YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson300  立脚点2


2000年の5月17日にスタートした
「おとなの小論文教室。」
ちょうど今日、6周年、300回を迎えました。

ありがとう。

こんな言葉じゃ足りないけれど、
ほんとうにありがとうございます。

ちょうどこのタイミングで、
「おとなの小論文教室。」単行本の第3巻
『17歳は2回くる―おとなの小論文教室。III』
も出ます。



「自分を表現する」をテーマにした第1巻、
「人とつながる力」をテーマにした第2巻につづき、
第3巻は、2度目の思春期がテーマになっています。

社会人の17歳を迎えるころ、
35歳とか、39歳とか、その前後、
おとなは悩みます。

それは社会に出てがんばってきてこその悩みです。

社会に出てがんばって、
自分の中に育ってきたものと、
いつのまにか社会的立場の中でカタチにはまり、
自分をしばっていくものとが、
せめぎあうからです。

これからもっともっと面白く、化けていくおとなほど、
せめぎあいは大きい。

自分が築いてきたものを
いったん壊して化けるからです。

だから、悩みは可能性です。

2度目の17歳に直面しても、
悩んでいい。
悩んで、迷って、あばれて、
「考える」ことで、「自分の潜在力を生かす」方向へ
未来への舵を取ってほしい。

そんな願いを込めて、
「自分はこれからが面白い」とおもっている
すべての人に、『17歳は2回くる』をおくります。

さて、今日は、先週のコラム「立脚点」に寄せられた、
こんなメールのやりとりからお読みください。

読者からのメール:

=
コラム「立脚点」よかったです!!

いろいろな表現に触れて、
その由来といいますか、
表現がそこから文字通り立ち上がってくる
「立脚点」自体に
共感してしまうことってあります。

どこから、どんな切実さで、
どんなふうに発信された表現なのかが
明らかになっているだけで、
提示された表現の舌足らずな部分さえも
大きな意味を持ってこちらに
迫ってくるようなことが。

(鹿野青介)


ズーニーからの返信:

=
> どこから、どんな切実さで、
> どんなふうに発信された表現なのかが
> 明らかになっているだけで、
> 提示された表現の舌足らずな部分さえも
> 大きな意味を持ってこちらに迫ってくる


そう、私はあらためてこのことに打たれています。
会社にいるときはよく、
意図が不明な企画を上げてくる後輩に、
「で、どうしたいの?」
「だれに向かって、どうなることを期待しているの?」
と、きびしく戦略(ゴール)を
つめ寄るようなことをしていました。

でも、「で、どうしたいの?」と言っていた自分が
はずかしいとおもえるくらい
(撮影のことも取材のことも何もわからないまま、
手探りで、2年8ヶ月かけて
ドキュメンタリーを撮り続け、
東京上映にこぎつけた)ともだちの表現は、

> どこから、どんな切実さで、
> どんなふうに発信された表現なのかが明らかに


されていました。
そのことだけで、充分でした。
(ズーニー)


読者からの返信:

=


(コラムを読み返し、ズーニーさんのいう)
「立脚点」は、
必ずしも、こう、ピタッと定まった点では
ないような気がしてきました。

それは、表現をがっちり支える
安定した基点ではなくて、
むしろジレンマとか葛藤とか、
巻き込んだ人をもみくちゃにして、
否応なく戦いを強いてくるような
渦みたいなものであることも
多いんじゃないかと。

何らかの表現によって、
その渦から懸命に立ち上がってくる人の姿が
持っている迫力って
やはり無視できないように思います。
(鹿野青介)


もう1通だけ、今度は、「立脚点」について、
ある編集者さんから届いたメールをお読みください。

=
聞く側の「立脚点」

「聞く」という姿勢は
受動的なものと思われがちなのだけれど、

人の話を聞くのに必要なのは、
相手と同じだけの知識とか、
得意分野とか
そういった対抗手段としての「知識」ではなく、
自分はどこに立ってる人なのか、
立ち位置を知ってるかどうかなのではないか、と。

相手に流されるままでは、
考えるための問い=「?」も浮かばないです。
そして、話を聞いた上での
理解や発見=「!」も生れない。

(以前紹介されたズーニーさんのワークショップに)
参加した人のメールには、
たくさんのいい言葉があったのですが、
これ、と感じたフレーズがありましたので、書きます。

「自分が理解してほしいと思うのと
 同じだけの気持ちで
 理解しようという姿勢でいる」

当たり前のようで当たり前でないこと。
みんな自分のことはわかってほしいのに、
自分が分かってほしいと思うのと同じ情熱で
人の話を聞こうとはしていないのでは。

そんな薄〜い情熱では、「!」は生れない。
そう感じた次第です。
(編集者 Tさんからのメール)



「最悪のライターを見てしまったのかもしれない」
ほんとうに失礼ながら、
私は、過去に一度だけ、
取材を受けてそう想ったことがあります。

私はこれまで、
何十人ものライターに取材を受けてきました。
その中には、
自分でも気づかなかったような深い想いや、
意外な本心を引き出してくれる、
話をしていて面白い人や、

取材のときは、淡々としていたのに、
記事を読んで腰をぬかすほど! 
自分以上に自分の言いたいことを
取材記事にまとめてくれる、
素晴らしいライターもいました。

しかし、その日のライターは、
話をしていて、
いっこうに広がらない、深まらない。
それどころか、
私のいうことをことごとく曲げて解釈し、
私は、それを訂正するのに大半のエネルギーを
吸い取られます。
質問は、どんどん、
私の本来の興味・経験とはかけはなれた、
皮相な方向へ、収縮していきます。

あがった記事を見て、
あまりに自分の言いたいことと
かけはなれていて、怒る気持ちさえありませんでした。

もちろん、取材を受ける私にも責任があった。
それを認めたうえで、
でも、あのときの、あのライターは、
何が、どう、問題だったんだろう?
と考えずにはいられませんでした。
つらつら思い返すに、

そのライターは、どこにも立っていないのだ。

そして、自分の立ち位置を知らないことが、
実はかえって、しばりになるんだ、
話の幅を狭めてしまうんだ、
ということを、まことに失礼ながら私は、思いました。

多くのライターは、
自分という個人、読者、クライアント
この3つの立場でせめぎあいます。

たとえば、
自分という個人の興味・実感に立脚して、
取材を起こし、質問を発し、
そこで自分がつかみ得た面白さを、
自分とは違う読者に何とかして伝えよう、
クライアントの編集方針からはずれない範囲で、
という立ち位置にいる人もいます。

あるいは、
読者の代弁者という立ち位置から
取材を起こしていこう
という人もいます。
そこに、自分の感覚、クライアントの要求を
どう盛り込んでいくかでせめぎあう人。

あるいは、クライアントの意志があって、
その理解・消化、のようなところからはじまって、
クライアントの意志の代行者として、
取材に臨む人もいます。
そこに自分という個人の感覚をどう生かし、
読者の要求をどう盛り込んでいくか、というように。

読者の代弁者と名乗るには、
読者への突っ込んだ理解・尊敬が必要だし、
クライアントの意志の代行者と名乗るには、
やはり、クライアントの意志を
自分の言葉で語れるような
責めの理解・消化が必要です。

すらっと書きましたが、
たいていは、この3つの立場はそんなふうに
きれいにはわりきれません。
せめぎあい、ゆらいでいます。

3つの立場のどれかに、どかんと腰を下ろすのでなく、
多くは、3つのせめぎあいを引き受け、
辛抱して、そこから切実な問いを繰り出していきます。


そして、現場に出たときに、取材相手の
思っても見なかった発言に、
自分の予定していた取材マップが、
根底からゆらいでしまう、ということも起こります。

自分が予定していなかった未知のパンチが
取材相手から繰り出されたときに、
それに、のるか、そるか?

というときに、私は、
自分の立ち位置を知っている人のほうが、
自分の用意したマップを捨てて、
それに乗ることができるように思います。
ここでいう立ち位置とは、
読者のメールで言うところの、

>表現をがっちり支える
>安定した基点ではなくて、
>むしろジレンマとか葛藤とか、
>巻き込んだ人をもみくちゃにして、
>否応なく戦いを強いてくるような
>渦みたいなものであることも
>多いんじゃないかと。
>その渦から懸命に立ち上がってくる人の姿が
>持っている迫力って
>やはり無視できないように思います


というものなのではないかと思います。

どんな質問をするか?
どんな記事を書くか? ではなく、

どんな自分が取材に行き、
どんな自分がその記事を書くのか?

僭越ながら、あのライターさんに欠けていたのは、
そこではなかったか、と思うのです。
たぶん、習慣的な疲れから、そこを考えなくなった、
考えるのをやめてしまった、
私には、そんなふうに映りました。

どんな自分がその質問をしているのか?
いまこの話を聞いている、自分はどう感じているのか?

自分の立ち位置を知らない人は、
結局、未知のものがきて、
自分とは何かに、立ちもどらされそうになったとき、
恐くなって、あるいは、おっくうになって、
目の前に広がる、未知の面白さに乗るよりも、
自分の準備してきたマップに、すがりついて、
知らず知らずに、強引にそこへ話を引き戻し、
その範囲の中で、
相手の話を聞いてしまうようなことになる。

ゴールを明解にして、聞く・話す、
自分なりのマップをもって人の話を聞く・話す、
そうした戦略的コミュニケーションは、
ビジネスなどのゴールのはっきりしたシーンで、
効率をあげるのに有効です。

でも、ゴールが不透明なとき、
2人で、予想もつかなかったゴールへと
たどりつこうとするときに、
必要なのは、地図ではなくて、「立脚点」、つまり、

>どこから、どんな切実さで、
>どんなふうに発信された表現なのかが
>明らかになっている

ことではないでしょうか。

未知に臨んだとき、
自分の予定地図は、
手放しますか? にぎりしめますか?

…………………………………………………………………


『17歳は2回くる―おとなの小論文教室。III』
(河出書房新社)



『理解という名の愛が欲しいーおとなの小論文教室。II』
河出書房新社




『おとなの小論文教室。』河出書房新社


『考えるシート』講談社1300円


『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円



『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2006-05-17-WED
YAMADA
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