YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson476
   「くれ文」から「与え文」へ 2


「わかってくれ」、「認めてくれ」、「教えてくれ」、
私たちは、気がつけば、
心のどこかにものほしそうな欠乏感を抱えた
「くれ文」を書いている。

「くれ文」から自由になる道はなんだろう?

「くれ文」になってしまう原因として、

もらおうとする習性が身についてしまっている。
つまり、「受け身」の習慣。

あるいは、根本に満たされないものを抱えている。
つまり、「寂しい」。

つい「費用 対 効果」を考えてしまう。
つまり、「がめつい」。

などが考えられる。

表現というものはコストがかかる。

金は1円もかからずとも、
労力・時間・勇気・知恵・経験を
こちらから出さねばならない。

ときに、身を削るようなことだってある、

直接、口で伝えるのもひと苦労なのだから、
文章に書くとなったら、なおさらだ。

だから、
勉強したら、した分だけ点数がもらえる。
アルバイトしたら、した時間だけ時給がもらえる。
という感覚の延長で、

私たちは文章を書くとき、
無意識のうちに、ついつい、
費用の向こう側にある「効果」を期待してしまっている。

「これだけ苦労して書いたんだから、
 わかってくれ」
「寝ないで書いたんだから、
 感動してくれ」

この、「費用 対 効果」の刷り込みは、
自分で思っている以上にずっと、根が深く、
それだけに、私たちは、気がつかぬところで、がめつく、
欲深いんじゃないだろうか。

それが証拠に、書いたときは
「何も期待せずに書いた」などと言いながら、
思った効果が得られないと、

「あれだけ苦労して書いたのに、
 わかってくれないなんてひどい!」
「寝ないであれだけ懇切丁寧に書いてあげたのに、
 返事が、たった1行なんて、バカにしてる!」

と怒り出す。

「費用 対 効果」、「損、得」、「欲」。

知らずに書いてしまっている「くれ文」から、
私たちは、ちょっとでも自由になる道はあるんだろうか?

私の文章講座に来られていた生徒さんに、
「シゲリーニョさん」と言うニックネームの
40代男性がいる。

シゲリーニョさんは、
ラテン的な「ナンパ」とも言える
コミュニケーションスタイルをモットーにしている。

といっても、実際にナンパをするわけでは決してない。

「この人ちょっといいな」
と思ったら、初対面の人でも、公共の場でも、
臆せず、声をかけるのだ。

たとえば、駅のホームで
「素敵な歳の取り方をしてるな」と感じる
おばあちゃんがいたら、
きっかけをつくって話しかけてみる。

「楽しんで接客をしてるんだろうなあ」と感じる
ウェイトレスさんがいたら、
「素敵な笑顔ですね!」と声をかける。

私も、何度か、
「肌きれいじゃないですか」とか、
「それ(服装)、かわいいですね」と、
さらり、声をかけてもらったことがある。

とても爽やかで、あっさりしているのに、
あと味が、ほんのり、うれしい。
あとから思い出しても、いつも、
ごきげんになっているから不思議だ。

まさに「与え文」だ。

ラテン系の人は、こういうコミュニケーションが
とてもうまいそうだ。

人生をちょっとだけ幸せにする
ナンパ的コミュニケーションスタイル。

思っていても口に出せない日本男性が多い中で、
日本男性のシゲリーニョさんがこれをやり続けるのは、
なかなか気骨あることだと思った。

なにかコツはあるのだろうか?

「手放す。」

とシゲリーニョさんは言った。
その日も、シゲリーニョさんは、
タクシーの運転手さんに声をかけたそうだ。

「とても気持ちのいい接客をしていただいて、
 おかげで、とても気分よく、
 ここに来ることができました。
 ありがとう!」と。

そしたら、運転手さんも、
「いえ、こちらこそ、お話できて楽しかったです。
 ありがとう!」と。

おたがいに、いい気持ちで別れることができた。

でも、「いつものことではない」と
シゲリーニョさんは言う。

たとえこちらが「よかれ」と思って声をかけても、
相手は、「何か意図があるのか」と警戒することもある。
悪くとられることもある。
声かけられ慣れていない日本人のことだもの、
誤解されたり、引かれたり、
いやな態度をかえされる可能性だってある。
だから、言うときに、

「手放す。」

のだと、シゲリーニョさんは言う。
伝えることで、変に思われても、誤解されても、
いやな態度をとられても、
それはそれでよい。
相手のよい反応を期待しない。
どうなっても、かまわない。

「手放す。」

花びらのように、ささやかで、さらり爽やかな「与え文」を
撒き散らしているシゲリーニョさんも、
人の心の奥底に「くれ」の精神があることを
よく知っていて、
その上で、日々、「手放す」覚悟とトレーニングを
しつづけているのだ、と思った。

それから私も、文章の根っこで精神が
寂しがっていたり、ものほしげだったり、
しがみつきそうなときは、

「手放す!」

と言ってみる。
ちょっと、気持ちのよい風が通ってくるから不思議だ。

きょうは、「くれ文」から脱却する道を
別のキーワードでとらえた、
読者のこのおたよりを紹介して終わりたい。


<エネルギーが高まる場所>

先週のテーマと同じことを感じたことがありました。
私の場合は、
認知症の家族の集まりに出席しての感想です。

以前、参加した会は、
何かしっくりこないものがありました。

せっかく環境を整えてくれているのに、
何かその時間を有効に使えてないんじゃないか?

家族の本音が出てないんじゃないか?

私の欲しいものは手に入ってこない、
そんな感じがありました。

今日出た家族の会は、エネルギーが違いました。

その違いは何だろう?

そこには、「何かを産み出そうとする力」
があるように思いました。

そこに出席している人が、
何か新しいものをみづからの手で作り出そうとする気持ち
があるような気がしました。

もちろん、認知症に関する正しい知識と情報、
そして、自分の悩みを解決したいと思ってくるのは、
前に出た会とも趣旨は同じです。

出席者も、認知症専門医、看護師、などの専門スタッフと
認知症を抱える家族とその構成は同じです。

専門スタッフは、
家族の悩みを解消してあげたい、
専門知識を教えてあげたいと思い、

家族は、悩みを解決したい、
自分の気持ちをいやしてほしい、
分かってほしい、だったりです。

でも、どこが違うのでしょうか?

ズーニーさんの言葉を聞いて、ハッと思いました。

以前出た方の会のスタッフのスタンスは、

専門知識を教えるから、理解してくれ、
それを参考に解決してくれ、
だったのかもしれません。

家族の思いは、分かってくれ、癒してくれ、助けてくれ、
です。

今回出た会のスタッフは、
何か違う。

それが、与え文なのかどうかわからないけれど、

私はそこに「何かを産み出そうとする力」があると感じた。

そこにいる人のためになろう、と思う気持ちがある。

参加した家族の意識には明らかに違いがある。

悩みを聞いてもらおうと思って話す人も、
話すことによってその場の役に立っている、
そういう空間になっていた。

何が違うのか、言葉では表現できないのだけれど、
エネルギーが高まっていくのがわかった。

そして、明らかに、今日の会の方が心地良いと感じた。

その違いの根底にあるものが、
何か今は良くわからないのだが、

今日感じたことと
ズーニーさんのテーマで重なることがあるような気がして、
中途半端ではありますが、お便りさせていただきました。

スッキリしない部分は、
もう少し自分の中で考えてみたいと思います。
(読者 Kさんからのおたより)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
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2010-01-27-WED
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