YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson527
       「ひらく」とはどうすることか?
       ーーー 2.読者からのメール


先週のコラムに、
たくさんの反響をありがとう。

さて、読者はどんな反応をしたのか?

当日、あのティーパーティに参加して、
実際に私と、好きなものマップを見せ合った方からも、
貴重なおたよりをいただいたので、

今週はできるだけ、
たくさんのおたよりを紹介したい。
まず一気にお読みください。


<相手を鏡に、自分を見ている>

「ひらく」とはどうすることか?
とてもおもしろかったです。

私、人を褒めるときに、
自分がひそかに得意にしていることや、
自分が褒めてほしいと思っていることで褒めてるなーと
思うことがあるんです。
で、これって、その人をちゃんと評価してることに
なってないなーと思う。

目の前の相手を鏡にして、
そこに映っている自分のことだけ見ている
‥‥というような感じでしょうか。

ズーニーさんが仰る「ひらく」は、
この鏡を打ち破ることと通じるかもと、
これまた自分にひきつけて(苦笑)思ったのでした。
(編集者)


<相手が大きく書いていることを、とばす違和感>

あの日、
私は自分の知っていること、
少しでも会話が出来そうなこと、
もしくは相手と共有することを優先させて、

相手があんなに大きく書いていることを、
とばしてしまう違和感を
自分自身に感じていました。

ききたいのに、きかない‥‥という自分がいました。

それは、知らないことへの、自己嫌悪感であったり、
知らないことがかもし出す圧倒感で
言葉が出てこなかったりと、
なんなんだこの感覚は???と感じていました。

どうすれば、打開できるのか‥‥
知らない言葉を帰ってからググればよいか‥‥など
考えながらいたときに、
ズーニーさんの「身投げ」ということばで、
はっとしました。

マップを準備するにあたり、自分の過去をおもいだしたり、
みなさんの感性にふれてたくさんの気づきをえたり、
刺激的な1日でした。

もちろん帰ってから、「芸術一郎」をググりましたが、
その場でズーニーさんに偏愛ぶりを、
きかなかった後悔が残りました。
楽しく、たくさんの学びを得られ本当に、
ありがたい1日でした。
(当日のティーパーティ参加者)


<相手が楽しそうに話すのが好き>

相手が小さな字で書いていたことを指差す気持ち、
それは、ツィッターで見知らぬ人が書いていることに
共感したり返事を書きたくなったりすることに似ています。
そうそう、私も、と最初は思いました。

でも、人と会っているときの私はちがうかもしれない。

相手が興味をもっていることを話し始めたりしたら、
わりと、何も知らないので聞かせてほしいと
思うほうなのです。
そういうときははじめから、
自分はそのことについては無知であることを
かくしたりはしません。
たぶん、気の利いた返事などできてないとは思うんですが、
疑問に思ったり不思議に思ったりしたことを
正直に聞きます。

そういうやりとりをしているのが楽しいのです。
いえ、それもそうだけど、たぶん、
相手が楽しそうに話しているのを見るのが好きなのです。
(くぬる)


<同じムラの者か? よそ者か?>

今回の記事で思い出したのが、
SNSのプロフィール画面です。
未知の人間のプロフィールで探すのは、
たしかに自分が知ってる単語。

ははぁと気づかされました。

やっぱり、
自分と同じ「ムラ」の人間かどうかしか
頭にないのでしょうか‥‥。

日本人の古い気質に
よるところが大きい気がするなぁ。
見かけは近代的な社会であるけど、
メンタリティは古いムラ社会。

この問題を取り上げずして、
「ひらく」ことを論じるのは
本質から外れることになると思います。

「ひらく」という姿勢、
「表現」に真剣に向き合ってるひとは、
必須だと思います。

ただ、それ以外のひとたちには「ひらく」という姿勢を
続けることがむつかしいことだろうと思います。

それ相応の苦痛が伴う。
それを引き受けてまで「ひらく」か。

ぼくは「表現者」の端くれだと思ってるので、答えはyes.
(熊本の青い人(27))


<人に共感するときでさえ>

共感するのも自分本位になりがちなんですね。
(kimiy)


<共通点、それだけでは印象に残らない>

「ひらく」と聞くと、自分の事を語ればいい、
と思いがちです。
違うのですね。

相手の興味関心のあるところに斬り込んでいく。
自分のプライドを捨てて。

結婚活動をしていると、
つい相手との共通点を探して話題にしてしまいます。
そうすると、相手の記憶には残らないのですね。きっと。

「おっ!」と思わせるには、
相手に興味関心のある事を語らせるのが
いいのかもしれませんね。
婚活に限りませんが。
(みけん40)


<土俵の中にいる自分>

勇気を出して「身投げ」をするということ。それ以前に、
「土俵の中にいる自分」に気付くということ。
それは、今回の「マップ」のように
目に見えるものがあるからこそ気付かれたのであって、
普段の会話の中で私が気付くことが
果たしてできるだろうか、と不安に感じたのです。

普段の会話の中で、
相手が一番大事にしているのは何だろう?
分かったところで、
相手を良く知るために踏み出してみること。

身近な場面でそれが一番試されるのは、すごく単純で‥‥「異性を口説く時」だと思います。

私も「身投げ」をしたいと思っていますが、
いまひとつ勇気が出ない。
でも、気になる異性のためなら、
一歩でも二歩でも踏み出せる気がします。
(T.A.)


<私にとって開くとは>

表現するということ、
そして自分自身を解放することのように思います。
(マコスタ)


<自分の「ひらく」を知りたい>

「ひらく」ってむずかしい。
子育ての話の中で、カウンセリングの講演会の中で、
コミュニケーションを論ずる中で、
「ひらく」という言葉が出てくる。

よく話を聞いてあげるのが、「ひらく」ことなのか?
相づちを打ち、同調するのが、「ひらく」ことなのか?
アドバイスや意見を述べて、導くのが
「ひらく」ことなのか?

ひらくとどうなるんだろう。
気持ちがいいんだろうか。納得するんだろうか。
それは、自分が?相手が?

自分の「ひらく」を知りたい。
ズーニーさんの最後の一言、染みました。
ちょっと考えたいと思います。
(しぶしぶスヌーピー)


<ひらいた先に、なにがある?>

以前に「ひらいた身体」というテーマの時に
いろいろ考えさせてもらって、
自分なりに何ができるか?
と考えたとき、

私にはあなたを受け入れる余地がある、
ということを伝えるのは
質問をすることかな、と思い、
質問して話を聞くようにしよう、と思い立ち、
実践しています。

そうしたおかげか、久しぶりに道を聞かれてみたり、
2年くらい通っているジムで話せる人が増えてきたり、
これは自分がひらいてきてるから?
と思えることが起こって
びっくりしているところでした。

今回の「ひらく」ということについて考えると、
今の私だったら、真ん中にどーん! とあることは
聞いて欲しいことなんだな、と思って、
聞けるんじゃないかと思います。

質問して話を聞くっていうのは、
相手が聞いて欲しい!と思っていることを受信する
ように気を配る、ということかもしれないです。

でもどうしても苦しい部分があるんです。

私が定期的に参加している集まりがあるんですけれども、
そこは参加者が順番に意見を言っていく場で、
私は積極的に質問するようにしています。
そのおかげで、いろんな方から親しく話してもらえたり、
一緒にグループになれると嬉しいと言われたり、
うるさいと思われるよりも喜ばれるんだなあ、
なんてちょっと嬉しく思うところもあるんですけれど。

私が話すと、誰も質問しない‥‥

今日も質問して、いろんな人の話を聞いて、
でも私の話の時は誰も質問してくれなかった、
それって話し方のせいなのか、
話がつまらないからなのか、
みんなと全然違うことを考えてて
とんちんかんなことを言っているのか‥‥‥‥
私が意見を発表していないことに気づかれず、
終わってしまったこともありました。

参加して帰り道、ものすごい孤独感に襲われます。
理解されている感じがしないんです。
真空に向かって言葉を投げかけている感じがぬぐえません。

ズーニーさんが衝撃だったのは、
ズーニーさん自身が聞いて欲しかったことを
聞こうとした人がいなかったことが
理由なんじゃないかと思いました。

興味の方向が一方通行だったんじゃないかな、と。

私は相手に興味を持って質問をしているつもりで、
でも相手から見たら、興味の対象ではない、ということで、
まだひらく力が足りないってことなのかな。。。

まだまだひらいていくと、何か見えてくるんでしょうか。
質問して理解しようとしていることに、
私のことも理解して欲しい!
が乗っちゃってると、ひらいているとは言えないのかな?

日々の刹那的な嬉しさだけでは、
この道は進めないと思うと、
きっと、何かあるに違いないとは思うんですが、
私にはまだ見えません。

ひらいた先に何があるのか。

今、その道の途中にいるであろう私には、まだ辛い道です。
ズーニーさんはなぜひらこうとしてるのでしょう。
その先に何があるんでしょう。
ズーニーさんは、今、何を見ていますか?
(のり)



鋭いおたよりが多くて、
自分の痛いところを指されて、ドキッ!とすること
しきりだった。

まず、「人を褒めるとき、
自分が褒めてほしいところを褒めている」
に、ドキッ!

当日のティーパーティ参加者さんの、
「相手が大きく書いていることを
 とばしてしまうことに違和感をもっていた」
というところに、
「このかたは、最初から気づいていたのか!」と
スキルの高さに、ドキッ!

別の読者が、まずは「自分の土俵の中にいる」ことに
気づけるかどうかだと言っていたが、
ほんとにそうで、そこがなかなかできないのだ。

私なんかは、途中から、
それも、相手のを見て気づいたのではなく、
自分が大きな字を無視されることを何回もやって、
やっと気づけたのだ。

知らない単語に出くわしたとき、
「帰ってググろう」と、私もよくやっていたことに
気づかされて、またドキリ。

未知の人に出くわしたときに、
私たちは、
「結局、この人、うちのムラの人間?
 それともヨソモノ?」
で仕分けをしてしまっているという、
熊本の青い人さんの指摘にドキリ。
私自身この域を出ていない。

でも、恋は別もので、
ヨソモノにおもいっきり身投げしてしまうのが、
恋の醍醐味で、

みけん40さん、TAさんの言うとおり、
ただ自分の土俵でラクに通じ合える共通項だけで
なごんでいては(それも大事なことだが、)
相手にインパクトは残せない。

そこでは、自分の土俵の外の、「相手だけの世界」
そして、相手の土俵とはまじわらない
「自分だけの世界」を、
いかに知り・伝え・惚れ・惚れさせるか、
が分かれ目になる。

そして、のりさん、スヌーピーさん、
マコスタさんの書いていた、
そもそもひらくとは、どういうことか?
ひらいた先になにがあるか?

「ひらく」とは、よく、
自己開示の意味で使われることが多く、
それはまっとうな解釈とおもうものの、
私の解釈は、人と変わっていて独特だ。

正解はないのだろうが、
私なりの定義は、次週述べてみたい。

最後に、よく、このコラムに新鮮な風を送ってくれる、
ドレミさんのおたよりを紹介して終わりたい。

ドレミさんも、そして、このコラムの読者に
共通して言えるのは、
私のつたないコラムから、
まず私の最も言いたいこと(主題)を読み取り、

瑣末なことではなく、その主題に対して、
まっこうから自分の意見を書いてくれることだ。
その理解の姿勢に感動する。

書き手の主題ではなく、
自分が反応したい部分に反応するという読者も、
ネット上ではよく見かける。

書き手になったことのある人はよくわかるとおもうが、
コラムに書ける情報は限られていて、
さまざまなツッコミを予想して、あらかじめ、
それに備える説明を加えて書くと、
ものすごい量にふくれあがる。

読者を信じて、本筋とはずれる瑣末なことへの説明は、
カットしなければならない。

そのため、舌足らずの、突っ込みどころ満載のコラム
になることも多い。

しかし、その説明不足の表現から、
なんとか、筆者の言わんとするところ、
その核心をつかみとろうとする姿に胸を打たれる。

ドレミさんの文章も、積極的な理解の姿勢・能力、
高校生の底力を尊敬せずにはいられない。

ひらくとはどうすることか?
ひらいた先になにがある?

ということへの、このメール自体が、
ひとつの回答にもなっているとおもうので、
最後に、じっくり読んでほしい。


<自分を、でなく、相手を深める>

今回のコラムについてですが、
僕も似たような体験があります。

それは新聞を読む時です。

新聞の1面というのはトップニュースが載っていて
興味を引く記事が多いのですが、

2面、3面とめくっていくと、
やはり、でかでかと書かれた記事よりも
知っている単語を探している自分がいます。

僕の場合では、芸術関係や科学関係を主に探しています。

新聞が本当に伝えたいのは、
大きく描かれた記事なのでしょうが、とばしてしまいます。

けれど、親や友人と話していると、
僕の読んでない記事が話題になったりします。

他人は自分とは違う視点で物事を考えています。

それを一生懸命になってこちらに伝えようとする
その人の姿を見て、
僕自身全く興味の無かった話題に、
改めて興味を持ったことは何回もあります。

親と話す時は、ジェネレーション・ギャップの関係上
知らないことに、興味を持てたりします。

僕は初め、
ズーニーさんは、
『自分の知らない世界を他人を通じて知ることで、
 自分を深めようとしている』のだと思いました。

それなら、僕の人生でもなぞれる部分が
あると思ったからです。

けれどそれは違うと今は思っています。

つまり、先生が言いたかったのは、
『自分を開くということは、
 他者の根本思想を追求することだ』
ということなのではないかと思っています。
(これは、昨年の「表現」のコラムと
 通ずるところがありますね)

例えば、僕が山田ズーニー先生から
「芸術一郎」の話を聴いたとします。

その時、それをただの情報として捉え、
今まで興味の無かった「芸術一郎」に
興味を持つことが出来た、というのが前者であり、

情報として知った上で、
何故相手はそれが好きなのか、
どういう出会いがあったのか、
など相手の根本思想に触れるというのが後者だと思います。

そして僕は、後者の様なことまで追求して初めて、
自分をひらいた、ということになるのだと思います。

相手と自分の共通項を見つけるだけでなく、
相手の目線を知るだけでもなく、
相手の目線の元にある根本思想を追求する。

そして、他者という人間を知る。

それこそが、自分をひらく、
ということなのだと思いました。

僕なんかはまだ子供で、
経験によって自分を形作っていく部分も多いと思います。

だから、今のズーニーさんの状況を
身をもって知ることはまだ出来ませんが、

この先生きて行く上で、
とても楽しそうな遊園地が見つかったと思っています。

でも、結果に向かって走るのはあまり好きではありません。

だから、僕が大人になってから
がむしゃらに走った結果、
その遊園地で遊ぶようになっていたら、
ズーニーさんのこのコラムを思い出したいと思います。
(ドレミ)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2011-02-09-WED
YAMADA
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