀しみも強すぎて受けとめられないかもしれない。
半年くらい時間をかけて、
徐々に徐々に、二人で別れを受け入れていこうと。

別れの意志を告げたときに、

彼が泣いて、
彼はBさんのことが心から好きだから
別れたくなくて、別れがつらくて、
泣きに泣いた。

自分以上に泣いて辛がる彼を見て
Bさんの心もいくらか救われた。

意志が産まれ、

はっきりと言葉にして彼に告げ、
それにより、
思いがけない別れが訪れ、
あまりにも幸せな時間が終わりを告げる。

この一連の出来事をふりかえって、
Bさんは、いちばん何を想うのか?

Bさんは意外な言葉を口にした。

「本当に嬉しかった。」

結婚したいという願いは叶わなかったけど、
結果として別れることになってしまったけど、
別れや喪失の痛みはとても言葉にならないけど、

それでも、

「結婚したいという自分の意志を、
 彼にはっきり言えたとき、
 心の底から本当に嬉しかった。」と。

Bさんは、いまふりかえっても、
あのとき、言えたことが、
やっぱりどうしても、自分には嬉しいと、
本当に清々しい顔をしておられた。

意志が産まれるとき、

切ないことも多いし、
言ったからといって報われぬこともあるだろう。
それでも、そこに
「表現できた」という根源的な「歓び」がある。

Aさんも、Bさんも
せつない現実はあったけれども、それでも、
自分の意志に出逢えないまま、
生き別れになった肉親のように、
自分の心のありかがわからず、そことすれちがいながら
日々をやり過ごすよりも、
自分の意志に気づいて、言葉にして、受け入れた
「美しさ」がある。

自分の心のありかと、自分の言動が一致して、
自信に輝いて見えた。

ここからはじまる! きっとここからいい方向に行く!
聞いていて私は、そんな感じがした。

なんとなくでやりすごして、考えず、気づかず、
それゆえ何も言わず、
だから傷つかなかったという人よりも、

「言えたことが、何より嬉しかった」という
Bさんのように、

自分の心のありかに気づいて、表現できた人は、
たとえ報われなかったとしても
「歓び」がある。

この「歓び」を信じて、私自身、
表現して生きていこうと思う。

先週のコラムには、
17歳の読者からもおたよりをいただいた。
とても聡明で、素晴らしいおたよりだ。

このおたよりをはじめ、
「意志が産まれるとき」についての
読者のおたよりを紹介して今日は終わろう。


<一度真剣に向き合おう>

先週の「考えるに時あり」の記事を、
兄に勧められて読んでみました。

僕は今、お話にあったようにまさに17歳です。
そして、進路についても決めています。
というより、とりあえず決めた気になっていました。

僕は中学生の頃、本気で
プロのギタリストになりたいと思いました。
そして自分の将来は変わることはないと思っていました。

しかし高校生になって、
よく言えば大人になって、段々「常識」をもち、
音楽以外の楽しいことも覚え、
その夢を捨てました。

そしてとりあえずの夢を、
自分とも向き合わないままに決めて、
モヤモヤをどこか覚えながらも今までやってきました。

でも、そうやって自分に思い聞かせることで
確かに今まで沢山の可能性に気付かず過ごしてきた
ような気がします。

僕にだって、将来向かいたい方向がある。
一度、真剣に自分と向き合おう。
傷付かないようにソロソロ歩くのではなく、
間違いながらぶつかりながらも歩いていこう。

別にもう一度ギタリストを目指したい訳じゃないけど、
しっかりと向き合おうと、そう思えました。
(真也)


<娘は17歳>

先週のコラム、あ〜そうか、と
考えさせられました。

「価値基準」

これは、すべての人がいつも何かを決断するときに、
「私の価値基準は何?」を
無意識に考えていると思います。

先日、お母さん方の集まりの時に出たとき
子どもが何か親に聞いてくる時、
子どもが聞いてくるから
「お母さんは〜と思うよ」親は意見を言うのに、
結局違うものを選ぶことが多い、という話になった。

じゃあ、なぜ聞いてくるのか?

きっと子どもは「これじゃない」「これでいいのか?」
そう思いながら、何かに迷っていて決断できない。
子どもは知りたいのは自分が何に迷っているのかの
「迷いポイント」じゃないのか?

だから、その時に私たち親が子どものために出来る事は、
「迷いポイントはなんなのか?」が子どもがわかるような
「問いかけをすることだ」という結論になった。

先週のコラムを読んで思ったのは、
「迷いポイント」とはつまり自分の価値基準が
どこにあるのか?
を知ることなんじゃないかと思った。

何かを選択するとき、
私たちは何か「判断基準」を持っている。
日常のどんな小さなことでも、決める、
という作業を通して、
私たちは自分の中の「価値基準」を作っている。
最初は親が決めていた基準がそのうち自分のものとなり、
思春期に入ったころから、
「それじゃない」と否定を繰りかえし、
自分の価値基準を確立していく。
思春期とはそんな時期なのかなと思った。

だから、17歳。

うちの娘はまさに17歳。
早生まれの17歳は大学受験を目の前にして、
私の娘はつぶされそうになってもがいている。

そうなのか、私たちが思っている以上に
「受験」とは重くて高い壁なのだということに、
今日のコラムで気づかせられた。

「いくらでもやり直しがきく」と
私も心の中では思っているけれど、
現実に受験に向き合っている娘に
その言葉をかけたとしても、
それは、あまりにも現実的でないことも
痛感させられている。

あと1年早く、彼女が自分の内面と向き合うことに
付き合ってあげられていたら、、、、と今さらながらに、
その「時」が遅かったことに愕然としている。

では、今は何の時なのだろうか?

彼女が受験という現実を前に
もがきながら進めずにいる彼女に対して、
私が出来る事はなんなのだろうか?

親として問い続ける自分がいる。

今は、親にとってどんな時なのだろうか?
自分に対して問い続けるしかない。
(潔子)


<問いを投げかけ続けよう>

私は学習塾で働いています。
教室長という立場で、うちの中学生について
ずっと悩んでいたことに、先週のコラムで、
一筋光明がさしたような気がしました。

私の働いている地域は、
あまり学力の高い方ではありません。

成績が飛び抜けていい子もいますが、
全体的にはあまり勉強が好き!
という感じではありません。
百点中十点や、それ以下という場合でも、
危機感を感じていない子がたくさんいます。

私がモヤモヤしていたのは、
中学生ではありますが、自分の将来について、
希望も絶望も持っておらず、
そのくせ変に楽観して
リアリティのないことを言っている生徒が
多いことでした。

ラクをしたい、ということしか考えていなかったり、
できると思っていたり。

中学校と高校は違うんだよ、
勉強も難しくなるし、留年っていうこともあるんだよ、
そもそも就職するなら、
楽しいことも増えるけど、もっと大変にな事も増えるよ、
全部自分の責任になるんだよ、などなど、
語ってはみるのですが、
イマイチ、ピンと来てない様子。

私の伝え方が悪いのかなぁと思いながらも、
成績のこともあり、
どうやって生きていくつもりなんだお前たち、
と頭を抱えたことも多くあります。

高校や大学に行かない、というなら
それはそれでいいと思いますし、
勉強だけが生きていく方法ではありません。

しかし、自分の気持ちや考えを伝えるために、
そもそも考える道筋を知ったり、
粘り強く考えたりするために、
受験の勉強はいい練習だとも思います。

答えのある問題に取り組めなくて、
今後生きていく上で出てくる
答えのない問題に取り組めるだろうか、いや出来ない!
と彼らに力説はするのですが、
のれんに腕押し、ぬかに釘、という事もしばしば。

先週の記事を読んで、
彼らは「可能性を温存している」状態なんだ、
ということに気がつかされました。

何も打ち出していないからこそ、
「自分が見えない」‥‥
自分が見えないから、将来に希望も絶望も持てない。

怖がらず、彼らに考えを「打ち出す」
質問を投げかけ続けようと思います。
それがいつか、彼らの糧になるかもしれません。
(とーこ)


<工夫の積み重ねで>

助産師から看護教員となった方のメールを読み、
年齢が近いと思われる方の経験に触れて
自分が恥ずかしくなる一方、
自分の経験もお知らせしたくなりました。
反面教師のようなものです。

30数年前のこと、大学部活の強制バイト
(稼ぎを部費に徴収される)で
予備校のダイレクトメール作りをしました。

10名くらいで、郵便物1万数千通を、
1日がかりで作ります。

中身(折り込みチラシ)を何枚か重ねる者、
それを折る者、封筒に詰める者、封をする者、
宛名を貼る者と分担をしていました。

私は宛名係となりました。

大きな台紙に印刷された宛先がシールになっていて、
それを1名分ずつ剥がして封筒に貼っていく、
まあ単純作業です。
ただ一定のクオリティが要求され、
宛名シールが斜めに曲がっていないこと、
シワになっていないことなど
注意を受けて作業にかかりました。

膨大な分量ゆえに急ぎたくなるのですが、
急ぐと宛名シールが上手く剥がせなかったり、
貼る以前に既にシワクチャになってしまったり、
きれいに貼ることがなかなかできません。

作業を続けること数時間して、
シールを台紙から剥がす際の親指の爪のかかり具合とか、
封筒の右上から左下に向かって斜めに貼っていくと
真横に滑らせるよりもきれいに貼れること
などが判ってきました。

さらに数時間が経つと封筒にシールを最初に
着地させる際の右手薬指の掛かり方を工夫することで、
方向も安定して曲がらずシワにならず
貼れるようになってきました。

5時間くらい経つと
我ながら「シール貼りの熟練工」という自覚が出て来て、
時間を忘れて没頭できました。
この作業を何ヶ月か続けると
人間国宝級の「シール貼り名工」になれるのではないか
と思いましたが、夕方には作業が完了し
帰路につきました。

後年になってシール貼りの経験が
何か役に立ったという記憶はありません。

ただ知らなかった単純作業が意外にも奥が深くて、
経験を積むごとに面白みが増していく
ことは何度かありました。

時は流れて卒業となり
私は国家試験に受かって医師になりました。

立派な動機など特にはなく
一種ブームに乗った感じで医学部を受験し、
卒後の診療科目を選ぶ段になっても
何となく内科系より外科系を、
そして医局の雰囲気が運動部の部室に似ていたのと
勧誘の宴会が楽しかっただけで、
泌尿器科に決めました。

以降30年近く現在もまだ泌尿器科医をしています。

医師になり12年目頃に、
膀胱がんの全摘手術と尿路再建手術、
つまりがんで膀胱を失った方に
小腸などを使ってパッチワークをして代用の膀胱を作り、
自分で排尿できるようにする手術が得意になりました。

小さい頃から手先が器用などとは
自他共に思ってもいなかった自分のところに
遠くから患者さんがやって来ました。

先輩の医師から
難易度の高い手術で超高齢者だが
やってほしいと依頼されることもありました。
手術の名手との評価が次第に高まりましたが、
これが天職といえるのかは自分には解りませんでした。

昨年からの私はクリニック勤務、
つまりメスを持たずに
外来診療しかしない立場になりました。

主に高齢の方の「尿が近い、出づらい、もれる」の症状を
丁寧に伺い、カラダに触れ、クスリを出したり
生活習慣の工夫をわかりやすく説明したりするのが
日常の仕事です。

トイレのお困りのカウンセラーのような役目ですが、
相手の切実なお困りを理解しようと
真剣に話を聞き出そうと努めた結果、
こちらの説明に対して高齢の方の表情が一瞬ゆるんで
理解されたのが判った時にすっと気持ちが落ち着きます。

初対面の相手との細い糸をどうにか紡いで
少し太い糸になり、この先それが綱になり吊り橋になり、
堅牢な橋が掛かるようになるまでには
地道な長いお付き合いが必要です。

ズーニーさんには「自分のやりたいこと」への悩みが
多く寄せられているように拝読しています。

私は50歳を過ぎる今でも
自分がやって来た仕事が
「やりたいこと」だったような気が
あまりしません。

自分の目の前には「やりたいこと」と
「やりたくないこと」が
いずれも極くわずかで、

残りは「やったことのないこと」ばかりでした。

「知らないこと」と言い換えても良いかもしれませんが、
私の場合には「知らないこと」を取りあえずやってみる。
その中に楽しみを見つける。
その繰り返しで今に至るような気がします。

私がダイレクトメールの宛名シール貼りを
させられたことは、
「やりたいこと」の模索とは程遠いものでしたが、
工夫の積み重ねで上手くなる楽しくなるという
貴重な経験として今も心に残っています。

自分はこの人生に悔いは感じていませんし、
これからも知らないことだらけの将来に
前向きでありたいと思っています。
(ひな夫)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2013-12-25-WED
YAMADA
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