YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson337 あきをつくる
   ――わかりやすくするということ2



たとえば、人に10言うとして、

ここ一番、懇切丁寧に、
1、2、3、4、5、6、7、8、9、10
とやると、
意外にわかりづらく、

10以上のものは伝えきれない。

ところが、手続きを省いて
1、2、3→5→7→10
と一気にゴールまで行ったとき、
かえって理解され、

11も、12も、ときに20も伝わることがある。

この差はなんだろう?

昨日も青山で、
表現教育のワークショップをやったが、
一人の生徒さんが、スピーチで、
いきなり「10」を、
つまり一発サビ出しでゴールを
でん!と人まえに披露するような話し方をして
爽快だった。

その人の話し方は、

「いきなりですが、10です。
なぜなら、5です。
もとをたどれば、1です」と

10。←5←1

という構成で、大胆シンプルだけど
聞く人に10以上を想像させるチカラがあった。

逆に先日仕事で、
1、2、3、4、5、6、7、8、9、10
と、くまなく
全部説明してくれようとする人に出会った。

1つ話題をふると、
そのことに、1から10までくまなく、
いや、さかのぼって、
−3くらいから話してくれようとする。

-3、-2、-1、0、
1、2、3、4、5、6、7、8、9、10

時計をみると、1つのふりに対する説明に、
30分ちかくかかっている。

また次の話題をふると、さかのぼって
-3、-2、-1、0、
1、2、3、4、5、6、7、8、9、10
また次の話題にも、
-3、-2、-1、0、
1、2、3、4、5、6、7、8、9、10‥‥。

親切に、ていねいに、段階をおって、くまなく、
だけど、なにも印象にのこらない。
結局なにを言いたいのかわからない。

話を聞くのに非常に疲れ、
集中していてもとぎれ、
言葉がところどころ素通りするようになり、
いかんいかんと、それでも聞こうと集中していたら、
大変失礼なもの言いで、もうしわけないのだが、
気持ちが悪くなるような感触が襲ってきた。

その感触は、うまくいえないが、
顕微鏡で人間をのぞかされているような感じ。

毛穴のなかとか、細胞のなかとか、
細部の細部、そのまた細部が延々とつづいていく。
細胞を何時間のぞいたところで、いつまでたっても、
ひとつの人間の像はむすばない。
そんないらだちと、消耗感だった。

その人はどうしてそんな話し方を
するようになったのだろうか、そこに興味があった。

その人の話には不思議と口をはさめない。

どういえばいいのか、
「時間がないんで先に10を言ってください」
とか、
「3から5までは
 飛ばしていいのでその先を言ってください」とか、
たのんで、たのめなくもなかったんだろうが、

どっかをどうかいじって、1さまたげると、
話全体、10くずれそうな気がした。

「1つどうにかなったぐらいで、
 それでだめになるようなものは、
 もともとたいしたものではないんだ。」

音楽をやっている友人が言った。

アーティストの中には、
衣装から照明から進行から
1から10までがっちがちに世界観を堅めあげ、
ひとつでも邪魔が入って崩れたら、
ライブ自体がおじゃんになるかのような
神経質なつくり方をする人もいる。

けど、その友人は、
突然、お客さんが壇上にあがり、
いつなんどきマイクを奪って歌い出しても、
むしろ本望というような、
お客さんに対しても、バンドのメンバーに対しても、
出はいり自由な、大胆なライブのつくりをしている。

私は、まだそこまでおおらかになれない。

講演・講義・ワークショップなど、
いわゆるライブの場で、

「構成上、ここは集中させてほしい」というときに、
スタッフの人がガラガラ、ガラガラと音を立てて
自動カーテンを開けたりして、生徒の集中がそがれると、
おじゃんになるとは言わないが、
ずいぶん動揺したり、腹が立ったりする自分がいる。

だけど、友人の言うとおり、
そんな日のライブは、もともとたいしたことはない。
1から10まで外堀から完ぺきに組み上げるようにして、
1くずれたらガタガタするような
つくりものはやっぱり弱いのだ。
まだまだ、なのだ。

逆に、自分でもびっくりするほど
大胆になるときがある。
予定どおりに進行しないようなとき、
「いま、どんなアクシデントが来ても大丈夫。
 ぜんぶ自分が背負う。
 全部私が引き受ける。」
というような境地になることがある。
そういう日の、ワークショップなり、授業なりは、
やっぱり、生徒のアウトプットもいい。

完ぺきに組み上げ、
1、2、3、4、5、6、7、8、9、10
と、完ぺきに進行したライブが、
結局10しか伝えきれず。

少々、ヌケモレ、アクシデントがあっても、
1、2、3→5→7→10のようなライブが、
ときに20も伝わるのはなぜだろう?

あきのある表現。

その友人は音楽をする前に、
服飾家をめざしており、
中国の古い着物をリメイクして服をつくっていた。

それで、着る人が困ることはわかっているのに、
ボタンをつけなかった、というのだ。

ボタンの無い服。

私だったらどうするだろう。
まずはそのまま着て歩き、
前がはだけて困るだろう。
しばらく手で押さえ、困り、困り、
やがてピンでとめるか、
帯をまくか、
自分でボタンをつけるか。

そうこうしているうちに、その服は自分の服になる。

親切にしあげ、ボタンも問題なくついていて、
着方も一通りでまったく悩むことのない服が
いつまでたっても、
よそよそしい、
買ってきた商品のままということもあるのに、

着方に頭をつかい、
ボタンの無い服が自分くさい一着になっていく。

友人がつくった服は、
人がよく介在してくる服だったという。

たとえば、駅まえで、おばちゃんに
「お兄ちゃん、それはそう着るもんじゃないよ」
と呼び止められる。
そして、近寄ってきて
服に触って着方を直されるというのだ。
「襟はこうで。帯はこう。これはこう着るもんだ」と、
直すおばちゃんは、「自信満々」で。

他のどんな服を着て歩こうと、
通りすがりの人が「自信満々で」着方を教えにくるような
そんなことは一度もなかったと友人は言う。

ボタンの無い服。

現代文で、空欄補充をさせると、
生徒は好き勝手に言葉を入れようとはしない。
筆者の心を読もうとする。

無いボタンをどうにかするにも、
服の思想とまったくそぐわないものを補うとしっくりせず、
着る人は、かえって服の心をつかみにくる。

自分の授業では、
一つのスタイルができてきて
次の段階にすすめなければとおもっていたが、

生徒に引くレールを丁寧にする作業でなく、
ボタンをとっていくような作業が、今必要ではないか、
と私は思う。

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2007-02-21-WED
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