YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson330
わたしの可能性は無限、ですか?



「あなたには無限の可能性がある。
それを生かすも殺すも自分の努力次第」

なんて言われて、
どうも腑におちないのは
私だけだろうか?

じゃあ、努力すればだれでも
イチローや宇多田ヒカルになれるのか?

努力しても限界があること、
自分の力ではどうにもならないことを
知ってしまった、いまの自分にとって、
「無限」はまぶしい。

だけど、若い人に小論文を書いてもらったところ、

「自分には無限の可能性がある」
「可能性は他ならぬ自分の意志と努力できりひらける」
という意識が見えかくれする。

それでがんばれるというのもあるのだろうけれど、
すべて自分だと思えば、
うまくいかなかったときの挫折感、自罰の念も強くなる。

けっこうよくつかう「可能性」という言葉を、
自分自身、かなりアバウトにつかっているなとおもう。

そもそも「無限」の可能性なんて私にあるんだろうか?
努力すればだれでもイチローや宇多田ヒカルになれるか?
可能性を生かすのは「自分」の意志や努力なのだろうか?

先日、脳科学者の茂木健一郎さんにお会いした。
来年書く新書のために取材させてもらったのだが
脳の見地から、

「可能性は無限です」

ときっぱり言われた。
あらためてそう言われるとやはりうれしかった。
この意味をわたしなりにこう噛みくだいた。

私の可能性は無限である。

ただしそれは、
全宇宙を把握できるとかそういう意味の無限ではない。

数に。

かならず次の数字があるように。
1の次には2、2の次には3、
10までいっても次には11があるように。
一千万までいっても、一億いっても、何十兆いっても
かならず「その次」がある。

同様に、
どこまでいっても自分には、
「必ず次やることがある」
そういう意味で無限だ。

どんなになにかができるようになったとしても、
どんなになにかを知り尽くしたとおもっても、
どこまでいっても終わりはない。
自分には必ず次やることがある。

だから、イチローや宇多田ヒカルのように
勝敗やCDセールスなど
はっきりわかりやすい方向に進むかどうかは
わからないけれど、
はたから見てわかりにくい方向かもしれないが、
それぞれの人に応じた方向で、
イチローや宇多田ヒカルの域まで
自分を開花させていく可能性はみんなにあると思っていい。
そして、わかりやすい方向に進む必要はない。

自分の可能性を自分で把握したり、
自分でコントロールしたりすることはできないと
思ったほうがよく。

ただ、だれの人生にもおとずれる、
自分がどうしようもなくひらかれていくという実感。
そういう「自分のひらけ」にむけて
進んでいったほうがいい。

以上、私が強く反応した部分を、
かなり私の解釈もまぜてまとめるとこのようになる。
可能性について、とても腑に落ちる説明だった。

気づかされたのは、私をはじめ多くの人が、
「可能性を生かす」ことを考えるとき、
2つの異なるものが混線する、ということだ。

ひとつは、世間的な成功。
ひとつは、生命体としての自分の歓び。

それで「世に出る」とか、
それで「食っていける」とか、
それで「人の役に立つ」とか、
就職や進路選択のとき、
可能性の開花=成功と刷り込まれている私たちは、
知らず知らずに考える。

だけど、
自分がなにをしているときにひらけが訪れるか、
5だった自分が、6になり、7になり、
どうしようもなくひらかれていく感じ、
考えるまでもなく
「その次」に向かっている感じがするか、
といえば、

それは世間的な成功とはまったく違うものだったりする。

いま思えば、
2000年にここでコラムを書き始めたときに、
無償であり、長期間なんの仕事の依頼もなく、
それでもなにかにとりつかれるように書いていたのは、
この歓びだったのではないかと思う。

生まれてはじめてネットにものを書き、
面白いとかうれしいよりも、圧倒的に苦しいつらいが
多かったにもかかわらず、
ずぼらな私が寝る間もカーテン空ける間も惜しんで
恐ろしいほど集中して書くことに向かっていた。

私の場合、それがたまたま、
ほんとうにたまたま2年後に出版につながり、
結果的に仕事につながっていったけれど、

まるっきり仕事につながらず、
何ひとつ実利がなかったとしても
まったく後悔はない。

そのくらい書くことを通して、
「次ぎやること」へ進めている自分を、
5から6へと、そして7へと開けていくことを、
考える間もなく、体が反応する方向へ
ものすごい集中で向かっている自分を、
生命体の根っこの部分は面白がっていた。

主観でいいんだ、と私は思う。

可能性を生かすというとき、
この自分の中に感じる「ひらけ」の実感こそが
確かなものなのだといまは思う。

この「ひらけ」の実感に臆することなく進んでいるとき、
現実にいいことはなくとも、
先がみえなくても、
妙に自分を好きになる感覚がある。

だけど。

自分なりの「ひらけ」の実感に突き進んでいったとき、
そのベクトルが、世間的な成功や人の評価と
まったく重ならなかったら、どうしたらいいのだろう?

「それは恋愛のようなものだ」と茂木さんは言う。

どんなに好きでどんなに努力したって、
相手に好かれるとは限らない。
同様に、自分がいかにコントロール不能な中を、
いかに自分の感覚をたよりに突き進み、
いかに可能性を開花させたからといって、
それを、人が、世間が、時代が、実利ある方向で
受けとめてくれるとは限らない。

恋愛と考えると、どうにもならないとあきらめがつく。

人の評価と自分のひらけ、
そこをこのごろ混線していた自分がいた。
人の評価のあるところに
自分のひらけもあるんじゃないかと。
自分のひらけのあるところで
人に評価をしてもらいたいと。
それが知らず知らずに歓びを減らし、
自分の可能性を狭めていた。

自分の場合、たまたまひらけの実感と社会に出る道が
重なったから、そのたまたまラッキーな経験が
そういう甘えを生んだんじゃないかと思う。
これからはそうはいかない。
覚悟しなければ。

ひらけの実感というのは妙なもので、
自分の好きな方向とか、
自分の想い描いた目標とかに、
まっすぐ進んでいるときに、わりにこない。
「それ以外」を寄せ付けないように視野が狭まる
からかもしれない。

私の場合は、仕事もなく困っていたとき、
もともと好きではなかった「書くこと」を受け入れたときに
やってきた。

自分の狭い視野の圏外にあるものとも、
つながる勇気がもてるように。
そして、やむなく人や社会の評価とくいちがっても、
自分の「その次」に進んでいたい。

それが2007への私の願いだ。

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2006-12-27-WED
YAMADA
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