YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson506   選択権が降りてきた 2


先日、ある人に、
わだかまっていた想いを伝えた。

「あなたの行為を、
 私は、ちょっと失礼に感じている。
 これまで、言わずにきたのだけれど、
 ささいなことだけれど、
 あなたの失礼が、私は哀しい」と。

相手は、予想以上に、
しっかりと受け止めてくれ、
非礼を詫び、
お詫びにご馳走したいとまで
言ってくれた。

つながった! よかった!

こんなに潔く、認めてくれる人も
なかなかいない。
相手には、ほんとうに感謝している。

でも、失礼を感じているときに、
相手に失礼だとは、
なかなか言えないものだ。

たとえばこんなとき、
あなたならどうするだろう?


新婚で、奥さんが
おいしい手料理をつくって待っている。

さあ、帰ろうというとき、
泣き顔の後輩から、
相談にのってくれと頼まれる。

しぶしぶ家に、「ごはんはいらない」と電話、
落胆する妻。

それから深夜まで、飲み屋で、
さんざん後輩の泣き言につきあわされて、

最後に会計となったとき、

後輩は、財布を出すそぶりもなく。
「ごちそうさま!」と
先輩におごってもらって当然、
という顔をしている。

深夜、帰宅すると、
妻からは、「晩ごはんが無駄になった」と
責められ、夫婦仲は険悪になるわ、
次の日忙しいのに睡眠不足になるわ。

翌日、後輩に会う。

フツウなら、こう言ってくれると思う。

「先輩、きのうは深夜まで
 相談にのっていただいて、すいませんでした」
とか、
「こちらが相談にのっていただいたのに、
 ごちそうしていただいてありがとうございました」
とか、
「お礼にこんどは、ぼくがごちそうします」
とか、

ところが、後輩は、
顔をみるなり、お礼のひと言もなく、

「せんぱーい、聞いてくださいよぉ!
 あのあと、先方にメールしたら、
 こんなひどい返信がかえってきたんですよー!」

と、さらに愚痴と泣き言と相談を、
わぁ、とふっかけてくる。

こんな調子で、「むしりとられる」ような関係が、
二度三度になったとき、

あなたなら、どうするだろう?

1.後輩に何も言わず、心で許す。
2.後輩に「相談にのってもらうにも礼儀がある」と
  はっきり諭す。
3.後輩には言えず、かといって許せもせず、悶々とする。

私自身、失礼と感じても、
相手になかなか言えない人間だ。

3の「悶々とする」をよくやる。

相手に嫌われては困るし、
このような会計がからむことで、
いろいろ言って、ケチだと思われると困る。
(決してお金の問題ではないのだ。
 しかしわかってもらうのは難しい)
それに、何より自分がチンケな人間だと思われたくない。

そんな自分が、なぜ、今回、
相手にはっきり言おうと思ったのか?

ずるい、と感じたからだ。

相手に何も言わず、それでいて、
許して忘れることもできず、
ことあるたびに、昔のことまで蘇ってきて、

悶々としている自分が、ずるい、と。

「選択権が降りてくる」

先週のコラムには、深いおたよりを
たくさんいただいた。

読者メールを紹介しつつ、
私が、「ずるい」と感じた理由を話したい。
まず、読者メールを一気にお読みください。


<まさに選択権が降りた>

4年間、つかず離れずで続いている人がいます。
その人には、一緒に暮らしている人がいて、

なんどもなんども、さよならを言おうとするたびに、
大切なんだ、離れたくないんだと言われ、

断ち切れない自分が、悔しくて、苦しくて、叫びたかった。

それが、相手の、甘い毒のような言葉のせいではなく、
重苦しい期待でいっぱいの自分のせいだとは。

いつか。
きっと。
もしかしたら。

今年の初夏。
相手から、言われたのです。

「すごく大切だけど、ずっと一緒には、いられないよ」

この言葉に、どれだけ、安心したことか。
もう、いいんだ。
待たなくて、いいんだ。
期待しなくて、いいんだ。
好きなように、どこにでも行って、いいんだ。
この人を、置いていっても、いいんだ。
自由になって、いいんだ。

自分で選べるんだ!

まさに「選択権が降りてきた」瞬間でした。
(ハルコ)


<できるできるって、どういうこと?>

結婚して6年間、私たち夫婦には子供ができませんでした。
何よりも傷つき、いやだったのは

「大丈夫よ、そのうちできるって」

という言葉でした。
何を根拠に「そのうちできる」と言えるのか?
私には努力が足りないのか?
「そのうちできたら」=「大丈夫」なのか?
大丈夫って何?
(カスミ)


<できない私は要らないのか>

「本来、自分ができないことを、
 周囲から、できるできる、と言われ‥‥」

私もずっとそうでした。
「できないんです」という声を、
誰にも聞き入れてもらえなかった。

「できない」私は、周囲の人たちにとって、
必要ない(というより、あってはならない)んだろうな‥‥
と思います。

「私じゃない私」を「私」だとされ、
その状況下では、やはりどんなに頑張っても、
虚しさが募るだけでした。

頑張れば頑張るほど、「私」が「私」から遠ざかる。

そしていちばん怖いのは
周囲から必要とされていない「できない私」を、
私自身も必要としなくなってしまうことです。
(みたま)


<私は、選べるんじゃないか>

私には、小さなころからずっとなりたい職業がありました。

なりたいと口に出した時に
「なれるわけがないだろう。」
と一蹴され、火種を消されたようになってしまいました。

今、それとは別の職業に就き、12年経っているのですが
いまだに諦めきれない、と火種はくすぶり続け
でも足を踏み出せずに、
今の職場に自分の魂の居場所のなさを感じつつ
もやもやして過ごしていました。

「いつか、絶対こんな仕事やめてやる!」
いつも強くそう思って、結果、気づけば
長い年月を費やしていました。

夢見ていた職は、
私の今の年齢では就くのが難しいようだと知りました。
しかも最近。

私、何やってるんだろう?

生活の安定などを理由にして、
したいと思う仕事を目指すこともせず、
今の仕事には身も入らず 心はうつろなまま
死んだように時間を過ごすのは嫌だと、心は叫ぶのに
心を踏みつけたまま、血を流すような思いをしたまま、
何故動かないのか?

「現実認識」

ぎくりとしました。圧倒的に、
自分にかけていたもの です。
そしてもうひとつ

「選択権が降りてくる」

---------
「ファンの投票では、あなたはこの順位です」
と、つきつけられれば、

「落ち込んでやる気をなくす」こともできるし、
「あきらめないで上を目指す」こともできる。
「才能がない」と辞めて別の道で自分を生かすことも、
自分の順位を受け入れ、その立場で精一杯がんばる
こともできる。

現実を受け止めるのはつらいけれど、
現実を受け止めたら、
こんどは、選ぶのは、こっちだ。(前回コラムより)
----------

現実にぶち当たって、
歪めることなくその現実を理解したあと、
自分がなお選べるのだということを
何故わからなかったのか。

私は、選べるんじゃないか。

何に、縛られてたんだろう、と考えたとき、
それは自分の心を守ろうとする自分の意識であり、
誰かに否定されたら存在できないのだと思っていた
私の世界の狭さだったのかなと
思い当たりました。
(ぺどん)


<私の順位を教えてください>

私は職場の中で、自分の位置づけ、
自分はどれだけここに必要なのか知りたくて、
それを知ることに執念深くなっていました。

職場での順位を知りたかった。

だから、まわりから「どうしたいの? 何をしたいの?」と
聞かれても、わからなくなってました。
心の中で、必要としてよ、何でわかってくれないの!!
なんで私じゃないの? という気持ちだけがあり、
仕事もできなくなっていきました。

私は「できる」ほうなのに。上にいたいのに。
現実なんか見たくない。

本当は、人並みじゃない。劣っている。
自分の顔や体型もいや。誰も私なんて必要としてくれない。

今の私はまだ、「選択権」はみえません。
(アオキ)


<私の実力の本当を知りたい>

私は30代半ばで、
半年前に育児休暇から職場に復帰しました。

配属先は今までとは全く違う部署の全く違う仕事で、
まるで違う会社に転職したようでした。

引継ぎも十分でない状態で放り出されたうえに
仕事量は多く、ミスも多発し、
私とは全く正反対の性格の上司には
「いくらブランクがあったり未経験だとはいえ、
 他の人はできているのに
 なぜこんなにできないのか?」と詰められていました。

比較の対象になっている人たちはベテランなので
「その人たちと比べられても困る」と思うのですが、
基本的なところでできない部分が多いのは
たしかなので反論もできず、

周囲に相談しても、
「きっとまだ慣れていないからだよ。」
「あと3ヶ月頑張ってみれば?」と言われ、

最近は少し慣れてきたこともあり、
これまでの日々で成長できた部分もあるのですが、
ここまでやってきてもやはり自分にこの仕事は向いていない
という現実が見えてきています。

ただ、それが果たして正確な現実認識なのか、
自分でもよくわからないのです。

もしかすると休んでいる間に
自分と会社が変わってしまっていて
「仕事」ではなく「会社自体と合わなくなってきている」
かもしれないし、
そもそも「仕事をすることに向いていない
(向かなくなった)」のかもしれないと悶々としています。

「正しい現実認識」をするために
どう行動したらいいのか、
ちゃんと「選択権が降りてくる」状態にし、
自由になるにはどうしたらいいのか、
この状態はたしかに苦しいです。
(ぱーちゃん)



「現実を伝えないと、相手に選択権はない」

ということを思った。
ふつう、現実を伝えたら、
相手が可哀想と思いがちだが、

実らぬ相手から「ずっと一緒にいられない」
と伝えられたハルコさんの
なんと自由なことか。

逆に、AKB48のように、
総選挙があるわけではなく、
職場での自分の順位もわからず、
自分の実力の現実をつきつけられることもなく、

現実を知らされないままでは、
人は自由になれない。

「現実を伝えないと、相手に選択権はない」

私は、選択肢では3番の、
「相手にそれを失礼だと伝えることもできず、
 かといって許すこともできず、悶々とする」
人間だと言った。

でも、それでは、
相手は自由になれないままではないか?

例の、新婚にもかかわらず、
夜遅くまで後輩の泣き言につきあわされている
先輩の例でいうと、

後輩は、
社会で生きていくための礼儀ができていない。

できていないにもかかわらず、
先輩が、嫌な顔ひとつみせず、
にこにこ会計を払い、夜遅くまで親身につきあい、
相手がお礼を言わなくても、愛想笑いをしていたら、

「できていない」ことを「できている」
と言っているのと同じだ。

後輩は、自分ではうまくコミュニケーションが
とれていると思い、
先輩には、かわいがられるほうだと思い、
でも現実は、先輩と通じてない。

後輩の「現実認識」はズレている。

現実認識がズレたものに選択権はない。

後輩は、自分のやり方が通じている幻想をいだき、
その実、なんとなく周囲とギクシャクしているとも思い、
それがなんなのか、わからない。

わからないから、
「なぜ自分はもう一つ、突き抜けないんだろう?」と
不思議に思い、ある日突然、風のうわさに、
「あいつは礼儀がなってない」などと言われて驚く。

こんな状態は不自由だ。

相手に選択権を与えないままにしておく私は、
ずるいのではないか?

勇気を出して、相手に現実を伝えたらどうか。

「ああー、さんざん相談にのらされたのに、
 おごってやるのは、イヤだなあ!」とか、
「カミさんの飯、ことわって話を聞いたんだ、
 お礼ぐらい言ってほしいなあ!」とか、

相手に現実を知らせれば、
相手は考えるだろう。

相手は、
「チンケな先輩だ、ケチくさい」と私のことを
否定することもできる。
「もっと優しい先輩を探そう」と他へ行き、
私とは、疎遠になることもできる。

「先輩、その考え方はおかしいですよ」と、
私に意見・説教することもできる。

でも、「はっ!」と、自分のしたことに、
気づくこともできる。

先輩のモチベーションを高めつつ、
うまく相談にのってもらう方法を工夫することもできる。

それを期に、
「自分はいままでまわりに迷惑をかけていた」と反省し、
周囲との関係を改善することもできる。

現実を告げない以上、相手は、
上のどれも選ぶ権利がない。

現実を告げたら、相手は選べる。

現実を告げたら、今度は、選ぶのは相手だ!

とはいえ、
最高の選択肢から最悪の選択肢まで、
すべて自由なリアクションをする権利を相手に許し、
それでも相手に、現実を告げようとするのは、
かなり勇気の要る、苦しいことだ。

「相手が大切だ。
 この相手と、ずっとつきあっていこう」

という覚悟がないと、
なかなかできないことだと思う。

告白は恋愛だけではない。
「相手に現実を告げる勇気」を持ちたいと私は思う。

相手も自分も「痛い」想いをするけれど
その分「自由」だ。

最後に、読者のこのメールを紹介して
今日は終わりたい。


<恋する人よ、告白せよ>

糸井さんが対談でおっしゃっていた
「根拠のない自信」
と、
現実を中立公正に認識しようとしない気持ちは
どこか似ていると思います。

私は今の若者を評して書かれていたことばだと
認識していましたが、
糸井さんは若者が自己主張することばとして発することに
戸惑いを覚えると言っています。

現実を贔屓目でなく、情報を得て分析する。

その上で、感情は違っていていいんだと思いますが、
現実と願望が違っていることを
認識することが大事だと思います。

憧れで好きになるのは、
ひとりで幻とダンスをするような感じです。
汗臭さも実体もない。
くるくると一人で回りながら、
失敗を恐れて行動しない方が、
行動を起こして玉砕するよりつらいという事を
学ぶのですよね。

私も臆病な片思い妄想者でした。

汗臭い実体でも、生理的にいやでなければ
ダンスを続けられると知ってからは、
自分のこととして決められるようになって来たような
気がします。
たとえ私の意に沿わないしきたりや
しがらみであったとしても、
それを私が選んだ、と思えば
愚痴の垂れ流しにはなりにくい、かな。

命は短い。
沢山の方を見送りました。
だからこそ、今出来ることは精一杯やる。
年をとっておばさんになって、貪欲になっています。
もうあの臆病な自分には帰りたくありません。

若さは未熟さ。
年をとって、成熟には程遠い私ですが、
それでも老いる怖さより、
少しは年月の中でわかったことのほうが大事です。

絵本のぐりとぐらは、「行ってみなくちゃわからない」と、
遠足に行きました。
そう、やってみなくちゃ、行ってみなくちゃわからない。
頭より、体を使って動いてみる。
私達は動物なんですから。

動かない苦しみのほうが大きいと思って、
恋するひとたちよ、告白しましょう。
好きな人がいる幸福を噛み締めながら。
(サトウ)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2010-09-08-WED
YAMADA
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