YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson 289  アイデンティティを組み替える


もう、かなりまえ、
母が病気がちだったころのことだ。

父が、母に、「大正琴」をならえと強要していた。

「おまえは趣味をもってない。
 だから、いっこうに、元気にならないんだ。
 趣味をもて」と。

母は、このことが、よっぽど嫌だったらしい。

私に会うたびに、
「うちは、大正琴なんか習いとうねぇ!」
とこぼしていた。

姉がお嫁に行って、
私が大学に行って、
家に子供がいなくなってしまってから、
母は、心臓を悪くした。
なかなかよくならない。

それで、まわりは、何とか元気にしてやろうと、
私も、いまから思えば、なんと
母に、失礼なことをしてしまったことか。

あれが「母のアイデンティティ」の問題だったと、
どうして、あのとき、
そういうふうに考えられなかったんだろう?

母のアイデンティティは、
「子育て」を核に、
四半世紀以上も形成されてきたのだ。

核を喪失し、
アイデンティティが崩壊し、
そこから、代わりになる核をみつけ、
再びアイデンティティを組み直す、という一大事業に、
母は、たったひとり、トライしていた。

ときたま、定年退職をしてから、
すっかり気力をなくしてしまった人に、
まわりが、はやく元気になってもらおうと、
地域の老人サークルに出るよう強要したり、
とってつけたような趣味を
あてがおうとしたりするのを見る。

それで、
ただ年配という切り口だけで集められて、
これといって共通項のない面々が、
「お茶会」をさせられていたり、
おしきせの「趣味をあてがわれ」て、
なんとかそこにとりつこうとして、
盛り上がらない光景をみると、
よけいわびしい感じがするのだ。

アイデンティティを失った人に、
「趣味」や「場」を、外からあてがおうとすることが、
なかなかうまくいかないのはなぜだろうか?

ひとつには、「連続性」がないことと、
もうひとつ、「構造」がちがう。
私は、そう思う。

専門家でもなんでもないので、
何一つえらそうにはいえないが、
経験から、切実に、そう思うのだ。

「大正琴」というのは、何一つ、
母のそれまでの人生・人格と「連続性」がない。

唐突に、ぽっ、と出てきた趣味だ。

それでも、母が好きならいい。
だけど、母はいやがっていた。

それでも、もし、まわりが強く勧め、
もし、母も病気で自信をなくし、
自分を捨てて、
まわりの声にしたがったとしたらどうだろう?

人生でこれまで一度も接点のなかった音楽、
しかも好きではないこと、
すいすいうまくいくわけがない。

かえって自信をなくし、
それでもがんばり、
それでものれなくて疲れ、あきらめ、
ひとつまちがうと、かえって消耗させたかもしれない。

父のやったことは危険なことだった。

しかし、母は、いかに病気をして弱っていても、
人の指図に頭までなびかせることはしなかった。

趣味ということに関していえば、
母は時間をかけて、
「パッチワーク」という趣味を自分でみつけてきた。

母は、洋裁も和裁もでき、とくに洋裁が得意だった。
小さいころから、姉と私の2人分の服は母が縫ってくれ、
着るたびに、友だちから、うらやましがられた。
洋裁は、母の感性のみせどころであったし、
「布が大好き!
 生地をみたり、集めたりするのが大好き!」
と、母は、昔から言ってた。

「パッチワーク」は、
そういう母の人生と連続した趣味だ。

地元のパッチワーク教室で、
母の手並みがほめられるのに、時間はかからなかった。

しかも、使った布を一つ一つ指差しては、
「これは、お姉ちゃんが子供のときのあの服の生地、
これは、おばあちゃんの着物の布、
これは、あんたが、おみやげにくれた布」
というように、
母にとって、かけがえのない想い出・人生が、
生地を通して、ふたたび、
ひとつの作品の中で、つながり、
息をふきかえしていった。

過去から現在へとつづく「自分の連続性」と、
「自信」をとりもどしていくのに、
母は、自分で、強い趣味をみつけたなあ、と思った。

ただ、趣味はやっぱり趣味だ。
それが直接、母の新たなアイデンティティの核に
なったのではない、と私は感じる。

「趣味じゃないんだ!」

これは、会社を辞めて、
アイデンティティを失っていたときの
私の、心の叫びだ。

再び社会に入っていくのが難しくて、
私は、なんどか、自分をあきらめさせようとした。
「昔は、女は働いていなかったんだから」とか。
「人生50年という時代もあったんなら、
残りは余生でいいじゃないか」とか。
それで、私も、趣味をもとうとしたり、
習い事をすることも考えた。

でも、ちがうのだ。

人・モノ・金・サービス・情報が、激しく循環している
きびしい社会に身を置いて、
ずっとずっとやってきた人間が、
いきなりそこから切り離された「趣味」の世界に
生きろといわれても、
そこは、社会とつながってない。
「構造」がちがう。

「それでもまだ、
 自分は人や社会とつながっていたい!」

私はそのとき切に願った。

母もそうだったと思う。
大正琴だろうが、パッチワークだろうが、
生き、動き、育ち、話し、巣立っていく、こども……。
人間相手の「育児」というものと、
いわゆる「趣味」といわれる程度の「趣味」は、
差し替えることができない。

本気の趣味ならもちろんアイデンティティの核になる。
でも、そういうものを育てていくのは、じっくりだ。

母を立ち直らせたのは、
ふるさとの人と人とのつながりだったと、私は思う。

「子供」を中心に
四半世紀以上組んできたアイデンティティから、
こんどは、「自分のために生きよう」と決心して、
親戚や住みなれた土地の人間関係に自分をひらいた。

いなかは、つくづく、中高年を暮らすのに、
よいところだと私は思う。

母は、兄弟姉妹も多く、
それぞれが結婚し、子や孫を産み、
あちこちにちらばっている。
親戚の付き合いを大事にしてきた母にとって、
そのネットワークは、相当なものだ。
さらに、何十年と住み続けてきた土地の人の縁も大きい。

気がつけば、いまは、
姉妹たちと、万博に行く、花を見に行く、
パッチワークの先生と生地を買いに行く、など、
母はずいぶん楽しそうだ。

でも、母を元気にしたきっかけは、
親戚が入院したときだった。
思いのほか、母が、入院した親戚のために
テキパキとたちまわり、頼りにされ、感謝された。

地縁・血縁の中で、「自分が必要とされている」、
「自分が人に役にたてる」。
このときの母はほんとうにいきいきとしていた。

たくさんたくさん親戚がいるから、
やれ入院だ、やれ結婚だ、と、
あちこちで日々何かが起こる。
そこに自分をひらき、
できることをしてあげる母のもとへ、
困ったときは、また、手が差し伸べられる。

この人間関係の中で
母は生きている、生かされている、と思う。

自分が自分であるために、一人の他人を要する。

この社会では、
若者のアイデンティティの問題はとりあげられるけれど、
なかなか、中高年のアイデンティティの問題は
取り上げられない。

2007年問題で、講演に呼ばれても、
企業は、団塊の世代の大量退職で、
社内に情報が引き継がれないことばかりを気にし、
退職後、アイデンティティの組み替えを要する人が
大量に街にあふれることを問題にしない。

先日、ワークショップで出逢った女性は、
ずっとNHKに勤めていて、
だんなさんの親の介護のために会社を辞めたという。
自分で納得してやめた。
介護と家事の生活はやりがいもある。
それでも、日々、自分が透明になっていく、
この感じをなんと表現したらいいのかと、訴えていた。

以前、ワークショップで出会った男性は、
あと10ヶ月で定年退職、カウントダウンだといった。
ずっと経理畑で生きてきて。
会社人生で最大の星は、
先輩がミスしていて、払いすぎていた税金を見つけて
取り戻したことだと言った。
会社のために5、6千万のお金をとりかえしたと、
そう言ったとき、場内から拍手がまき起こった。

しかし、あと、2年で定年というときに、
まったく経理と連続性のない、
お客さま相談室に配属になったという。

企業の、人事異動の、いくつかの軸の中に、
「効率」とならんで、
「アイデンティティ」という項目があったなら、
定年まぎわに、
まったく連続性のない配属をするだろうか?

とくに母のように、家庭にいる女の人は、
そのつらさを、
アイデンティティの問題とは見てもらえない。
「ない」ことにされている。

それで、病気を克服するとか、
老後をエンジョイするとか、
老いを受け入れるとか、
負担にならない介護術とか、
別の問題にからめとられてしまう。

自分が自分であるために、一人の他人を要する。

日々、透明になっていって、いま苦しい人に、
せめて、私だけでも、
僭越だけど、声高にこう言いたい。

それは、
病気を克服するとかしないとかの問題ではない。
それは、
余生をエンジョイするとかしないとかの問題ではない。
ものは考えようとか、
趣味があるとかないとか、性格がどうとか、
そういう問題ではない。

あなたの尊厳とアイデンティティの問題なのだと。

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『おとなの小論文教室。』河出書房新社


『考えるシート』講談社1300円


『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円



『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

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2006-03-01-WED
YAMADA
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