YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson619  愛をえる方程式

年明けそうそう、実家で、
考えたのは、

「おとんは、なぜ、ウケウリを繰り返すのか?」

ということだ。
私の父は、テレビで得た知識を自慢げに披露する。

それが、まちがってたり、
微妙に現実とズレてたりするので、

場にいる人は、
愛想笑いさえつくれず、
訂正するのも失礼だと、
リアクションを失い、

ただ、「どん引き」するよりない。

それでも、父はコリない。

場を引かせても、
家族がみんな困った顔をしていても、
娘にまちがいを正されても、

うろおぼえの知識を、
たからかにひけらかし、
ふりかざし、ときに、
相手の気持ちも意向も蹴散らし、傷つけてしまう。

この正月も、そんな父にうんざりさせられ、
「なぜなのか?」
と考えずにはおられなかった。

で、考えて、わかったことがある。

「これは、父なりの愛をえる方法なのだ。」

「でも、その方程式はまちがっている。」

私の父は、
人が愛ある関係を育んでいくときに重要となる、
「思いやり」とか、「想像力」とか、「共感性」に、
おおきな不具合がある。

いまの時代では、
発達上なんらかの不具合が生じた可能性もあると、
社会的にも、医学的にも、
そこを理解しようというという環境があるが、

父が育った時代に、理解はなく、
単に「変わりもの」「性格の問題」として片づけられた。

悪意がまったくないにもかかわらず人を傷つけ、
どこへ行っても浮いてしまう父は、

それでも、

田舎の、人の良い、心優しい、人々のネットワークと、
何より母の涙ぐましい献身と、

また、仕事などは真面目に、
人より高い集中力と精度でやりとげるので、
定年まで立派に勤めあげた実績があり、

地域のコミュニティから孤立することなく、
どうにかこうにか今までやってこられている。

ただ寂しいだろうとは思う。

父がウケウリを披露するとき、

無自覚だけど、たまには
人から感心されたり、
尊敬されたり、
好かれたり、ありがたがられたり
したいのかなあと思う。

人の気を引きたいという気持ちは、
私にもあるし、わかるし、悪いものではない。

だれだって、人の気持ちがこっちへ向く瞬間、
広い意味での「愛」がないと生きられない。

ただ、父の、愛を求める方程式は
恐ろしくまちがっている。
「仕入れた知識を披露して、人の心が動くか?」
というと、あまりに安直だ。

母が、
私からも、姉からも、
まわりの人からも愛されているのは、
たとえば病気の人がいたら、
その人のために、かげで心身砕いて立ち働く。
それを苦じゃなくでき、注目されようとか、
感心されようとかいっさい思わないからだ。
だから、ますます、人に信頼され、感謝され、愛される。

愛を得られるから、またさらに、人に与えることができる。

一方、人を思いやることに不具合のある父は、
母が病気になっても、世話をしない。

父が病気のときは、さんざん母に世話をさせ、
献身的な看病を受けても、

母が困っているとき、
父は思いやることができず、
自分の好きなことをやりはじめる。

そういう姿をみるとたとえ娘でも引く。

そういうふうにして人が引くと、
父は愛に干され、寂しくなり、無自覚のうちに、
ますます性急な手で、目先の、
人の気持ちを引こうとする。

つまり、ウケウリを繰り返す。

このスパイラルから抜け出るには、

父は、安直な方程式を手放し、
遠回りで時間や労力が要っても、
他者のためになにかする、という
新しい方程式を身につけるべきなのだろう。

と、そこまで考えて、はっ、とした。

「じゃあ、自分はどうなんだ?」

私の方程式はまちがっていないのか?
間違った方程式をもってしまって
それでいて、寂しい寂しいと言っているだけではないか?

「自己表現」と「自立」と「幸せ」、

人はその3つを人生で必要とすると
私は常日ごろ思ってきた。

「自己表現」、
つまり、自分が自分らしく、自分であるためにする表現。

とりたてて絵が描けるわけでも、
スポーツをしてきたわけでもない私は、
それでも30代終盤で、「書くこと」に出逢い、
言葉で自分の想いを表すこと、つまり「文章表現」を
10年以上やってきた。
ここは、苦しみ・鍛えられして、
なにがしかの「方程式」がつかめつつある希望がある。

「自立」、
仕事などで社会に貢献し、経済的に自立し、
また信頼されて、社会的居場所を得ること。

これは、
社会人のスタートのときから16年勤めた会社で、
「方程式」を叩き込まれた。
どこまでやれば仕事として通用するのか?
どこまでやらないと仕事として通用しないのか?

では、「幸せ」、
愛し、愛される人間関係を育む「方程式」はどうか?

これは、とくに鍛えもせず、検証することもなく
来てしまったように思う。
生まれたときから、母が変わらぬ愛情を注いでくれた。
だから外で何があっても、つらくても、
愛に干されることはなかったように思う。

そんな自分の方程式は、
生まれたときから愛をえるのに苦労し、鍛えてきた人の
方程式とはずいぶん違うと思わされることがあった。

知人に、
男子からも女子からも愛されている男性がいる。
特別容姿がよいわけではない、でも女性に大変モテる。
また深い濃いつき合いの男性の友人がたくさんいる。

彼は、事情があって、家族の愛情がほとんどぜんぶ
弟さんに行ってしまう家庭のなかで育った。

愛に干され、
でも人間は愛がないと生きられない。

こどもながらに、彼は、
必要最小限の愛をえるため、
家庭にささやかな自分の居場所を見つけるため、
どうすればいいかと、もがき、
創意と工夫、努力の日々を送り続ける。

結果、思いやりのある大人の男性に育った。

初対面の人でも、身近な人でも、
相手の言葉や表情や、ふるまいから、
相手のことを充分くみ取って、おしみない理解を注ぐ。

それが皮相でない、本物の理解だから、
理解を得られた人が心から歓んで、
彼を好きになる、男も、女も。

彼は、愛が欲しいならまずこちらから与える、
そのために労をおしまず、苦労を苦労ともおもわず、
というような方程式を、
厳しい家庭環境で、無意識につかみ取ったのだと思う。

他人への理解を注ぐことが、そのまま自己表現にもなり、
また仕事のスキルにもつながっている。

安直ではない、いちばん、工夫と労力の要る
方程式をつかんで、
その結果、

たくさんの人に理解を注ぎ、
同時に自分という人間の理解の深さや感性も表現でき、
たくさんの人から愛され、その中の最愛の女性と結婚して、
愛し愛される幸せな家庭を築いた。

彼の方程式は本物だったと思う。

それにひきかえ、
母からの愛をあたりまえとおもって育ち、
足りなければ、くれくれと、泣いたり責めたりして
大きくなった自分の方程式は、どうも皮相な予感がする。

でも今の自分が方程式を求めたり
磨こうとやっきになるのは、
エゴになり、なにか違うような気がする。

ただ、本物の愛を育んでいる人の方程式には
敏感でいたい。

母や、例の男性のように、
本物の愛し愛される関係を築いている人の方程式は、
安直でない、遠く厳しいものである。
少なくともそれだけは自覚していようと思う。

「あなたに本物の愛をくれた人は、
 愛を育む、どんな方程式を持っていますか?」

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2013-01-09-WED
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