YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson314  感性の商人

いいらしいと評判の、ある作品を鑑賞した。

鑑賞し終わったあと、
なんとも言えない、イヤな気分になった。

作り手の能力が足りないのか?

いや、その若い作り手には、
すごい「才能」があると感じた。

作品としての仕上がりが未熟なのか?

いや、すごくよく出来ていた。
よく出来ていたなんて自分がいうのは僭越だが、
たぶん、そんじょそこらの作り手が、
その域まで、とうてい行けなくて右往左往している中で、
その作品は、洗練され、よくつくり込まれていた。

才能ある人の、よくつくられた作品。

いったい何が気に入らないんだ、自分は?
「イヤな気分」の正体はいったい何だろう?

反射的に私は、
これまでの仕事人生の中で、
ひやり、と水をかけられたように、
「あれ、私、まちがっているかも」と
「はっ!」となった経験を思い出していた。

それは、私が、
手探りで始めた高校生向けの小論文の講演が、
評価されはじめ、依頼が増えだしたころのことだった。

当時の私が、研究熱心だったのは、
いまから思えば「つかみのある表現」のようだった。

高校生たちは、
面白いと感じたものに敏感に反応するが、
あきやすく、つまらないと感じたらすぐしらっとする。

こちらが言いたいことを、
こちらの都合の順番で話しても、聞いてはくれない。

だから、講演の頭の部分で、どんなことを言えば、
高校生の心をつかめるのか?

どんなテーマで、どんな順番で、どんな方法で、
小論文のポイントを伝えていったら、
高校生たちが、食いついて聞いてくれ、
わかりやすく、印象に残り、
「小論文って面白い!」と目をかがやかせるのか?

同じことを言うにしても、どう言うか? どう伝えるか?
当時の私は、伝える手法に、命をかけていた節がある。

そんな矢先、ある一人の女の先生に出会った。

その先生は、同じ高校生に向け、
別のテーマで講演にこられていた。

その先生が、
淡々と、シンプルで素晴らしい講演をされた。

もともと十何年来、
高校の現場で教員をされていた、その先生の講演は、
地味で、シンプルで、しかし、聞き終わったあと、
ひたひたと、聞く人の内面から自信を引き出す、
ほんとうに「実」のある講演だった。

それは、なんの「ケレン味」もなく、
当時技巧をこらしていた私の講演とは、
対極にあるものだった。

その先生は、受験生に必要なことを、
淡々と、しかし、平易なことばで、ゆっくりと
生徒の顔をみながら、話しかけるように伝えていった。

言葉が、高校生の中に染みとおっていく。

私は、それを目の当たりにしながら、
なんともいえない敗北感を味わっていた。

ひと言で言って、「生徒を思う気持ち」に負けていた。

私も生徒を思い、生徒のためにと、
伝え方を工夫していたはずだった。
どうすれば、あきさせず、
高校生の心をこちらにひきつけられるかと。

それが、いつのまにか、
展開手法や、表現手法にとらわれ、
その工夫を見てくれ、ねらいどうり反応してくれ、
が自分の中で大きくなってしまっていた。

そのことに気づいて「はっ!」となった。

私の話を聞き受験の小論文に臨む、たった一人の高校生に
ほんとうの意味で役に立つ、とは、どういう講演なのか?

私が感心されてもしょうがないわけだし、
私の表現手法が効果的かどうか、
そんなことは、
生徒にとって、大きな問題ではないはずだ。

私は、自分の考え方の幼稚さに気づいて、
ひやっ、と水をあびせられたような心地がした。

それ以来、
講演に対する心がけを改めずにはおられなかった。

あの女の先生に出会えてよかった。
もしも、あのまま突っ走っていたら、私の講演は、
「人が育つ」教育の場ではなく、
自分の力と技を披露するための
「ショー」になってしまったろう。

冒頭の、才能あるつくり手の、よくつくられた作品の、
しかし鑑賞し終わったあとの、
「イヤな気分」の正体は何か、と私は考えた。

その作品は、ほとんど批判のしようがない。

テーマもいい。
「好いた・惚れた・だれとだれがくっついた」
というようなミーハーなテーマは採ってはいない。

もっと大人の、深さのあるテーマ、
いわれてみれば、
多くの人に自分の問題として思い当たる節がある
普遍のテーマを採っている。
身近で、鋭いところを採っている。

シーンシーンの描き方も、見事としか言いようがない。

作品というのは、頭で思っているときとはちがって、
実際に作ってみたら、
案外にダサいところができてしまったり、
陳腐になったり、
不自然なところも出てきたりすることもあるが、

その作品には、
不自然な展開も、ダサいところも、ひとつもない。

たぶん、その作り手の世代の、若いクリエーターたち、
情報世代で、いいものを観つけてきた、
目の肥えた、感覚の鋭い人たちが見ても、
「ダサい」と突っ込まれるようなところは、
寸分もないだろう。

それどころか、
「こんなに無駄のない最小限の表現で、
こんなにも自然に、情感を描き出して」
と、その感性に、共感するだろう。

私も、そのひとつひとつを、
「感覚がいい」「うまい」
「なるほどそういう表現方法があるか」
と、うなりながら、共感100%で作品に入っていった。

それだけに、鑑賞し終わったあと、
肩透かしをくらったような気分になった。

ひと言で言って、その作品は、
お客さんとして作品を受け取る私を、
どこにも連れていってはくれなかった。
と、私は感じた。

だったら、あの洗練されたシーンシーンは、
いったい何のためにあったのだろう?

あれほど自然な展開、表現の細部にこだわり、
表現を磨き上げていったわけは何だろう?

だったら、
そもそもなぜあんな深いテーマを採り上げたのか?
テーマの採り方そのものも、
ひとつの「ファッション」だったのか、
とさえ思えてくる。

私はつくり手の優れた力を、ただ見せてもらっただけ、
なのだろうか?

「感性の商人」。

ふと、そんな言葉が浮かんだ。
恵まれた感性も、
ただそれをカタチにし、披露することが
目的になってしまえば、才能の陳列、切り売り、
ただ自分の感覚のよさを披露し、証明し、
見せつけるだけの、
へたすれば、「感性の商人」になってしまう。

そこで、とどまって、よいのか?

この作品の対極に、韓流ドラマがあるような気がした。

主人公が何度も交通事故にあうような不自然な展開。
「ダサい」
といくらでもツッコミを入れられそうな説明ゼリフ。
それでも、見る人を、ときめかせ、
恋愛の初期衝動のような域まで、
一気につれていってしまう力がある。

ダサくても、少々不自然があっても、
その先へ、その先へと、
自分も人も、ぐいぐい引っぱっていく力がある。

感性は、そんなに大切なものなのだろうか?
それよりも、作品の向こうにいる、
一人の他人の存在に気づくことではないか?
そことせめぎあうことではないか?

知識のある人が知識に、
技術をもつ人が技術に、
洗練された感性を持つ人が、その洗練された感性に、

それがあるがために、それにとらわれ、
それを求められ、それを証明し、
それを見せつけ、

もっと大きなところへと、
自分を生かす道を阻んでいる、

私が感じたイヤな気分とは、その「はがゆさ」だと思う。

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内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

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2006-08-30-WED
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