YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson496
      守ってあげたい 5 ――守るべきもの



「自分より弱い人を導く」

そこに自分のアイデンティティを築こうとする心理を、
なにより私自身がそうなった体験から話した
先週のコラムには、
当のカウンセラーのかたからも、複数共感が寄せられた。


私は出産後、育児のために退職してから
「産業カウンセラー」の勉強を始めて
このほど資格を取得しました。
実際に講座に通っていると、
「自分が癒されたいから」という理由で
受講している人の多いこと‥‥!
「あの人、カウンセラーよりクライアントに
 なったほうがいいのではないか」と
思うこともしばしばでした。
(W)


「自分が心を病んだから、カウンセラーとして
 今悩んでいる人を助けたい」
と言って、カウンセラー講座に来ている人の多いこと。
その熱の高さに、「すがり」を感じ、違和感を感じました。

「すがり」は、プロ志願者とは違うなあ。

プロのカウンセラーさんは、
どんなエネルギーを出している方にも、
性善説に則って白紙に自分をセットして、
徹底的に話を聞いていく。
全方向の感度を上げ、恐怖や嫌悪感を棚に上げて、
フラットな状態を作る。
呼吸、声のトーン、姿勢、意識して訓練するものだそうだ。
自分の感情をコントロールし、冷静さ、
理性を保とうとする努力は、
簡単にまねできるものではないと思う。
(フロイトの意識・無意識をひもといてみよう)


臨床心理士とし働いている50代のものです。
この仕事を始めて25年は経ちます。
猫も杓子も臨床心理士というこの時代に
ほとほと嫌気がさしています。
そんなときに、山田さんの文章に出会いました。同感です。
臨床心理士がはやるこの世の中は、
なんだかおかしいと思っています。

なるにはなるだけの力量が必要だと思うのですが‥‥。

ちなみに、私はなりたくてこの仕事に就いたわけでは
ありません。
この仕事しかなかったのですが、引き受けた以上、
自分をかけてこの仕事をしてきたという自負はあります。
(臨床心理士)



自分より弱い人を導く、
一見、そんなふうに見られがちな仕事も、
実際プロとなると、
恐れに打ち勝ち、克己して、
自分より強い何か、自分より大きな何かに、
日々挑んでいるとわかる。

さらに読者の、障がい者訪問介助の仕事をしている
30代女性は、こう言う。


「こんな自分でも守れるなら、
 何でも誰でもいいから守りたい人」

は、たくさんいるけど、

「何でも誰でも守ってくれるなら、
 それでいいから守られたい人」

なんて、いる訳ねぇよ! って事です。

依頼心の強い人ほど、
助けてくれる人に文句を言います。
他人の為を言う人ほど、
自分の働きが報われないと言います。
(のりぼん)



のりぼんさんの言うように、
「守られる側にも選ぶ権利」がある。

「守りたい」と言う人には多く出くわす。

でも、守られたい人がいるかどうか?
さらに、たとえ守られたい人がいるにしても、
「他ならぬ、この自分に守られたいか」、どうか?
という問題が出てくる。

だとすると、この時代にあって、
「守る対象」を見つけるのは、実際問題、
かなりキビシイことだと思う。

守るべきものはどこにある?

そもそも、この時代に
守るべきものはあるのか?
読者の33歳男性はこう言う。


<君を守る!、でなく>

男性の「君を守る!」発言に対し
女性は「自分はそんな弱い存在じゃない」と
反発するケースが多いようですね。

女性の反発の背景は、
これまでの皆様のメールの内容から明らかですが
男性が、そう言いたくなるのってなぜなのでしょうね。

「君を守る!」と言う男性は
「何かのために」なりたいと思っている。
その一方で、その「守りたい何か」に自分も守られたい、

つまり「安全基地」が欲しいと思っている。

でも、その守る対象が、なかなか見つからない、
そういう風に社会の在り方が
変わってきたのではないでしょうか。

戦後、バブルが崩壊するまでは、
会社は一生勤め上げる場所であり、運命共同体でした。
会社が共同体だった時代には、「会社のために」と言えた。
会社に所属していることで安心感も得られた。
でも、そうじゃなくなってしまった。

同じことが地域社会についても言える。
お祭りに人生をかけるような珍しい地域も
まだ少しは残っているけれども、地域社会は寂れている。

近所付き合いも希薄になり、
友人関係もサラッとしたものになってきた。

会社や地域社会や友人関係に、深くコミットできなくなり、
自分の人生を預けられない。
個人は、何かに身を預けることなく、
自分の幸せのために、自分の力で自分の人生を
構築していく事を強いられるように
なってきたと言えるでしょう。

その負担は正直、かなり大きいと思います。
自由と孤独はコインの裏表です。

そんな中、比較的根強く生き残っている共同体が、
家族なのではないでしょうか。
「君を守ると言いつつ、その安全基地に守られたい。」
という心理は、
身を預けられる共同体が無くなった孤独からの逃避
という側面があると思います。

このように考えると、この不安は男に限らないものです。
女性だって不安です。

でも「君を守る!」は女性には響かない。
女性も男性と同じく、自分を自立を目指す存在だ
と思っているのですから。

だから男性は「君を守る!」と言わずに
「一緒に家庭を守って行きましょう!」と言えば、
良いと思う。

安全基地としての家族を、一緒に作り、
守っていきましょう、と言えばいい。

男女の「すれ違い」は、
ほんのちょっとした事によって生じている気がしています。
(33歳男性 独身)



「守る対象がなかなか見つからない時代」
だと、33歳男性は言っている。

そんな中にあって、「家庭」という安全地帯、
このコラムに以前登場した言葉を使えば、
行く場所と帰る場所の「帰る場所」。

安全地帯としての「家庭」、
帰る場所である「家庭」を、
「ともに築き、ともに守ろう」と言えば、
この時代のなかで、男にも、女にも
通じるのではないか、と。

守るべきものはどこにある?

読者の女性は、こう言う。


<私にとっての、守るべきもの>

私も長年気になっていた言葉でした‥‥
「守る」
いい響きの言葉ですがなかなかピンとこないです‥‥
メールをしかけて自分でも納得がいかず、
今朝朝風呂でシャンプーしながら
「そうや!」と湧いてきました。

私個人の感覚的な意見かもしれませんが、
「守る」は物資・事柄等に対してのものであって
それも、直接的に行動をする・与える・加える。

人に対して使う言葉ではないし、
行動でもないのではないか?
人に対しては「見守る」という間接的な言葉であり、
行動なのではないか?
という事です。

それは、たとえ親子兄弟伴侶に対してであっても、
反対に、近い人に対しては尚更のような気がします。

そして、「守る」を唯一使える対象の人は
「自分」だけなのではないか? と思ったのです。

それは私の置かれている状況(伴侶なし、子供なし)も
関係あるのかもしれませんが、
ズーニーさん同様私は守ってもらいたいとは思わずに
40年以上過ごしてきています。

朝から頭皮と頭の中はスッキリしました(一応)

自分で自分を守るとは?

と、考えてみると私の場合は常に攻めながら
自分を守り続けてきたように思えます。
よく言う「攻撃は最大の防御」を地で行ってきました。

攻撃と言うと何かしら戦闘的エキセントリックな
尖ったイメージですが、
もっとゆるぅ〜い、何かが起こって慌てるのではなく
そうならない為に事前にしておこうね‥‥くらい。
食べて汚れたから歯を磨くのではなく、
虫歯・歯槽膿漏にならないように歯周清掃をし、
予防をして守る‥‥(例えがよくないですか?)

自分を守って大事にしていると余裕が生まれ
人を見守れる‥‥

こんな私は変わっているのでしょうか?
(ぷーちゃん)



唯一、守るという言葉を使っていい対象は、「自分」だ!
というお便りだ。

「自分」を守る。しかも、自分を守るとは、
常に攻めながら守るということだと。

守るべきものはなにか?

読者のKさんは、こう考える。


<持ち場を守る>

守るってどういうことか、考えました。
結局「自分の持ち場を守る」と思います。

最近私が守ったものは、私の「本」です。

著者は私の上司ですが、私も内容にかなり深く関与したので
上司の本ではなく「私の本」と勝手に思っています。

この本、初稿の段階では、明確な間違いだらけで
しかも上司は間違いを間違いと認めない上に
この間違いを公的に私の責任にしようとしてきました。
「本文を書いた上司自身の責任やろ〜!」と思いましたが
しかし私は中身にずっと関与し続けているので
間違いは間違いであると判るし
間違いを指摘する権利と義務があります。

それに何より、私の今までの努力の結晶を
上司の勘違いとか、身勝手な判断で
ぐちゃぐちゃな文章で世に出されたくなかったのです。

上司の書いた初稿ゲラに、容赦なく赤ペンを入れました。
上司に反するというのは大変恐ろしいことですが
作り始めたときから「この本は私が死守しなければ」
と思って仕事しており、出版直前までその一心でした。

上司は結局私の行動を認めてくれて
「いい本ができた。間違いだらけの状態で
 出版しないようにオレのことを守ってくれたんだ」
と言ってくれました。私はコメントできませんでしたが
とりあえず「なんか変」という感じがありました。

最初は「普通は上司が部下を守る
(責任をとる)んじゃない??」と思いました。

今はそれに加えて「私は私の本を守っただけ。
私の持ち場を守っただけ。上司のことは守ってません」と
思います。

私の行動は、野球に例えると、センターという
需要な守備位置を必死に守っていただけ、です。

外野手が後逸すると、その後ろを守る人はいない。
だから死守しなければいけないポジションです。
またセンターは、ライトやレフトの後逸を
カバーに入るのも大事な仕事です。

上司の書いた文章に赤ペンを入れたのは
後逸に対するカバーを何度もたくさんやっただけ
という印象です。センターのやるべき当然の仕事です。
ライトフライを無理矢理取ったとか、それでもない。
センターとしての守備位置を絶対に、死守して
死守し抜いて、目標に達する。それだけのことでした。

なので、守るというのは、結局
「自分にまかされている場=持ち場、本分」
を守るということにつきるのかな、と思います。

共働きの夫婦で、保育園に子どもを迎えにいく必要がある。

奥さんのほうが夜中心の仕事で、帰りが遅いので
「旦那さんが保育園に迎えにいく
 =それが彼の持ち場である」
ならば、家族を守るという理由で定時退社するのも
正統な「守る」行動であると思います。

「男のくせに保育園のお迎え? 定時退社?
 はあ? 仕事なめとんか!!」みたいな人も
いると思います。そういう人に対しても
「すみません、でも帰らなければならないので」
と言える人は、持ち場を守っているといえると思います。
(もちろん、やるべき仕事はきっちりやっている前提です)

逆に、そういう声に対して反論することができず
結局ずるずると残業してしまい、結果として
奥さんが仕事を辞めざるをえなくなったとすると
これは、旦那さん、持ち場を守れなかった、と思う。

「仕事はそこそこでいい」「定時で帰りたい」
それに対して疑問を持つ人がいるのは当然です。

しかし、家族や社会のあり方が変わってきているので
男性は仕事さえしっかりやっていれば、
家族を十分に養えるお金が手に入るかというと
そういう状況にあるのは一部の恵まれた
大企業の正社員の人だけです。

女性は、出産を期待され、産休育休を無事に
取らせてもらえるか否かの賭けをした上で
女性がお金を稼ぐために働く必要がある。

となると家庭と家計の維持を、
男女で力を合わせなければならないと思うし、
そうなると「定時で帰る」男性や女性がいるのも、
責めていいことではないと思います。
(Kより)



守るべきものはなにか?

私の考えは次週お伝えしたい。

愛する人か? 自分か?
自分より弱い人か?
仕事か? 家庭か? 行く場所か? 帰る場所か?

それとも、仕事、家庭にかかわらない自分の持ち場か?

たった一つ、あげるとしたら、
あなたの「守るべきもの」はなんだろう?

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2010-06-23-WED
YAMADA
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