YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson640
   理解力と表現力と、先を創るチカラ


若いうちに、
寝る時間を削ってでも身につけておきたい基礎って
なんだろう?

「理解力」と「表現力」。

なにはなくともこの2つがあれば、
働くにしろ、コミュニケーションにしろ、
やっていけると私は思う。

「理解力=わかるチカラ」

外界の情報なり、他人の言葉なりを、
はずさず読み・聞き、理解する力。

「表現力=あらわすチカラ」

自分の想い・考えを、
言葉などのカタチに表して、
他者や外界に伝え、通じさせる力。

2つがちゃんとできれば、
初めて働きに出ても、
上司の言葉なり、会社の資料なり、
読み聞き、理解して、
困ったときも、自分のその困ったという想いを
きちんと外にあらわして、
疎通して進んでいける。

料理の分野なら料理で、
「理解」の基礎があれば、
おいしい料理を食べたとき、
ちゃんとおいしいとわかることができる。
さらに「表現」の基礎があれば、
「やさしい味」にしたいという自分のイメージを、
食材や調味料、調理法で表すことができる。

理解力と表現力、

自分の分野で、これさえあれば
現実と疎通してどうにかやっていける、
とおもいきや、まだ足りない。

この春、

引っ越しをした私は、
あまりにもささいな現実につまずいていた。

テレビの「黒いケーブル」だ。

思う位置にテレビを置くためには、
6〜7メートルの「黒いテレビケーブル」を
引かなければならない。

しかし、新居は白フローリング。
壁も柱もリネンも白い部屋で、
黒い線は、すごく浮いて、
部屋全体の印象をそこねてしまう。

かといって、線をのばさなくてもいいところに
テレビを置こうものなら、
以降365日、不自然な姿勢でテレビを見るはめになる。

見てくれを取るか? 実質を取るか?

「おとなになって、さっさとケーブルを引け」
と、わかっちゃいるけど、
いざやろうとすると、どうにも黒い線がイヤで、
手が止まってしまう。

まさかこんな些細な現実につまずくとは、
つまらなくても越えられず、いっこうにはかどらず、
ふて寝して、目覚めたとき、

「白いケーブル!」

頭にぱっとひらめいた。

案の定、ネットで探すと、
「白いテレビケーブル」が、
6メートルでも、7メートルでも、
豊富なサイズで売られており、
実際使ってみると、
白い部屋の印象をまったく損ねず、
大満足の結果となった。

たったそれだけのことなのだが、
あの、白いケーブルがひらめいたときの、
脳の、身体の、
なんともいえない快感はなんなのか?

あれから何度も快感を反芻しては、
考えた。

「表現」とはちがう。

いつも原稿を書くようなとき、
「あの時のあの想い」とか、
「高校生に伝えたい私のこの考え」とか、
自分の中に何かがあり、
でも言葉にならず、
うんうんうなって、やっと、言葉にして外に出せたとき、
解放感があるが、それとは違う。

「理解」とも違う。

自分が暗記してきた知識や、その応用で、
対処できた満足感ではないし、
わからないことを調べて、探して、
「これだ!」という答えを探し出した嬉しさでもない。

世間知らずと笑われようが、なんだろうが、
私は、白のTVテーブルを見たことも聞いたことも
確かに、無かった。

自分という小さな枠組みの現実に、
いままで存在しなかったものが、
パッ! と頭の中に浮かんだ。

「先を創るチカラ」

私たちは弱く、現実の中で必ずゆきづまる。

ゆきづまったとき、
自分の知識や応用ではだめで、
誰かに教わろうとしても、だめだったとき、

目に見える現実だけが、生きる現実だとしたら、
私たちは閉塞して、息が詰まってしまうかもしれない。

しかし、私たちは、まだ現実にないものを
頭の中に創るチカラがある。

いったん現実の外へ飛び出して、
頭の中に未知のものを創り出し、
現実に立ち向かうことができる。

たいそうな言葉で言えば「創造力」だ。

以前、このコラムで紹介した読者は
「選択」について、こう言った。


<その先へ自分を繋いでいくチカラ>

9歳の時に
一生付き合っていかなければならない疾病に罹患し、
高校生の時に障害者の認定を受けました。

発症から20数年経った今、

いまだに病気を受け入れられない
弱い自分のココロを受け入れることはできました。

でも、やっぱり
病気のカラダを受け入れることができないのです。

うっかりすれば、
「あぁ私も○○ができるカラダだったらなぁ」
「せめてこれができたらなぁ」
と絶対に叶わぬ願いが頭に浮かぶし、
カラダに無理をさせているなと分かっていても、
行きたいところに行きたいし、
好きな人たちと一緒に笑っていたいのです。

カラダの声を大事にすれば、ココロが不満を言う。

ココロの声を大事にすれば、カラダが悲鳴をあげる。

「選択」には2種類あると思うのです。

1つは、未だ手にしていない複数のものから、
どれを手にするかと選び取る選択。

もう1つは、既に手にしているもののうち、
どれを手放すかと腹を括る選択。

人を悩ませる「選択」の多くは、
後者ではなかろうかと。

このコラムで登場した多くの方々の、
尊厳やアイデンティティを揺るがすような「選択」は、

何かを「選び取った」ように見えるけれども、
本当は「何を手放すか」という覚悟を決めた、
その結果自ずと手の中に入ってきた、
という類の選択ではないかと思うのです。

そして「受け入れる」という行為にも、
近しい意味合いがあるのではないかなと思います。

何かを手放さざるを得ない、
そういう事実や事象を目の前にして、その腹を括る、
そしてその向こう側へ自分を繋げていく、という作業。

「ありのまま」の自分は、
怠け者だったり底意地が悪かったり‥‥と、
認識すること自体は、
実は多くの方ができているのではないか。

認識して、はい、私はそういう人間でした、ちゃんちゃん。

これは、「受け入れる」ではなくて
「諦める」という行為なのだと思うのです。

ありのままを受け入れているように見せながら、
体よく諦めているだけなのです。
その先には、何もありません。

強い見栄を張っていたココロを手放して、
弱い自分のココロをこの先へなんとか繋いでいく、
ということはできそうなのに、

機能不全な自分のカラダにはその向こう側を見いだせない。

手放す腹を括る前に、
カラダがどんどん勝手に
機能を手放していってしまう。

「手放さないですむように助けるのが医療」
「手放す腹を括るお手伝いをするのが福祉」
「その先で何かを選び取るお手伝いをするのが教育」
というのが、その全てを享受してきた私の見解です。

その先へ自分を連れて行けるのは、
おそらく自分でしかないのです。

手放す腹を括ること、
括った先に、何かを選び取ること、
そしてその先へと自分を繋いでいくこと。

弱っかしの私には、
まだまだ遠く遠くの灯台の灯りのようで、
なかなか手が届きません。

でも、舵を握っているのは自分であると、
灯台の灯りを捉えるのはこの目であると、
そのことだけはしっかり分かっているつもりです。
(M.M)



「その先へ自分を繋いでいく力」のことを、
いまの私は、人間の「創造力」だと解釈する。

そして、「選択」には創造力が要る、
ということを思う。

ある学生が、
「退職したお父さんが、家で何もすることが無く
 再放送のドラマばかり、毎日毎日見ているので、
 心配している」と言った。

それを聞いて会社を辞めたときに、
私も、毎日毎日、再放送の、筋のわかったドラマを
見ていたことを思い、身につまされた。

退職後のお父さんに必要なものは、創造力、
つまり、その先を創るチカラではないだろうか。

とくに再就職をするとか、自営で何か始めるとか、
そういう意味でなくとも、「創るチカラ」が要る。

引退して家にいるとしても、
それは、その人のそれまでの人生の枠組みに無い未知。

「未知を生きる」ためには、
たとえ1ミリでも、
それまでの自分の枠組になかったアイデアなり、
生き方なりを、発想して、創って、進まなければ、
「単に何かを捨てただけ」「単に諦めただけ」の日々に
なってしまう。

理解力と表現力と創造力。

これといってクリエイティブな職業に就く人でなくとも、
弱い人間が、厳しい時代を生きていくために、
最低限必要な3つの力だと私は思う。
そして若いうちに寝る時間を削ってでも
身につけておきたい基礎力だ。

「創造力」の基礎はどのようにして身に付くのだろう?

一回のセミナーとか、机上の勉強とかではだめで、
創り続ける習慣、唯一それだけが
創造力の基礎を創ると私は思う。

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2013-06-12-WED
YAMADA
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