YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson639 書き方をつくる 2

書く経験を積むと、
ある程度、

あらかじめ「読者の反応が予想できるように」なる。

これは、いいことなんだろうか?

私がまだ、
大学で教えるのに慣れていなかったころ、

不慣れで、
いまよりずっと授業がへたくそであった
にもかかわらず、

不思議なことに学生たちは、
未熟な私を馬鹿にしたり、批判したりすることなく、
よく敬意を払い、よくついてきてくれていた。

現場で鍛えられ、何年か経験を積んで、
慣れてきたころに、
それはおこった。

いわゆる「斜に構える」学生の存在だ。

授業後のレポートで、
私の発言とか、授業のやり方とかを
あげつらっては批判してくる。

生まれてはじめてのことで、
私はずいぶん動揺したのだけど、

学生が誤解している部分を、
ていねいに説明したり、

次の授業では、最初から、
そういう誤解や不安をもたれないように、
全員に対して、授業意図を明確にしたり、
安心して臨める工夫を繰り返した結果、

さいごには、その学生が目覚ましい変化をとげ、
表現についても、授業に対しても、
大変深い理解の言葉を書いてくれた。

「ああ、恐かったんだな。」

学生は、未知の「表現」というものに挑むにあたり、
恐かったのだ、と気がついた。

自分の想いを言葉にして表現するのは、
おとなだって恐い。

「防衛本能」が働いて当然だ。

プライドが高く、小心な人ほど、
なにかにケチをつけることで、防波堤をつくり、
まっすぐ挑んで玉砕する恐怖から
逃れようとする。

でもそういう人が
表現能力が低いわけでは決してない。
むしろ表現というものに感度が高いからこそ、
恐れる場合がある。

「斜に構えさせるのは、教師が至らないせいだ、
 学生にあんなふうに不安を抱かせちゃいかん」

次のクラスから私は、
学生にワークをさせる前の説明や、
やったあとのフォローを丁寧にしたところ、
斜に構える学生はいなくなった。

「あらかじめ学生の反応を予想し、
 事前に打つ手は打つ!」

経験が追い付いてくるとはこういうことかと、
私はうれしく、そのやり方に自信をもち、
しばらくたったころ、
それは起こった。

斜に構える学生が、また出てきたのだ。

しかも今度は1人ではない、
3、4人いる。

あらかじめ学生の反応を予測し、
打つべき手は、きちんと、ぬかりなく、
いやむしろ以前より丁寧に打っているのにもかかわらずだ。

「なぜなのか?」

ぐるぐるぐると、私は、考えた。
「最近の若者の傾向がまた変わったか」、
私はその年度の学生の特性にしたかった。
「厳しい世相で、自分の考えを表現することに
 強いトラウマがあるのだろうか」とかも考えた。

私は、学生たちのレポートを読み返した。

共通して強く伝わってくるのは、
この学生たちの

「防衛本能」だ。

まっすぐ表現に取り組んで、
なにか傷つくのが恐い。
だから何かにケチをつけて、
自分のプライドを守りたい。

「それにしても、この学生たちは、なぜ、
 こうも恐れ、こうも防衛しようとするのか?」

「防衛本能」

というキーワードで、またぐるぐる考えていたとき、
はっとした!

「防衛しているのは、だれ?!」

「防衛しているのは、
 プライドが傷つくのを恐れて、
 守っているのは私だ!」

「学生と私は相似形。」

自分が恐れると、学生も恐れるし、
学生がガードが堅いときは、自分もなにか防御している。

生まれて初めて大学で授業をしたとき、
未熟でへたくそな私を、バカにせず、
なぜ学生たちが、未知の私に全賭けするくらいの勢いで
ついてきてくれたかと言えば、

それは、そのときの自分が、
経験もなく、それゆえ学生の反応を予測することもできず、
ただ無防備に、ありったけの勇気で
授業に挑むしかなかったからだ。

自分が勇気を出せば、学生も勇気を持って表現する。

ところが年月の中で鍛えられ、
経験とか、成功体験とか、得ていくうちに、
いつのまにか自負が生まれてしまっていた。

「学生の反応をあらかじめ予測するのは何のため?」

学生の表現力を生かすため、だった、
最初はまぎれもなく。

それがいつのまにか、自負が生まれ、
私のちっちゃなプライドを傷つけられまいと、

「ケチをつけないでよね。
 ちゃんと実績ある、いい授業なんだからね。」

防衛していたのは私だった。

自分に余裕があると、学生も余裕をもって表現をする。

それに気がついた私は、
経験から、ある程度学生の反応は予測できる、
でも、その予測に立って、どうするか、
は前とは違ってきた。

「こういう流れにすると、
 ケチをつける学生が出てくるかもしれない。」

「でも、この段階で、
 すこしくらいケチつけられてもいいんじゃない?」

「授業の終盤になったら自ずとわかるんだから」

「警戒されまいと、あらかじめ予防線を
 はりめぐらしすぎても、授業は縮こまってしまうから」

「それよりもこの段階では、
 書く歓びをいかに実感してもらうかのほうが大切。」

「ここは、私自身も、もう少しおおらかになって、
 どんといこう!」

というように、
あらかじめ負の反応が予想されるシーンでも、
それで予防線張り巡らしたり、自己防衛に走るのではなく、

予測される反応を引き受けて、
そのうえで、先を目指そう! と、
さらに勇気を出すようになった。

そうして挑んだ授業後のレポートには、
斜に構える学生など皆無、どころか、
文章がイキイキ・ピチピチ飛び跳ねるように生きていた。

ああ間違っていたのは自分だったと、
教師の水の向け方で、学生はこんなにも本気を出すんだと、
電車の中だけど、泣きそうになった。

「あらかじめ読者の反応が予想できるようになる。
 これは、いいことなんだろうか?」

と問われれば、
編集の経験からも、書き手としての経験からも、
それはいいことだと思う。

読者の反応や、
自分の繰り出す言葉に対する、読者の衝撃や痛みや
その程度を推し測ることができるのは、

現場で、読者にたたかれ、鍛えられ、失敗し、
創意と工夫でのりきってきた経験の証だ。

でもそれで、保身に走るのでは、
経験は宝のもちぐされ、どころか、むしろ自分を害する。

読者の反応を予測する力は、
予定調和に陥るためでも、保身に走るためでもなく、
反応を読んで、引き受けて、
恐れず勇気を持って、
その先を創っていくためにある。

「書き方をつくる」、先週分には、
書く現場の声が寄せられた。
最後に、このおたよりを紹介してきょうは終わりたい。


<相手が知りたいことと自分が伝えたいこととの間に>

先週のコラムの、
「ある時、ある書き方で、成功したとしても、
 次に“あの時成功したあのやり方で”などとやると
 もう自己模倣に陥って文章の生命力はなえる。」

どきっとしました。

面倒なとき、もういいやってとき、
どうしても前にウケがよかった方法になりがち。

これは、書くことだけではなく、
仕事とか何事にもあてはまる。

形だけは上手く整うけど、
自分の中の「やりきった」感はないし、
相手の反応もそこまでだったりする。

汎用的に、形式的にできることも、もちろんある。

でも、自分の想いが沸き起こる瞬間とかっていう
感情的な動きも
クライアントの課題というビジネスの話でも、
同じことなんて何一つないと思う。

だから、型どおりのやり方で及第点は取れたとしても、

人は動かない。

心が動かない。

感動はない。

文章表現にしろ、報告書にしろ、

自分の伝えたいこと、
相手が知りたいこと、

とことん突き詰めて、創りあげていこうと思いました。

そうじゃないと、
たとえ相手が動いたとしても、
自分は手を抜いたことを、よくわかっていますから。
(メイ)

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2013-06-05-WED
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