YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson327 言葉を届けるための地図


「あなた自身が、ほんとうにつらかったとき、
 言われてうれしかったのは、
 だれの、どんな言葉ですか?」

この問いかけに、引き続きたくさんの読者から
メールが寄せられています。
まず、読者のメールからお読みください。


<なんでもない時を一緒に過ごす>

私の書く話は
「死を止めた」言葉や人の話ではありません。
その逆です。

私の父は私が29歳の時に自殺しました。
仕事のトラブルでした。
地方紙に連日載るほどの事件で
父は中間責任者としてほうぼうから
責めたてられる日が続いていたようです。

父が死ぬ数日前の休日、
父は私に「寿司を食べにいかないか」と
声をかけてきました。

私はその日はなんとなく気が向かず
父の誘いを断ってしまいました。

「あの時どうして。」とは今でも思います。

その日、父と一緒に寿司を食べに行ったところで
父が死に向かうのを止める言葉を
私が言えたとは思いません。

ただ、あの時、父と一緒の時間を過ごして
(父が私に話したかどうかはわかりませんが)
父の苦しさの一端でも、しっかり聞いて
理解しようとしてあげていたら、やはり
父は死なずに済んだのではないかと
そう思うのです。

「あなたがあなたのままでそこにいてくれたらいい」
たとえ言葉にできなくても、
なんでもない時を一緒に過ごすだけでも
そのメッセージが死に向かう人の胸に届いたなら。

私が「死に向かう人」なら、足を止めるかも知れません。
(読者Fさんからのメール)



<ああすればいい、こうすればいい、でなく>

先週の“相手が動かなくても着地する言葉”
読んでて、涙が出てきました。

苦しみの地獄にはまってしまうと、
「こうすればいい」とか「ああしなさい」のアドバイスは、
そんな簡単に受け入れられないんです。

考える前にまず「できない」って思ってしまう。
「できない」と思うことは、
自分が「できない」こと、「できない」人間なことを
認識することにつながって、さらに苦しくなる。

そうできるんなら、とっくにしてるし、
自分だってそうしたほうがいいとわかってる。
でも、できない。
それは、自分が動けないからですよね。
動けるほどの力がないからなんですね。

私が死にたいと思っていたとき、
「あなたは今、こういう状況なんだね。わかった」
と言ってもらえることが一番ほっとしました。

「こういう状況なのはわかったから、
 元気になれるようにこれをしよう」
と言われると、すごく苦しかった。
(22才 ぶん)



<ほんの少しでも自分が好きになれるか>

リリー・フランキーさんの本でした。
その本の裏帯に書いてあった言葉です。

「なにかに、つまずいている人の方が、魅力的だと思う。」

題名は「ボロボロになった人へ」でした。
つまづいて、さらに自分を追いつめてしまう、
自分の嫌なマイナスな部分を、少しだけ許して
好きになるような事、ができる言葉でした。

最後の最後には、ほんの少しでも、自分が好きか、
ということは大事なんじゃないか。
(真由美)



<いま、そのこと、に触れない優しさ>

「おかあさん。去年のなつ、
 おかあさんと、おとうさんと、
 あたしとおにいちゃんとで、海にいったね。」
「電車に乗って、いったね。たのしかったね。」
「○○は、うれしかったよ。」
「また夏になったらいこうね。」

先週五歳の娘がかけてくれた言葉です。
現在の状態に触れることなく、
少し前の楽しかった共通の体験のことを、
そして少し先の希望というか、
無理のない予定について話す。

娘の言葉は確かに私に届きました。

先週分を読ませていただいて感じたのは、
どれも直接「現在」には触れていないのではないか
ということでした。
(a)


…………………………………………………………

相手の心の何丁目に言葉を届けるか?

相手の心の見取り図のようなものがいるな、
と思う。

相手の心の地図には、
過去、現在、未来、
病んでる地帯や、比較的あかるい地帯、
正しいところ、まちがっているところなど、
さまざまな番地が並んでいる。

そのひろい地図の中の、
自分は、どこに光をあて、どこに言葉を届けるだろうか?

例えば、いま相手を苦しめている問題。
そこを正面きって取り上げ、そこに言葉を届けるか?
あえてそこは避け、別の番地に言葉を届けるか?

私は、以前このコラムに
在職33年の中でわかっているだけでも3人の死を
思いとどまらせた、
初老のタクシー運転手さんのことを書いた。

自分の田舎のじいちゃんを思わせる、
あの運転手さんだったら、
きっと、「問題そのもの」には触れないだろう。

相手が何か仕事のことで悩んでいるな、と感づいても、
どうしたのかと問いただしたり、詮索したりはしないで、
問題については何も言わず、何も触れず、
私にしてくれたように、その地方の神楽の話や、
都会に働きにでた息子さんの話をしてくれるだろう。

そして、ふっと、小腹がすいたときに、
飴玉を差し出してくれたり、
蚊にかまれたときに、自家製の薬を差し出してくれたり、
淡々と、ただただ大切に扱ってくれるだろう、と思った。

この話をカウンセラーをしている友人にしたら、
「しのぐ」という発想を教えてくれた。

悩んでつらくなっている子どもに、
田舎のじいちゃん、ばあちゃんが、
「まあ、これでも食べろや」と、甘いものを差し出し、
温かくして、とりあえず、
そこにいられるようにしてあげる。

問題と正面対決するわけでもなく、
それゆえ問題をことさら際立たせず、
別の方向からあっためる。

「問題解決ではなく、
 今日その場をどうにかしのぐという知恵」
ということを友人は言った。
「生産性と離れたところに生きる、
 田舎のお年寄りだからこそできることだ」
とも。

それを聞いて、あらためて、自分たちがいる世界は、
「生産性」のもとに、激しく人間が比べられ、
緊密に序列化され、評価され、
評価が悪ければ、いらないものにされる、
厳しい世界だなと思う。

仕事ができるか、できないか、
容姿がいいか、悪いか、性格がいいか、悪いか、
人間的に魅力があるか、ないか、

魅力とか、価値とか、意味とか、生産性とか、
つねに見えないモノサシで、
他人から、あるいは、自分自身から、はかられて、
意味がないという判決が下ることに怯えている。

価値も意味も、なにもなくたって、
あなたは大切なのだよ
ということは、確かに、自分自身が、
生産性とか若さとか、付加価値とか、
そんな競争から引退し、
それでも、しっかりと生きている
お年寄りならではのメッセージだ。
田舎には、そんなお年寄りがたくさんいる。

私は、今回もその運転手さんに
タクシー代をおまけしてもらった。
運転手さんは裕福では決してない、
でも、田舎で暮らし、
こどももりっぱに巣立ち、ぜいたくもしない。
お金に執着がないのだ。
商売根性とは、
まったくちがうところで働き、客を大切にする。
その尊重感が、お客さんにも伝わっている。

無条件の人への尊重。

私が、そのタクシーの運転手さんに
また会いたかったのも、
3人の人が「やめとこう」と思えたのも
それではないかと思う。

では、それを、自分には伝えられるか、というと、
私は、かなしくも
生産性みたいなところでアクセク生きている。
自分の仕事が、意味があるのかないのか、
で厳しく評価され、
歓んだり、怯えたり、
落ち込んだりしながら生きている。
意味や価値をとっぱらったところで
あなたは大切なのだと、
人に言ってあげたくても、
自分がいっぱいいっぱいで伝えられない。

私は、小論文、言葉、意味の世界で
生きてきたこともあり、
どんなかたちでもいいから、やっぱり、
あなたが生きていることには
意味があるのだというようなことを
言いたいんだな、と、再認識する。

そのために、
相手の心の広い地図のなかのどこに光をあてるか?

たとえいま、相手が間違っていて、
病んだ部分があったとしても、
そこにあえて手をつっこんで、
膿をかきだすようなことができるのは、
専門家とか、家族でもないと難しい。

だったら、相手の心の広い地図の中の、
わざわざ一部の病んだ黒い部分に光をあてるのではなく
それ以外の比較的あかるい部分に光をあてたい。

過去、現在、未来。

つらいときは、「いま」から逃げたいし、
未来を思いえがくことさえ億劫だ。
過去をふり返ろうとおもっても、後悔があると、
過去は変えられないので、ふり返りたくない。

このうち、未来に希望をかざしてあげようにも、
未来のことは、まだ経験していないので、
相手は、検証のしようがない。
未来にいいことがあるといっても、
相手は、信じるか、信じないか、のどちらかだ。

相手に信じさせるだけの力があればOKだが、
信じてもらえなければそこまでだ。

でも、いま、と、過去については、
相手が実際に経験していることなので、
言葉は、相手の実感みたいなところに着地する
可能性がある。
うまくいけば、しっくりと相手の腑に落ちる。

いまと、これから、に進めないとき、
自分自身も、過去にもどるしかなくて、
おっくうながら、過去をふりかえって、
昔のことを文章に書いていた。

すると思わぬ発見があり、
なにひとつ現状はかわらないにもかかわらず、
もどってきたとき、「いま」が違って見えた。

同様に、相手の過去を変えることはできないが、
その人の、過去の、よりあかるい部分や、
より意味のある部分に光をあてることで、

その人の中で、過去の、いい実感が太くなる。

直接、現在の問題解決や、
未来の希望を照らしてあげることができなくても、
その人の中で、過去のいい実感が太くなることで、
その人自身の、いまに対する見方が変わる。

自分が言葉を届けたい番地は、
そういう方向にあるのではないか?
と、今日はここまで考えた。

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2006-11-29-WED
YAMADA
戻る