YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson510
  「こども」という印籠
    ーー2.現場にいない人はどこから来るか?



前後するが、
“Lesson507 「こども」という印籠”には、
たくさん、いいおたよりをいただいた。

私自身、発見があったので、
きょうは、読者メールをもとに、さらに考えていきたい。
私が疑問に思うのは、

現場にいない人がなぜ出てくるか?

ということだ。
ことの発端は、私が駅のホームでコラーゲンドリンクを
飲んでいたことから始まる。

その日のホームはすいていて、
こどもは1人もいなかった。
にもかかわらず、ある人から、

「だいたい駅のホームでドリンクを飲むなんて、
 こどもがいたらどうする?
 ビンがわれて、
 こどもがケガでもしたらどうする?」

と言った。またある人は、
私にぶつかった「疲れたおじさん」が可哀想だと言う。

ぶつかった人については、「男」としか表記していない。

私にぶつかったのは、実は、
30歳くらいの血色のよい、がっしりした男、
つまり「元気な青年」だった。

現場に本当はいない、
「こども」や、「疲れたおじさん」は、
なぜ、どこから出てきたのだろう?

「現場にいない人はどこから来るか?」

現場に実際にはいない人物を持ち出したことは、
私にもある。

とても恥ずかしいが、
自分に言い聞かせるためにも、
恥を忍んで、ここに書きたいと思う。

醜いが、これも自分だから。

この夏、銀行に行ったときのことだ。

番号札を取って並び、
私の番が呼ばれた。

やっと順番がきたので窓口に行くと、
私の書類に不備があるという。
それで、書き直してほしいと、
直せたら、もう一度番号札を引き直して、
順番まちの最後尾に並んでほしいと言われた。

以前は、そんなルールではなかった。

窓口で書類に不備があったら、
書き直してすぐ持っていけば、
窓口で手続きしている最中の人の、
すぐ次の順番に入れてくれた。

少し前からこの支店だけ、ルールを変えたそうだ。

理由は、書類不備のお客さんが多くて、
そのたびに、窓口での処理時間がかかってしまうので、
銀行は困っていて、効率をあげるためということだった。

このルールでは、たとえば、
自分の番がくるまで10人待ったとして、
その間に、私のあとに10人の順番待ちができていたとして、
自分の番が来て書類に不備があったら、
また番号札を引きなおし、最後尾に並ぶことになる。
つまり11番目でないと処理してもらえない。

私が納得がいかないというと、
クレーム対応専門の女性が
私の話を聞いてくれることになった。

その女性は、物腰が優しく、
賢そうな感じがした。
たくさんの苦情に対応してきた
経験から来る自信というか、品を感じた。

私は、「書類に不備があったら、
次の人を先に処理するのは当然だし、
1番あと、2番あとになるのは、
まったくかまわない。

しかし、整理券を取り直して
列の最後尾にならなければならないのが、
どうしても納得できない」ということを
ひとしきり、とうとうと伝えた。

今年の夏は、人生で一番暑かった。

その日も、朝からものすごい暑さだった。
ニュースでは、お年寄りが熱中症で亡くなったと
連日報道されていた。

それで、私は、言ったのだ。

「この暑さです。猛暑の中、
 お年寄りが銀行に来るだけでも大変なのに、
 長い順番待ちをして、
 窓口で出した書類に不備があって、
 また最後尾に並ばされて、
 体調が悪くなったら、どうするんですか?」

すると、クレーム対応の女性は、
とても冷静に、品のある穏やかな声で、
でも、はっきりとこうたずねた。

「それは、その場に、
 実際にお年寄りがいた、ということでしょうか?
 それとも、仮定の話でしょうか?

 大事なところですから、確認させてください。

 その場にお年寄りは、
 いらっしゃったのか? いらっしゃらなかったのか?」

私は、はっ、と痛いところをつかれ、黙った。
次の瞬間、恥ずかしさと自己嫌悪がかぁ、と
こみあげ、消えてなくなりたい心境だった。

「いいえ、その場にお年寄りはいませんでした。
 いたら困るという、仮定の話です」

そう言いながら、自分かっこわるー、という
想いにさいなまれた。

クレーム対応の女性が、
私に言い返すことをまったくせず、
私に「問い」を投げかけた、
その対応の見事さにも、打たれていた。
恥じ入りながら感動していた。

「現場にいない人はどこから来るか?」

これはもちろん、前回「印籠」と言ったように、
それを突きつけることで、
相手を現実以上に悪者にし、
反論できないようにし、
自分が優位に立ちたいという心理からだ。

しかし、読者のメールから、
さらに気づかされたことがある。

“Lesson507 「こども」という印籠”
いただいた読者メールをつづけて3通紹介したい。

<こどもの立場からですが>

「こども」という印籠を読んで、
昔、自分がまだ幼かった時
子供として特別扱いされても喜べなかった
ときがあることを思い出しました。

子供だから、という理由で特別扱いをされるということは、

「まだ子供だから、あなたは何も考えなくていい」

「まだ子供だから、
 あなたは私の言うとおりにしていればいい」

と言われているのと同じなのかなと思います。
それを聞いて感じたことは、楽ができてうれしい、
といった感情ではなく、

さびしい気持ちでした。

自分を個性を持つ一人の人間として
扱われていないような感じ。

本当の自分ではなく、
偏見によって自分を評価されたときと似たような感覚です。

こういう経験があるからか、
子供も立派な個性を持つ
一人の人間であると考えるようになり、
「子供」(=物事を考える力がない)
というくくりでとらえることは辞めました。

僕はまだ子供を育てた経験はないけれど、

子供は大人になりたい、大きくなりたいと思うはずだし
(そもそも「成長の喜び」は
 「生きる喜び」の多くを占めると思うし)、

それをないがしろにする、「こども」として
ひとくくりにしてしまうという大人側の行為は
子供をもっとも傷つけることだと、
自分自身の経験を通して思います。

そんなことから、僕は本文に出てきた方たちには
育ててもらいたくないな、
ということを少し思ってしまいました。

社会的弱者というか、自分より立場が低い人に対しては、

どうしてもこっち側(=上の立場に立つ人間)の都
合を考えると、

「言われたとおりにやればいいんだ」という、

人格否定につながるような接し方に
なりやすいのではないかと思います。

気をつけながら過ごしていこうと思います。
(雄志)


<勝手にかわいそうがるな>

こどもという印籠について‥‥

「こどもがかわいそうじゃないか」
という言葉を耳にするたび感じていた違和感について。

私が二児の母になり、
こどもと共に日々を過ごすことで気がついた事の一つが

「ひとのこどもを勝手にかわいそうがるなよ」

という事でした。
小学生にもなるといろいろな行事があり、
問題もあり‥‥そういった場面で必ず出てくるのが
「こどもがかわいそう」の一言です。
本当に印籠のように。

どんな意見であれ、この一言を先に言った方の勝ち、
くらいの勢いです。

でもわたしはそのたびに思うんです。
どっちにしたってうちの子は
かわいそうなんかじゃないって。
「彼ら彼女らは、困ったこと、悲しいこと、
 いろいろなそれらを乗り越えて行くのっ!
 これからっ!!」
って思うんです。
アクシデントやトラブルが起こる=かわいそうなこと、
じゃないと思います。
何もかもを未然に防ぐのが最良とは思わない。
うまく言えないですけど‥‥。
(まさみん)


<こどもの権利を守るとは>

「こども」という印籠、
それを出されると弱いですね。
確かに「こども」の人権を守るというのは
大前提としてあるでしょうが、

では「何が」守られるべき権利なんでしょうか?

なんでもかんでも子供にストレスを与えない状況が
「こども」にとっていい環境で、
「権利を守ること」なんでしょうかね?

先日、ファミリー向けの新築マンションの宣伝で
「お子様がつまずかないように
 玄関の上がり框を低くしました。」
というのがありました。
私は「それってどうなの?」と思ったのです。

こどもが家庭内の段差で
どれだけ怪我をするのかわかりませんが、
仮につまずいて痛い思いして、
それがこどもにとって
そんなに悪い環境や経験なのでしょうかね?

逆に上がり框を低くすることで
「痛い思いをする」という経験を妨げてないか?
と思ったです。

大人がよいと思う環境や経験だけを与えるのが
子供にとっていい環境で権利を守ることなのかと。

「あがり框」はRさんのご親戚と通ずるものが
あると思いませんか?
私はそういう考え方には疑問です。

この世界は親から離れれば、
決して「子供=弱者」に優しい環境ではありません。
そして「こども」はそういう世界で生きていけるように
必要最低限の知恵と勇気を与えられることも
大切な「権利」だと思うのです。

「痛い思い」「悔しい思い」「恥かしい思い」
それがいやなら知恵しぼれと教えてあげられるほうが
良い環境なんじゃないですかね?

わたしは、仮にホームで
知らない女の人にドリンクこぼされても
「ぼやっと歩いてるからだ! 気をつけなさい!」くらい
子供にいう親のほうが好きですけどね(笑)。
(みい)



自分の恥ずかしい経験に照らして、
3人の読者のかっこよさが身にしみた。

「現場にいない人はどこから来るか?」

あの日、私が銀行で、「お年寄り」を持ち出した時点で、
「お年寄りは弱い、守ってあげなければならないもの」
という頭が、私にはある。

年長者のこんな声が聞こえる。

「年寄りをなめるな!
 私たちは、戦中戦後を生き抜いてきたんだ。
 暑い夏も、あなたより、ずっと多く乗り切ってきた。
 あなたのようなエアコンなんかなかったけど、
 知恵と工夫で生きてきた。
 今年の夏がどんなに暑くても、
 水分補給したり、ちゃんと健康管理して
 あなたより、ずっと元気に過ごしてきた。
 銀行にだって、ちゃんといけるし、
 そもそも、あなたのように、
 書類を書き間違えたりしない。
 勝手に人を、弱いものにするなー!
 人の心配より、自分の心配をしろ!」

ほんとにそうだ。

「現場にいない人はどこから来るか?」

つまりは自分の先入観、偏見。

こどもにしろ、お年寄りにしろ、
現場にいない人物を持ち出した時点で、
私は、人それぞれの個性や、
固有の経験や人格や尊厳を見失って、
ひとくくりにして、勝手に、弱者と決め付けている。

そういう愚かさが私にある。

今度、その場にいない人を呼び出しそうになったら、
その心の底の底と対話したい。

自分のループを抜け出すために。

最後に読者のこのメールを紹介して
きょうは終わりたい。

<悪魔より善魔が恐い>

人を思考停止させる“子供が”、
という一言‥‥。
同じように、善意や正義の前にも、
人は手も足も出せなくなると思います。

善意の行いを止めるのはとっても大変。
それこそ周りから
轟々の非難を浴びることにもなりかねません。

日本の学校や幼稚園行事が
エスカレートしてしまうのも、
反対しようのない“良い考え”が、
“ほどほど”というブレーキを
押し切ってしまうからだと思います。

善意よりは悪意の方が好きだ!
と叫びたくなることがあります。
(そらこ)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
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2010-10-06-WED
YAMADA
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