YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson 306 表現の体力2

「自分のクリエイティブが弱ってるな」
と感じるときはないだろうか?

例えば、
グラフィックデザイナーをしている
読者さんは、こう言う。

=表現欲の凪

以前はブログの更新をすごく楽しんでいたのに、
ある時から、

何を書いていいのか分からなくなりました。
何を書いても、つまらないような気がして、
月に何度か更新する程度になってしまいました。

仕事に対するモチベーションも

明らかに低下していました。

大好きだったカラオケも
ここ最近、パタリと行かなくなってしまいました。
歌っていても、虚しいのです。

気分はさほど落ち込んではいないのです。
ただ表現する意欲だけが低下しているようでした。

以前までは、表現欲が体に満ちていて、
絵を描いたり、文章を書いたり、
そうすることでやっと、

自分の中の欲求を満たしていました。
でも最近、それがパタリと無くなってしまったのです。
まるで風が吹かなくなって、凪いでいる海みたいに
シーンとしている感じです。
(読者のグラフィックデザイナーさんより)


私は、発想を捕まえる集中力や粘りなど
「表現の体力」が下がったと感じたとき、
何もしないよりはましと、「掃除と運動」に力を入れ、
なんとか上向きにしていったことを、
以前、ここに書いた。
すると、読者や、友人知人のライターや作家さんからも
「まさに自分のことだ」
と、たくさんメールをいただいた。

いただいたメールを読んでいると、
凪はだれにもあるんだと、
いまさらのように気づかされる。

「表現の体力に、なぜ掃除と運動なのか?」
と思う人もいるだろう。
「そんなことかよっ!」
とツッコミを入れたくなる人も。
そこに、
もうひとつ説得力がない=読者にとって食い足りない
のが、Lesson303「表現の体力」だったかもしれない。

でもそこを、さまざまな読者が、おもしろく、
途切れた映画の結末を自分でつくるように、考えて、
いろいろな観点を寄せてくれた。

例えば、ライターのTさんは言う。

=さえない感じ、に風がくるまで

2年前、過労で入院し、
退院したあとも不調が続き、
半年ほど、お仕事をお休みしていました。

復帰してから1年間はまさにリハビリでした。

原稿を書く時間もこれまでの倍以上かかってしまうし
書き上げても、自分で「これでいいのかしら?」と
ピンとこないこともしばしば。

一言でいうのなら「さえない感じ」。

この状況がどのくらい続くのか、
回復のときが訪れるのかも、さっぱりわからず、
不安と焦燥の中にいました。

幸いなことに、
仕事は途切れることなくやってきましたが、
いつか、誰かが見抜いて
「力が落ちてるんじゃない?」と
指摘してくるんじゃないかって先回りして
不安をみずから水増して、悶々としてみたり、
あるいはせっかく褒めてくださっても
「なんで、これでいいわけ?」
と心の中で反発してみたり。

「このままじゃいかん!」
で、そのときにやったのが、
まさに「運動と掃除」だったんです!

なんでしょう、あれって。

とりあえず、
自分のいる環境をよくしようって思ったのと
気力も体力もまだ万全じゃなかったので、
大きな転換はムリってことで
ささやかに地道にはじめたことだったんですが
私自身の体験をふりかえっても、「運動と掃除」
これが一番効いた、という実感があります。

そうして、なんとか、
「また、やっていこう。がんばろう」
というところまで
気持ちと体力が戻ってきた今年は、
「ムダ足をがんがん踏む」を
マイテーマにしています。

学生の頃って、映画にしてもライブにしても、
手当たり次第で、当然、ムダ足も多かった。

だんだん、自分の好きなものが固まってきて、
それはそれで「アタリ!」も増えたし、
いいことではあるんですけど
そのぶん、興味の対象が絞られがちで
それ以外には、
なかなか食指が伸びなくなっていました。

効いてんのか、これ?
ということを続ける、

続けるしか出来ない時期がある。

そこをくぐりぬけて、
前よりも少しだけ、しぶとい自分になって
景色がもう1度冴えてくるのを実感できるのは、
ほんとうに気持ちのいいことです。

心の中に、風がもう1回入ってくる感じがします。
(ライター Tさんより)

「表現の体力に、なぜ掃除と運動なのか?」
を解く上で、
このメールを読んで、まず響いたのは、
「効いてんのか、これ? を続ける」という言葉だ。

つまり、効果が見えるまで、時間がかかる。

もうひとつ、響いた言葉が
「ムダ足をがんがん踏む」だった。

「学生の頃って、ムダ足が多かった。
 いまは、好きなものが固まってきて、
 アタリも増えたけど
 そのぶん、興味の対象が絞られがち……」

まっすぐアタリに向かうことが
自分を狭めていく……?

見えてきたような、まだまだ見えないような、
そんな感じで、さらに読者メールを読み進んだとき、
虚を突かれた一文があった。

=片付けて見えたもの

職場で任された仕事を、
一心不乱に7年ほどやっていて,
一人暮らしですが、家の掃除もせず、
家の中が床が見えないくらい、
大事な物で埋め尽くされていました。

しかし、最近の情報漏えい対策とやらで、
家に仕事を持って帰ってはいけないことに
決められてしまいました。

家に仕事を持って帰って、
休日までかけて仕事をやっていたのに、
自分が一生懸命に家で仕事してきたことが、
悪だと決め付けられてしまいました。

で、やけになって、
7畳のワンルームからダンボール15個分くらいの
荷物を職場にもって行き、
ついでにテレビ、オーディオ、

棚、机を捨ててしまい、
ものすごくすっきりしました。

そして、がらんとした部屋で、
残った自分の荷物を眺めてると
つり道具、山登り道具、
ガラス細工道具、ツーリング道具、
趣味の本、MD……と、
昔の自分の名残がはっきりと現れてました。
思い出すことすらやめていた遊び道具たちですが。

自分のたどってきた道筋というか、
今の自分を形作ったいろんな

出来事がよく見えてきて、
とても驚きました。

ズーニーさんの言う、表現の体力は、もしかしたら、
自分の大切にしたい自分をわかってあげて、
これからどうしたら
楽しくいられるのかを真剣に考えることで、
生まれてくるのではないかと思いました。
(読者 ?さんより)

私の部屋は、
もともと物が無く、がらんとしているので、
掃除と言えば、
掃除機をかけたり、ぞうきんで拭いたり。
?さんと全く同じ経験はしていない。

にもかかわらず、

「自分の大切にしたい自分をわかってあげて、
 これからどうしたら
 楽しくいられるのかを真剣に考えること」

という一文に、はっ、とした。

私が、
Lesson303
「表現の体力」で本当に言いたかったことは、
実はこれではないかと思ったからだ。
明らかにうろたえている自分がいた。

国語の要約より、もう一歩突っ込んで、
筆者でさえ、
まだ気づいていない本当に言いたかったこと。
それを、読者に一文で要約されたと思った。

でも、どうしてだろう?

掃除も運動も、私がやりたいことどころか、
とりつくまで億劫で、おっくうで、
むしろやらずにすむならすませたいくらいだ、
なのに、なぜ、
これが「大切にしたい自分をわかる」なのか?

そこに、また、
ピアノを弾く読者から、印象的なメールがきた。

=平凡の積み重ねが非凡に達する

「あたりまえのことを当たり前にやる」
……一見表現することとは無関係で、
心もとないのではないかと思えるこのことが、
最近とても大事だと痛感していたところでした。

料理研究科の辰巳芳子氏が
「平凡の積み重ねが非凡に達する。
 それこそが本物だと思う」
と、テレビでおっしゃっていたのを思い出しました。

私は、仕事に忙殺され、知らず知らずのうちに
社会的地位や同業者とのつまらない競争心に
巻き込まれているとき、
落ち着かない焦っているような感覚を覚えます。

大げさかもしれませんが、私にとっては、
ピアノを弾くこと=日常生活
と言えるところがあります。
その時の自分が毎日を
どういう価値の方向性で生きているか、
音楽にバッチリ出てしまう。

自分の状態がどういう方向か、
なかなか気づけないことも多いのですが、
弾き終わった時の感覚で、
なんとなくですが嗅ぎ分けることを試みています。

いいときは、静かな中に凛とした興奮が残っている。
でもダメなときは、

ワーワー興奮している感じなのです。
そういう時に限って、
聴いてくれた人や

周りの反応が気になってしょうがない。

そして生活を見直すと、いいと思えた時は、
その演奏(「出産」)へ向けて、
日常の土台が落ち着いているし
価値観も揺らいでいないのです。

今は、私の日常と価値観を磨きたいと思いたち、
アホみたいなことですが、
テレビを必要以上に見ないことと、
人のブログを
必要以上に読まないことを試みています。

これまでの習慣を変えるのは、
こんな小さなことでも至難の業……。

でも、やっぱり自分の感覚を鈍らしている要因に
なっているように思うなら、ここで辛抱ですよね。
早く習慣になってほしいものです(苦笑)。
(読者 さなえさん)

「いいときは、
 静かな中に凛とした興奮が残っている。
 ダメなときは、ワーワー興奮している感じ」
というところを見て、ぎくり! とした。

私も、原稿も、講演も、まさに、そうだ。

瞬間、掃除が生み出す新鮮な空間が、脳裏に浮かんだ。

掃除をやってるときは、単調で、なのに時間をとられ、
こんな非生産的なことより、ほかにやるべきことが……
と必ず一回は、徒労感がきてやめたくなる。
そこを突き進んでやりおえても、当たり前のこと、
なにが、どうなった、ということはない。

ところが、雑巾を洗うためなどで、いったん離れ
戻ってみると、別空間が生まれている。
そこには、それまでとは
全くちがった空気が流れている。

創作とは、一発アイデアに寄りかかる、
というよりは、
あたりまえを積み上げた果てに生まれ出でる、
あの別空間のようなものかもしれない。

そう思って読者メールを
読み進めついにこのメールに出逢った。

=本来行きたかった方

先日、
茶道をやっている知人に
お茶をごちそうになったのですが
茶道の作法って、
すごく細かいルールがあって、
とても難しそうでした。

私は、
お茶なんてそこそこおいしければ、
そこへ至るまでの動きはどうでも良いです。

でも、
茶道のルールの細かさや厳しさには
意味があるなと思いました。

そのルールがなければ、
自分の動作は意識することもなく、
普段の自分のクセのまま、楽な方に、
どんどん流れていってしまうでしょう。

そのルール(型)があるおかげで、
無意識だった自分の体の動きを意識できて、
「楽な方」ではなく「美しい方」の
動きを選択することができる。

茶道って、ある意味、
自分自身の動きをよく観察し、

コントロールすること、
その心の体力のようなものを
鍛えようとする修行では?
(読者 M.Yさんより)

これを読んで、これだ! と思い、
以前、表現の体力を落とした原因がよくわかった。

自分が本来行きたかった方へ行けなかったからだ。

私が本来行きたいのは「おもしろい方」であって
「ラクな方」ではない。
それが、仕事の嵐で表現上の出産を続ける中で、
疲労し、無意識のなかに、
力をセーブして書こうとか、楽して書こう
という気持ちが、1ミリか2ミリか、まぎれこむ。

その1ミリか、2ミリが、つもりつもるうち、
いつしか、自分の中で、
ラクに出口にでる
短絡回路、バイパスを結んでしまう。

すると、がんばっても、自分が本来行きたかった出口と
ちがう方向の出口に出てしまう。
できあがってもなんかちがう、うれしくない。

好きな方に向かえなければ、
モチベーションが落ちるのも当然、
表現の体力がさがるのもあたりまえ。
むしろ、その方向で突っ走れば、
短絡回路を強めることになる。

何か、変えなければいけない。

心がまえと人は言うが、
私の場合、現実の行動を何ひとつ変えず、
心がまえを変えるのが、実はいちばんむずかしいのだ。

掃除でも、運動でも、ほかのものでも実はよかった。
ラクな方へと流されず、
美しいと感じる方へ、耳を傾け、敏感になり、
そこに向かう
コツコツとした現実の習慣性を養えるなら何でも。

これが?さんの言う
「大切にしたい自分をわかる」という営みだ。

表現の体力は、ある日、突然落ちるのではない。
時間をかけて、じっくりと、無意識に、
より短絡に、しぼられていった回路だから
解くのにもコツコツ、時間が、かかる。

落ちてきたときと同じくらいの日数で、
同じくらいの目に見えなさで、
自分にとっての当たり前を積み上げた果てに、
いい風がきはじめたら、
自分が本来生きたかった方向性に向かっているし、
向かう習慣性もできつつあるということだ。

そうなったら、ほんとうにうれしい。

今回、こんな大事なことに気づかせてくれた読者力に、
「まいりました!」と私は言いたい。

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『考えるシート』講談社1300円


『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円



『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
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2006-06-28-WED
YAMADA
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