YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson522
      理解という名の愛を咲かそう


「理解という名の愛がほしい」

とは、2000年、コラムを書き始めた当初から、
ずーっと根底にあった想いだ。

私は、まだ、私ではなかった。

存在理由がグラグラし、
だれからも理解されず、
孤独で、まさに、

「表現されない自己は無」に等しかった。

理解に飢え、
3年、5年、と書き続け、

「伝え続けていれば、いつか伝わる!
 書き続けていれば、いつか理解の花が降る!」
という境地を見た。

自己を表現して、
自分とつながり、
他者からのかけがえのない理解を得て、

私は、私になった。

だが、ここへ来て疑問がよぎる。

「自己表現のゆきつく先はどこだろう?」

表現するものが、
とどのつまり「自己」だけなら、
限界がある。
ゆきづまる。なにか寂しい。

そんな矢先、光が差した!

今年、なんといっても面白かったのが、
シリーズ
「大竹しのぶはなぜ食わず嫌い王で勝てないのか」で、
全国の読者と「表現」について考え合ったことだ。

読者には、映像監督・ダンサー・俳優・漫画家など、
表現者も多くいた。

“自分は自分以外の人間を表現できる!”

と気づかされ、
衝撃とともに、目の前がぱぁっ!とひらける気がした。

それまで「他人」は、「理解」する対象であって、
「表現」しようとは思いもしなかった。

だって、表現は、自分の中から生む、
「出産」にもたとえられる行為だから。

身の内から他人を生むって、どういうことよ! と。

でも、他人を理解して、
理解して、
理解して、
他人の根本思想にたどり着いたとき、

自分の内にある、
優しさ・意地悪さ・責任感・優柔不断・
潔さ、ずるさ‥‥などの成分の配合率が
ガチャリと変わり、

別人格を表現できる。

ふだん優しい人も、
優しさを1%に減らし、
意地悪さ全開! 責任感ゼロ! ずるさ5倍!
‥‥としていくと、すごくイヤな人間を表現できる。

自分の成分を使い、別人格を表現する。

まさに自分の中から他人を生む行為、
それが、

「他者表現」。

考えたら俳優・小説家・漫画家・脚本家、演出家、
他者表現を、日常的にやってる人が多くいる。

俳優は、
何度も何度も台本を読み、
言葉や行動の背景にあるものを汲み取り、
最終的には、
その人物の氷山の奥底にダイビングして、
根本思想を理解する。

そこから歩き方・声の出し方・表情‥‥、
自分とは違う他人を、全身で表現する。

小説家は、
登場人物が10人なら10人の、
他者理解・他者表現をやりわける。

小説家自身が男なら、
登場人物の「女」を書くために、

女の根本に迫る理解に挑戦する。

女の根底にあるものにたどり着けたら、

自分の中の男性成分をおさえ、
女性成分全開! で、女を表現する。

男も、女も、大人も、子供も、少年も、少女も、
老人も、賢者も、偽善者も、英雄も、

自分の成分を使って、
配合率を変えて
表現できる。

一作品で、10人もの別人格を表現できるなんて、
自由だなあ、面白そうだなあ。

もしも、登場人物たちが、
書き手が自己表現するためだけの
単なる道具にすぎなかったら、

何人登場人物が出てこようと、
それは、味気ない、操り人形。

しかし、書き手が、
人物ひとりひとりを理解し、

まさに理解という名の愛を注ぎ、

他者表現として立ち上がらせたなら、

登場人物はそれ自体、独立した命を持ち、
魅力を放つ。

書きながら、自分でない他者の魅力に
引っぱられるというか。

俳優・作家、
これらの職業が時代をこえて
若者のあこがれなのが、
よくわかる。

「理解」がハンパないのだ。
理解どころかもう、自分で「表現」しちゃうんだから。

表現すれば理解があらわになる。

書き手がふだん
「女」というものをどう見ているか?

「人間」というものをどの程度理解しているか?

男への理解。

女への理解。

個人への理解。

人間理解。

それが深く適確であれば、
読んでる人まで、
「理解された、
 理解の花が降った」と感じ、

解放される!

こうした創造的理解力・表現力は、
やっぱり基礎教育がだいじだなあとつくづく思う。

まず「国語」の読解がちゃんとできること。

ヘンなバイアスやよけいな思い入れをせず、
他人の書いた文章を、一般的に読めること。

次に「小論文的要約」。

超長文を一文で、
自分の言葉を使って要約するチカラ。

これで、他人の根本思想にダイビングし、
言葉でつかみ出す理解力が育つ。

筆者に「理解という名の愛」を注ぐチカラだ。

そして「要約の復元」。

一文に縮めた筆者の根本思想だけを頼りに、
筆者の言葉を用いず、
自分の言葉・具体例を用いながら
文章を復元する。

自分の中にある知識と経験も総動員して、
身を削りながら、他人の文章を書く。

そして、「自己表現」。

最後に、筆者の見解に対して、
自分自身の感じたこと、考えたことを、
文章で存分に表現してみる。

「他者理解 → 他者表現 → 自己表現」

これが高校までに、新書レベルでできるように
訓練しておくと、理解・表現はかなり自由になる。

私が私でなかった頃、

「理解という名の愛がほしい」と、

「ほしい、ほしい」と、自己表現してきた。

読者に理解という名の愛を注がれ、
私が私になることができ、
今年は、「他者表現」という
次の地平まで見せてもらった。

今年はほんとにありがとう!

次は、「理解という名の愛を注ぐ」側に
立ちたい。

もう自分とはたくさんつながった。

今度は、他者を理解して、
理解して、理解して、
理解の雨を燦燦と降らせ、

そこから表現の花を咲かせてみたい。

自己表現から、他者理解、他者表現へ。

2011年、

理解という名の愛を咲かそう。

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2010-12-29-WED
YAMADA
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