YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson336 目が歓ぶもの


はじめて会って、
「なんかこの人いい」
と一発で思われる人はなにがちがうのだろう?

先日、仕事で
あるデザイナーさんにお会いしたのだが、
向かい合ったとたんに、
「なんかこの人いい」
と思った。

案の定、
いっしょに行った
編集者さんも同じことを思ったみたいで、
帰り道では、その印象のよさを語り合うことしきり。

なんだろう?
このニュータイプの印象のよさは? 

デザインなどの職業だけでなく、
独特の自分の世界を持つ人には、
こだわりがあって、
向かい合った瞬間に、
そんなにたやすくは踏み込めないぞ、
というバリアを感じる人も多い。

そのデザイナーさんは、
独自の世界があるのに、バリアフリーで。
こちらの言っていることがなにかとっても届く感じ。
受け入れてもらっている感じ。

初対面でも一瞬にしてつながる何かがある。

私はフリーランスになって
初対面の人と仕事をする機会がどっと増えてから
人見知りが強くなった。

取材などでオフィスに
初対面の人が多く来たようなとき
妙にそっけなかったり、攻撃的になっている自分がいる。
どうしてだろう、どうしてだろう、と考えて
「あっ、こわいんだ」
と気がついた。

見知らぬ人が自分の生活空間に入る緊張。
その人たちの前でよい仕事をしなければならない緊張。
二重の緊張で、初対面の人がコワイ。

それから、
「こう見えて、初対面の人が恐いんです」
と最初に自分から言うようになり、ラクになった。

ほんの1回でも会った人だと緊張感はまるで違う。

先日、テレビのコマーシャルを見ていて、
「あ、この人会ったことがある」と思った。
テレビに出ている役者さんの知り合いなどいない。
思い違いかとも疑ったが、

いや、まちがいない。

寝転んでいいかげんに見ていても、歴然としている。
その顔が目に飛び込んできた瞬間、
あきらかにそれまで見ていたテレビの住人と、
さっとトーンが違うものを感じ取った。

1週間がかりで思い出し、
その人は劇団の人で、数年前仕事で会った人、
会ったと言っても直接話はせず同席した人だとわかった。

数年前、たった1回同席しただけの人を
目はちゃんと覚えている。

この週末、祖母が100歳になり、
お祝いに、ひっさびさに親戚が集まった。

驚いたことに、遠縁の人で、
小さい子供のころに会ったっきり、
以来、何十年と会ってない親戚が、
顔を合わせたとたんに、
「○○ちゃんか」と声をかける。

何十年来会わないうちに、身長も伸び
体形も変わり、髪型も、顔つきも、
ずいぶん変わっているはずなのに、

目は一瞬で遠い昔に会った顔とこの顔が同じだと見抜く。

目は記憶するし記録する。

すでに見たものと、まだ見てないものを、
一瞬のうちに選別する。

『おとなの小論文教室。』の
第4巻を出すにあたり、
どんなつくりかたをしたら、
「らしい」表紙になるんだろうかと
昨年来、思案していた。

よい表紙をつくりたいのではない。
感心される表紙にしたいのでもない。
それ以上でも以下でもなく、
「この中身には、この表紙しかない」と
納得できるものにしたかった。

「おとなの小論文教室。」の立ち位置は、
表現するのが非常にむずかしい。

小説ではない。ビジネス書でもない。
かといってドキュメンタリーでもない。
エッセイと言い切るのもはばかられる。

一つにはコミュニケーション性。
2000年の連載開始以来、
国内・海外につながる読者からの
想い・経験のつまったメールでさまざまなテーマを
一緒につくりあげてきた。

もうひとつが、
「考える」ということを大切にしてきたこと。
もともと自分は
高校生の小論文教育からスタートしており。
すんなり読める読み物ではない、
しかし、読む人自身の考えが引き出されたり、
考える習慣がついてくる、そういう読感を志した。

そのような中身を視覚化し、伝達してくれる人とは、
いわゆる装丁家ではないのではないか。
かといって広告のデザインをする人でもない……と、

何度も何度も探しては暗礁にのりあげ、
もうダメかと思いかけたときに、
編集者さんが並々ならぬ努力で見つけてきたのが、
冒頭で紹介したデザイナーさんだった。

だから、デザイン案が上がってくるという日、

私も、編集者さんも、
この方面の仕事を20年以上やっていて
うるさいのと、期待値や、要求がたかすぎるのとで、
とても1回ですんなり決まるとは思っていなかった。

デザイナーさんからあがってきた表紙は10案あった。

1案…、また1案……、とみていくうちに、
終わりのほうに、
見た瞬間に言葉にならない衝撃が
サッ、と走るものがあった。

「これだ!」

私も、編集者さんも、まったく同時に思った。
一瞬、場の空気が変わった。
なぜか、まだ、よく見てもいないものを、
目に飛び込んだ瞬間、これだ!と思った。

10案ぜんぶ見終わったあと、
こんどは説明を聞きながら、よくよく見ると、

「これだ」とおもったその案は、
自分たちが生まれてから今までに一度も見たことがない、
聞いたこともない表紙だった。

奇抜なアイデアということではない。
一瞬気がつかないくらいにさりげなく、
しかし、まったく新しい、
あるアイデアがほどこされている。

私はそのことに、説明されるまで気づかなかった。

だけど私の目は、説明なしに、
一瞬で生まれて初めて見るものを認識し、
吸い寄せられてしまっていた。

目の記憶ってすごいなと思う。

いままで生きてきた何十年か分の目に映したものを
記憶し、記録している。
だからこそ、その記録にまったくない、
新しい面白いものが
飛び込んできた瞬間、見分けてしまう。

今まで生きてきて
見たこともない面白いものを映したとき、目は歓ぶ。

10通りのアイデアは、デザイナーさんの
考えた過程そのものだった。
その時間の量が本気を表す。
さまざまな可能性を試し、つくり、そして捨てていた。
その過程を自分でも「面白い、面白い」
と思いながらつくり進めていることが、
なぜか伝わってくる。

採用しなかった9案も、
そのまま表紙として通用するものだった。
だけどそれらはすでにあると言われればある。
採用した1案だけが全く新しいものだった。

「10案は、どのような順番で出てきたのですか」

という質問に、
まず、採用された案にカタチとしては非常に近い、
しかしまだ新しいアイデアが生まれていない状態のものが
あったという。

その案をスタートに、
別のアイデアを試し…、他の可能性をカタチにし…、
と9案までつくり進んでいって、

最後のさいご10番目に、
いちばん最初の案が化け、
全く新しいアイデアが生まれた、という。

それはそうだろうな。

最初に全く新しいものをつくって、それを見てしまったら
それがあんまり面白いので、目はもう満足して、
あとをつくろうという気がなくなる。

だとすると、10案の過程は、デザイナー自身が
すでに見たものでなく、
まだ見たこともないものを見ようとして
つくり進んだ道のりとも言える。

この人は、まだ見たこともないものを見ることが、
ほんとに面白いんだな。

と思ってはっとした。

初対面の人に向けるこの人の目、
それは、いままで見たこともない人が
目の前に現れて面白いなあ、
というわくわくした目だ。

だから、初対面の人を、きらきらとよく見るし、
よく見れば、相手の情報もたくさん入ってくるし、
たくさん受け取る。

受け取ってもらったほうは嬉しいから、
それが初対面の人にとって、
バリアフリーのいい印象を残す。

見たことのない面白いものを映したとき目は歓ぶ。

これからは下を向かず、
たくさん映してやろうと思う。

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2007-02-14-WED
YAMADA
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