YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson507   「こども」という印籠


過去にもらったメールで、
1通、いまだに
不快感が消えないものがある。

コラム「Lesson461
どうにもならないものを受け入れる力」

を書いたときのことだ。

駅のホームで、
コラーゲンドリンクを飲んでいた私が、
男性に押され、ビンを落とすところから、
このコラムは始まる。

それを読んだある人が、

「だいたい駅のホームで
 飲み物を飲むなんて、どういうつもりだ。
 こどもがいたらどうする!
 ビンが割れてケガでもしたらどうする!」
とメールを送ってきた。

ちなみに、その日のホームは人がとても少なく、
こどもは1人もいなかった。
しかし、そういう理由ではなく、
なぜだか、このメールは、時が経っても
たびたび思い出し、そのたびに嫌な気持ちになる。

対照的に、
あとから思い出してもすがすがしい光景がある。

テレビ番組「王様のブランチ」で、
司会の谷原章介が、俳優に
インタビューをしていたときのことだ。

映画「ちょんまげぷりん」の宣伝で、
主演の錦戸亮、助演のともさかりえ、
子役の鈴木福が出演していた。

子役の福ちゃんは、とってもかわいい!

まだ6歳になったばかり、
声も表情も、話す言葉も愛くるしい。

テレビに、こどもがでてきたとき、

そのあまりのかわいさ、愛くるしさに、
「場が食われ」、
まわりはメロメロ、
あげく、おとなまで赤ちゃんことばで話しかける、
なんて光景もよく見る。

私も、こどもが大好きだ。

小さいころから、頼んで、
近所の赤ちゃんをお守りさせてもらったり、
ベビーシッターをやったり。

だから、私も画面のなかの、
子役についつい目が奪われて、
「かわいー! かわいー!」を心のなかで
連発していた。

ところが、司会の谷原章介は、
落ち着いて、いつもどおりのよさ、
普段どおりのペースを乱さずに、進行していく。

質問するときも、
まず主演男優である錦戸亮をたて、最初に質問をし、
次に助演女優であるともさかりえに聞き、
最後に子役である鈴木福に聞く。

映画作品における、主演の役割、
助演の役割、子役の役割、
この秩序を乱さない。

こどもだから、かわいいから、といって、
決して、それ以上にもちあげたり、
メロメロになったりしない。

そして、こどもを赤ちゃん扱いせず、でも温かく、
ちゃんとひとりの俳優として接している。

こどもを、
それ以上でもそれ以下でもなく、
ことさらほめそやしもせず、低めもせず、
視聴者に映画の魅力を伝えるための
絶妙の距離感がそこにあった。

こどもも秩序を持って接していくことで、
自分の持ち分をわきまえ、持ち分を発揮していく。

「こどもに場が食われない」
「こどもに場を食わせない」

とても素晴らしい司会だった。

私は、なぜこの光景をすがすがしいと感じたのだろう?
逆に、なぜ、あのメールを嫌だと感じたのだろう?

その答えが、
ある人と話していたとき、わかった。

かりに「男性Rさん」としておこう。

本人のプライバシーのために、
設定などに改変を加えて話そう。

Rさんは、まだ古いしきたりが多く残っている
田舎に生まれ育ち、
地元の女性と結婚して、こどもがうまれ、
「こども思いのいいお父さん」として過ごしていた。

しかし、運命のいたずらというのだろうか。

ある女性とかけがえのない出逢いをし、
悩んで葛藤したあげく、
奥さんと別れて、その女性と一緒になる道を選択をした。

Rさんは、奥さんのことを決して悪くは言わないが、
私が見ていて、男性だったなら、この奥さんと暮らすのは
厳しいなあと思うところもあった。

Rさんは、奥さんに、
「自分と別れてほしい。
 こどもは、自分が育てたい。」
ということを伝えた。

周囲の反対は予想以上に激しく、
それでも、Rさんの意志は固く、
Rさんは、反対意見と真摯に向き合い、
説得を続けたのだが、
まったく、周囲は、離婚を許してくれず、

Rさんのことを、犯罪者のように扱った。

親、兄弟、親戚、
こどものころから兄弟同然に育ったいとこ、
おさななじみ、友人、
会社の同僚、趣味の仲間、ご近所、
だれひとりRさんのみかたどころか、
話を聞いてくれる人さえいなかった。

みんな口をそろえて言うのは、

「こどもがかわいそうじゃないか!」

つまり、「こども」は、
幼く、かけがえなく、何よりも大切である、
大人が是が非でも守らなければならない存在だ、
という観念が支配していて、
そこから、Rさんの行為は許されざるもの
として裁かれる。

「こどもがかわいそう」のひと言で
何を言っても、どう説明しても、一蹴されてしまい、
それ以上、まったく話にならないそうだ。

「思考停止ポイントだ」

と私は思った。

「地下鉄のホームでドリンクを飲むなんて、
 こどもがいたら、けがしたらどうする!」

私が、なぜこのメールがいやなのか?

こどもを持ち出した時点で思考が止まるからだ。

「考える力」の教育をやっている私は、
思考停止を起こした状態に、
職業的な嫌悪感がある。

もしも、「私は、自分の美意識で、
 ホームでは飲食しないようにしている」とか、
「自分の育った時代は、
 外で飲み物を飲んではいけないと、
 親に厳しくしつけられた」とか、
「ズーニーさん、行儀が悪いなあ」とか、
そういう反論なら、嫌悪感を持たなかっただろう。

でも、そういう反論では、
「美意識は人それぞれ」とか、
「時代や文化の差だ」と言い返されてしまう。
圧倒的優位に立てない。

そこで、だれからも反論されない、
だれも反論できない、「こども」を持ち出して、
圧倒的正義の側に立つ。

「こども」という印籠。

水戸黄門の印籠のように、
それを出されると、だれも抵抗できず、
言われた人は容易に悪にされてしまう。

私自身も、
相手より優位に立とうとして、
印籠を持ち出したことがある。
その自分の醜さに気づかされたから、
あのメールが嫌だったんだなあ、と思う。

「こどもはなによりも大切な存在だ。」

こういう気持ちもわからなくはない。
私も、こども好きだ。
けれど、このように、「幼い生」を至上のものとして
持ち上げる発想の、もう片方には、
どうしても、「老いた生」を低く見る発想が
ついてくる気がする。

「もう充分生きたんだからいいだろう」とか、
「こどものために年寄りが犠牲になってあたりまえ」とか、
命に順番をつける発想につながっていく点が
危険だと思う。

Rさんの場合も、

「女性と出会う前のRさんと奥さんの夫婦仲は
 どうであったか」とか、
「奥さんは、これからの人生をどう生きるのが最適か」
とか、
「お子さんは、どのような家庭で育つのがよいか」とか、
「愛情の冷めた家庭は、こどもにとって良い環境か」とか、
まわりの人には、話し合うべきテーマがあると思う。

しかし、「こどもがかわいそう」
のとおりの良いひと言に、思考をとめてしまい、
問題の正体を見ようとしない。

Rさんは、そんな人たちに、

「こどもは大切にちがいない。
 でも、その大切なこどもの未来がここにある。

 自分もかつて、こどもだった。
 みんなが大切だ、守るべきだ、というこどもだった。
 そのこどもが38年経ってここに、こうしている。

 そう考えたら、みなさんも、もうちょっと、
 大人の人生も大事に考えようという気になりませんか。」

と訴えるものの、
全く耳を貸してくれないそうだ。

「こどもが大事だ、こどもの未来が大切だ」
と言っているまさにその人も、
実際大きくなってしまったこどもの、
いまここにある未来には、関心がないのだろうか。

「こども」という印籠。

「こども」を持ち出すと、
そのあまりのまばゆさ、愛おしさに、
丁寧で冷静な省察を欠くことがある。

私は、「こどもがかわいそうだからやめろ」と
印籠のような言葉を持ち出したくなるときは、
「相手より優位にたとうとしていないか」と
自分をかえりみ、
「私が嫌だからやめて」と、
自分ひとり分の意見を展開したい。

こどもも、私も、84歳になる父も、
みんなかけがえのない、1回限りの生を、
切なく生きている。

ここに順番はない。

あまりに大切で、
だれの目から見ても反論の余地のないもの、
たとえば、「こども」、

そういう印籠のような言葉を持ち出すときは、
思考停止ポイントも、
すぐそこ! に迫っている。

私自身、それを忘れずにいたい。

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2010-09-15-WED
YAMADA
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