YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson614
  なぜか、こきおろしたくなるとき



この夏、
ネット上のコミュニケーションの場で、
どうも、「ある人」の発言が鼻についてしかたがない
時期があった。

みんながもりあがっているようなとき、
きまって、水を差すような発言をする。

私は、それを読むと、
ズキーンと胸が冷え、
しらけてしまう。

そのあと、むらむらと、
彼女に言いかえしたいような気持ちがわきあがる。

そういうとき、私は決して反論しない。

「あきらめる。」

電子メールやネット上のコミュニケーションで、
自分の言葉の限界までトライしてみて、
失敗や、嫌な想いも、たくさんして
学習したからだ。

「いまの自分のコミュニケーション力の限界として、
 それらのツールで反論することはできない」と。

いつもなら、しばらくすればすぐ忘れてしまう。

ところがどうしてか、そのときばかりは、
しばらくたっても、むらむらがおさまらない。

「人は一体感をそがれることを嫌う生き物なんだぞ」
と言いかえしたくなっては、

「人は、」なんて、上から目線になってる私、
いかんいかん、と、ぐっと、むらむらをおさえ。

でもまた、

「あんな発言を続けていては、彼女は、
 ネット上で孤立するんじゃないか、
 彼女のためにも言ってあげたほうが‥‥」

と思ってみては、
だいたいそういう「おためごかし」が通じたためしがない、
と、またおさえ。

とうとう、

「あんまりおさえこむのは、カラダによくない」

と思い立ち、
彼女に対して、「それはちがう」と言うのは、
できないし、やりたくない。

なら、ぜんぜん別の場で、そのテーマに対する自分の意見を
きちんと表明すれば気が済むじゃないか、と思い立った。

つまり、

「カラスは白だ」と言っている、
わざわざ、その人に対して、
「いいえ、あなたは間違ってます。
カラスは白ではありません」と反論しなくても、

「私はカラスは黒いと思う」

ということを、自分が伝えたい場で、
伝えたい人に、のびのびと表明すれば済むことだ。

ところがこれもやろうとして、
私の心根に、
彼女に対する「それはちがう」という想いがある
ために、なんか、「あてこすり」みたいになりそうで
やれなくて、また、おさえこんでしまった。

むらむら発生から2週間たったころ、

シャンプーをしながら、
また彼女のことが意識にのぼってきた。
さすがに長い、とあきれ、
自分で自分を茶化した、

「こんなにしょっちゅう考えてるっていうのは、
 好きなんかーい!?」

と。
これが男と女なら、ドラマではありふれた話だ。
こき下ろそうとしている異性を結局は好きというオチ。

もちろん、私と彼女は同性で、
恋愛沙汰に発展しようはずもない。
だから、あくまで冗談で、
半分ヤケで自分をからかっただけ。
にもかかわらず、

「好きなのか?」

という言葉が浮かんだとたん、
すーっと腑に落ちていく感覚がした。

「なぜか、こきおろしたくなるとき、
 ほんとうはその人のことが好きなのかもしれない。」

自分と、ある人の、意見が対立しているとき、
キライな相手、どうでもいい相手なら、
さしてツラくない。
むしろ、あの人と同じでなくてよかったとさえ
思えるのではないか?

一致をみなくて、腹立たしいというのは、
根っこに、一致をみない寂しさ、
もっと言えば、
自分と相手は一緒でありたいという想いがある。

むかし、彼女と私は友だちで、
でも、あるきっかけから疎遠になった。

いまは疎遠になってしまった友人でも、
自分が寂しいとき、ふっと、
懐かしさがぶりかえすことがある。

それに、
もともと友だちというものは、
なんの打算も、利害もなく、
ただ「好き」という気持ちから始まったものだ。

人は一人ひとり、かけがえがなく、

いくら自分が友情に飢えていない時期でも、
リクツじゃなく好きになった「なにか」は生きていて、
その「なにか」を、
むしょうに、懐かしく、恋しく、思うことだってある。

「好きなら好き、と認める。」

意外な糸口から、
心のむらむらは、猛スピードで凪いでいき、
明確になっていった。

「じゃあ彼女にメールを書いてみるか?
 ごはんでも誘ってみるか?」

と自分に問いかけて、
そこで、ハタ、と止まった。

それは勇気はいるけど、やろうと思えばできるし、
彼女も応じるかもしれない。
でも、私がそうしないのは‥‥、

「ああ、そうだ!」

いま、はっきりわかった。
疎遠になったきっかけは具体的にあげられるけど、
理由はもっと根の部分、

彼女にとって、私が退屈な友人であったということ。

私はそれが嫌で、
自ら遠のいたのだということに気がついた。

人の気持ちはなかなか釣り合わない。

自分が好きな相手が、
同じ強さで好きになってくれるわけではない。
自分も、自分を好きになってくれる人を、
同じ強さで好きになれるわけではない。

もちろん、退屈がられても、好かれなくても、
自分がその友人を好きだと思って、くっついていく
という選択肢はある。

でも、その人とその場合に限って、
プライドとかそういう問題じゃなくて、
単純に私は、その状態を「おもしろい」とは思えなかった。

「なぜか、こきおろしたくなるとき、
 ほんとうはその人のことが好きで、
 でも、自分ではだめだということが、
 どっかでわかってるときかもしれない。」

シャンプーをしている、わずか数分で、
「はっ!」 「はっ!」 と気づきが連続的におしよせて。
むらむらの正体はすっかり、解体・整理され、
泡と消えていった。

案の定、むらむらは、
そこをさかいにピタッ! ととまった。

ネット上で彼女の発言を見ても、
あのときの発言を思い返してみても、

もう、まったく、腹は立たない。

具体的に何が解決したというわけでもないのに、
ひとたび自分と通じたら、心は凪いだままだ。

それに、もうひとつ理由がある。

「いま、同じ強さで引きあっている。」

そう思える友人の存在があるからだ。

「想う人からはおもわれず、
 おもわない人からは想われ。」

仕事にしても、友情にしても、恋愛ならなおさら、
人生は、その連続だ。

そこへのやるせない気持ちはある。

でもそんな苦い想いの連続だからこそ、

「いまこの瞬間は、同じ強さで引き合っている」

と思える瞬間に、
どうしようもなく励まされている自分がいるのも事実。

疎遠になった友人とも、
かつてはたしかに、そんな瞬間があった。

人が生きて進めば、
どちらが上がったとか、どちらが下がったとかではなく、

丸い地球を航海するように、
人と人は出逢ったり、離れたり、再び出会ったり
を繰り返す。だからこそ、

一瞬の通じ合う瞬間に、心をひらいていよう!

そのためにも、
人をこきおろしているひまはないぞ、
と私は思う。

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2012-11-28-WED
YAMADA
戻る