YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson609
   素人さんの文章は、まず言い訳からはいる



書き出しの1文には魅力が要る。

にもかかわらず、
素人さんの多くは、まず、言い訳からはいる。

先日も、
発表の席で、
一人の男性がこう話し始めた。

「自分の前に発表した人が面白かったので、
 その後は、やりづらい」と。

次に、
「きょうは制限時間が30分しか与えられていない、
 これでは充分なことは言えない」と。

さらに、
「与えられたお題が大問題すぎて、
 自分みたいな若輩に何が言えるか」と。

ついでに、
「風邪をこじらしていて、
 聞き苦しいかもしれないが勘弁してくれ」と。

発表順、制限時間、テーマ、体調‥‥。

次々に言い訳をしていき、
やっと本題にはいったとき時計を見たら、
開始から7分たっていた。

素人さんの多くが、
なぜ、言い訳からはいってしまうか?

自分の「逃げ」に無自覚だからだ。

人前で話す・書くとなると、
だれしもプレッシャーを感じ、
「逃げ」の心理が働く。

プロだってそうだ。

でも、プロは経験上、
「自分がいま逃げてるな」と気づける。
だから逃げから戻ってきてお題と立ち向かえる。

学生の文章も、
もしも、何もナビゲートしなければ、
言い訳からはいる文章が続出する。

会議で発言するときも、
プライベートで友人にメールの返信をするときも、
結婚式でのスピーチさえ、

「緊張していて‥‥」、

「時間がなくて‥‥」、

「書くのが苦手で‥‥」、

「テーマが重すぎて‥‥」、

ちまたには、
言い訳から始まる文章があふれている。
だからこそ、

「いっさいの言い訳なく本題にはいる」

これだけでも、
話す・書くシーンで、
バツグンに印象はよくなる!

だが、表現教育の現場で、
「言い訳はいっさいするな、ずけっと本題から入れ」
と指導してみたものの、
どうもうまくいかない。

とくに高校生が、
人前で、スピーチをするようなとき、

「いま緊張しています」

と言葉にして、吐き出すことで、
つっかえていた緊張の重しがとれ、
ラクになって、本題に入れる側面もあるのだ。

にもかかわらず、
「いっさいの言い訳をするな」と封じられて、
言い訳こそしないが、
本題にも入れない、という困った事態もおきた。

大人の場合は、言い訳を封じると、
「本日はお日柄もよく‥‥」というような
常套句に逃れてしまう可能性もあり、
手垢のついた印象になる。

聞き手・読み手のテンションは、
最初の一文にぐっと集まる。

最初の一文がつまらないと、
ましてや言い訳からはじまると、
せっかくの集中もむなしく、
聞き手・読み手の気持ちは離れていってしまう。

そこで、いい方法を思いついた。

「書き出しの一文を決める」

即興でスピーチするようなときは、
話し始めの一文だけは、
考えて、決めて、覚えて、
迷わず、その一文から口に出してみる。

実際、試してみたら大成功で、
話なれない一般の人や、高校生も、
最初の印象が、ぐっと強く、引きこまれるものになった。

そうした聞き手の集中が、
話し手の、その後つづく言葉にいい影響を与え、
よいスパイラルになっていく。

文章も、言い訳からはじめない、
最初の一文に意志を込める。
それだけでぐっと入りやすく、引きこまれるものになった。

だが、この指導もまた、
困った問題にぶつかった。

素人の人が、
最初の一文を大事にしようとすると、
これもまったく経験の少なさからくる無意識で、
肩に力が入りすぎてしまう。

文章全体の、
800字なら800字を通してやっと伝えられる主題を、
最初の一文で言ってしまおうとする。

たとえば、自己紹介の文章を800字くらいで書くとする。

決して少なくはない人たちが、
最初の一文で、
「私という人間をひと言で言うと‥‥」と書き出し、
いきなり、自分の本質を一文で言い抜こうとする。

これは2つの点で難しい。

ひとつには、
多面的な自分という存在を、たった「ひと言」、
つまり、キーワード1つでつかまえようとするのは、
プロのコピーライターでも、
そうとうに難しいということだ。

ふたつめに、
仮に、書き出しの一文で、
文章全体の主題にあたるような本質が、
ズバッ! と言い切れたとする。

しかし、最初に結論を言ってしまうと、
下手するとこれは、オチのわかった漫才のように
読者に先を読まれてしまわないだろうか。

最初の一文で、あまり本質を言いすぎると、
あとにつづく文章がすべて予定調和となる危険性がある。

実際に高校生や大学生が書いた文章で、
私が面白いなと思ったものは、たとえばこんな書きだした。

「そもそもだ。嘘つきの何が悪いのだろう」

自己紹介と言われて、
多くの人が、「私という人間をひと言で言うと‥‥」
あるいは、「私は‥‥」で書きだしている中で、

「そもそもだ」

とはじまると、それだけでも新鮮だった。
え? なにがそもそも?! どういうふうに、そもそも?!
とついつい、次が聞きたくなった。
またこんなのもあった。

「ぼくは、ジョン・スミスです。」

これは岩手県の高校でワークショップをしたときの
高校生のスピーチの最初の一文で、
だれがどう見ても、まったくの日本人、
どこからどう見ても「ジョン」ではない、
その意外性にみんなの集中はぐっと引き寄せられた。
最後まで聞くと、
日本人として、いまここにいる自分が、
でも、どこか異邦人のような、
身の置き所のない感じがしているということ。
最初の外国人にたとえることで、
この感じがよく表れていた。

「幼稚園のとき、
 家族でホテルに泊まったときのことです。」

実にさりげない、肩の力の抜けた書き出しなのだが、
それだけに、実にすんなりと読み手も話にはいっていける。
いまから振り返れば、現在の自分をつくるに至った、
分岐点となる体験を語っていた。
たった一つの体験から
自己を浮き彫りにしてよく伝わってきた。

このほかにも、
プライバシーに抵触するので具体的に書けないのだが、
「自分の人生の最大の失敗」を、
ぼやかした表現ではなく、具体的な事実で
ズバッと書いた人もいた。
正直で、勇気ある書き出しとだれもが思った。
書き出しの一文で、いきなり読者の信頼を得てしまった。

「書き出しはこうしろ」という法則はない。

あったとしても、
私がそれを書いて、みんながそうしたら、
みんな同じ、しかも思考停止になってしまい
本末転倒だ。

だが以上述べてきたように、
少なくとも、受け手の興味をそがない書き出しはある。

まず、書き出しは、緊張が高まるところ、
自分の「逃げ」が出やすいところと心得る。

「逃げ」を自覚するのが第一歩。

そのうえで言い訳はいっさい書かない。

最初の一文には魅力が要る。

ただし、それは必ずしも、
文章全体の主題を言うということではない。
大上段にふりかぶっているときは、
肩の力を抜くことも考える。

さりげない、あるいは、ずけっとした、
意外性のある、具体的な、正直な、などなど、
自分ならではの魅力の持ち味がある。

文章全体のグレードアップは、
なかなか億劫でも、今日から、
話はじめ、書き出しの、「たった一文」だけ、
そこだけ変えてみるのはどうだろう。

思わぬ勇気ある自分の表現に出会えるかもしれない。

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2012-10-24-WED
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